父は性差別主義者で、義父は人種差別主義者。
ー あなたは差別をしたこと、もしくはされたことがありますか?
私は差別をされたことがありません。断言します、ありません。しかし差別をしたことがあるのかと聞かれれば、あると答えるでしょう。まず第一前提に、タイトルの父と義父についてなのですが、私は彼らを差別主義者だとも捉えていません。しかし、私と同様、誰かにとっては我々が差別主義者なのだと言えるのでしょう。
滲んでるようでカテゴリに束縛される時代。
この2024年現在、一体、何種類の差別がこの世に存在しているのだろうと気になったことはありませんか?私は日本を出て、ヨーロッパに住むことで差別について、より意識するようになりました。何故なら、その発言一言で、あなたは犯罪を犯し、あなたは職を失うこともあるからです。
人種差別
性差別
年齢差別
宗教差別
外見差別(ルッキズム)
病人差別(障がい者差別)
学歴差別
職業差別
集落差別
身分差別
今私が簡単に挙げるだけでも、これだけの差別が世界には存在します。聞き覚えや、周りにはないと思われる内容も、実は身近に、何なら自分自身に降りかかっていたりするものです。これらの差別を身近な例や、体験から考えてみましょう。
まず人種差別については近年、世界的に防止、撲滅傾向にありますが、まだまだ多くの問題や物議が世間を騒がせています。日本は特にそれらが遅れているとも言われています。身近なケースでいうと、外国籍というだけで賃貸契約ができない、見た目が日本的じゃないが、日本生まれなのに英語メニューを渡される、英語圏出身じゃないのに英語で話しかけられる。などです。
また、こんな事も実体験としてありました、私が過去に住んでいたシェアハウスは、インターナショナルな環境だったのですが、ハウスメイトのインド系オランダ人と両親の話をしたときに、私の固定観念が原因で、サリーなどの民族衣装の話をしてしまい、喧嘩になったことがあります。何故なら彼女の両親もオランダ生まれだったので、宗教的背景や文化的背景もオランダ人として生きてきたからでした。
性差別についても大変話題ですね、特に現在LGBTQ+を意識しなければならないことも常識化しているので、大変センシティブな内容だと思います。しかし、こんな事例は、あなたにどんな考えを与えますか?
薄っすらと髭を生やしストッキングを履いた女性的ファッションの人が公園の女子トイレに入っていく。
身体整形中で下半身がまだ男性になってないが見た目が明らかに男性で髭も生え、短髪の男性姿の人が女風呂に入ってくる。
どれも私の身近で聞いた話で、これに抗議をすると性差別だという国もあります。しかし同時にわきまえてくれよという感情が出るのも事実。自分の子供や家族を守るためにも、変質者が女子トイレに入るのを防ぎたい。しかしその人が変質者じゃないなんて一体どう見分けるのか。ここも課題なんです。
年齢差別、宗教差別においては社会に属する事に制限をかけようとする者もいます。例えばヒジャブをしながらこの店では働けない。女性でこの年齢なら産休に入るか、寿退社するだろうなどの判断など。50歳を超えたシングルの人の賃貸契約も難しくなってきてるといいます。ちなみに私の住むベルギーでは履歴書に年齢を書く必要はなく、賃貸契約に関しても年齢による契約拒否は違法となっています。
外見差別(ルッキズム)についてはアジアが最もひどいのではないのだろうか、と個人的に感じています。例えば五十代女性の生足が見たくないからショートパンツやミニスカートを履くな。とか、頭髪の薄い男性をいじるだとか。ボディシェイミングもその一つです。そんなことをいう人や、言われた人、是非とも夏にヨーロッパへ来ていただきたい。何歳だろうと、どんな体系だろうと関係なくビキニを着て、ミニスカートにこんがり日焼けした生足を見せてくれるでしょう。薄毛のおじさんもダンディに人生を謳歌しています。そんな発言をしてしまったこと、恥ずかしくなるに違いない。
病人差別(障がい者差別)は最も人々が難しいと思っているところなのではないでしょうか、何故なら人は、未知が怖いから。例えばHIVの既往者と食事や銭湯へ行くのが不安になる人も多いのが事実。また、私からしたら、自分が健康で五体満足なのに両足動かない人の人生なんて未知も未知なのだから、手助けしてしまいたくなるのも当然だといえます。それが尊重の欠如になり得て、それすらが差別だと言われたとしても。
学歴差別や職業差別についてはどうでしょう、私は大した学歴を持っていませんが、そこにも差別を受けたことがありません。しかし東大卒、ハーバード卒の私の友達は多くの差別を経験しているといいます。また職業差別もそうでしょう、風俗店、ホストで働いてる人は未納税者だとか、医療従事者のコロナ差別も記憶に新しいところ。
集落差別は最近起きている戦争によって如実に見受けられる。ロシアに住んでるから悪。ウクライナに住んでるから悪。パレスチナに住んでるから悪。イスラエルに住んでるから悪。などもそうだけれど、足立区だからどうだ、池袋だからどうだ。というのも都内の人ならよく聞くことでしょう。意外にも集落差別はものすごく身近です。私が小学生の時、母が”団地の子”と一括りにしていたのを思い出すと今でも気分がよくありません。
身分差別は世界的に考えるとタイトルを持つ者と持たない者、の差別が多い。例えば、コロナ期間中、私が深夜のバイトでコンビニで働いていた時に同じ国出身のネパール人同士があまりにも避け合っていて不思議でした。しかし聞いてみるとカーストの違いで、彼らと同じテーブルで食事はしないし、彼らの触ったものは食べない。と言ったので驚愕だった。先ほどの”団地の子”もそうでしたが、日本でいえば収入や、身なり、育ちで判断することも多いのだろうと感じる。
思ったよりも差別は身近に存在すると思いませんか?
あなたが、私が、彼らが差別主義者になりうる理由。
ここまで話してきた事を通して、今一度、思い返して欲しい。あなたは差別をしたことがあるだろうか?
タイトルでもあるように、私の父は性差別主義者、義父は人種差別主義であると定義する者もいるだろう。何故なら、私の父は、男なんだから甲斐がないと、女は男を支えないと。35までには子供も考えないとな…。などと言う。典型的な五十代の思考と言えばそうなのかもしれない。しかし、いつか彼は性差別主義者だと引っ叩かれる日が来るのではないかと冷や冷やしている。また義父は、日本は床で寝るんだろ?両親は椅子に座ってご飯食べるの?と初めて会った時に面白い質問をしてきた。しかし、これは単純な疑問であって、私にとってなんとも感じなかったのだが、周りにいた家族は青ざめて義父を止め、私に謝罪をした、むしろ私にとっては、その状況の方が不自然だった。
私たちはこうして、自分の”普通”から物事を判断する。私に脚がなかったら大変だからとか、私は椅子に座って食事をするけど、何で床に座って食事するの?とか。義父のように悪びれることなく無神経な質問をしてしまうのだろう。
しかし根本の、私たちが差別主義者になってしまう理由は、本人である私たちの手の中にはない。それは受け取り手が判断するから厄介なのです。
過去に、今となっては親友の、アフリカ系アメリカ人に「今日の髪型綺麗ね」と言って彼女を泣かせてしまったことがある。当時彼女はブレイズで脱毛症を患っていて、その日はウィッグを被っていたそうだ。そんなこともちろん私は知らないので、彼女が泣いて怒鳴ってきたことに、理不尽さまでも感じ大喧嘩に発展した。
私は単純に美しいと思ったから言ったまでで、それを文化上の、人種上の差別だと捉えられるのは腑に落ちなかった旨をしっかり伝え、和解し、より仲が深まったのですが、こうして差別という地雷はどこを歩いていても存在するのだと悟ったのです。むしろ日本が海外から差別が多いと言われてしまう、多くのケースが、この地雷を踏んでしまっているパターンだと私は感じるのです。
”賃貸契約 外国人お断り”これも世界ではかなり重い差別。しかし、示談交渉の仕事の経験がある私は、その文言の背景を知っているので、否定的な考えにはどうもなれません。というのも、貸主側にはこんなトラブルがあったりするのです。
ベランダで鳩やアヒルを血抜きするために干してる
家の前に洗濯機とマットレスが捨てられている。
ごみの分別を守らない。
10人くらい、いつも出入りしている(住みついている)
油を排水溝にそのまま流す など…
一概に外国人のせいにはしたくないものの、その貸主のケースでは、9割が外国人契約者による問題だったそうで、住んでいた日本人たちはどんどん退去し、経営不振に追いやられ、更に、ごみや配管の処置費用も莫大に掛かり、外国人への貸し出しを拒絶した。という背景でした。もちろん貸主は中国語、韓国語、ミャンマー語、英語、日本語で注意喚起を書類で送りましたが「日本語わからない。」の一点張り。
これは差別でしょうか?区別でしょうか?それとも地雷なのでしょうか。
世の中は平等を掲げて不平等へ走っている。
白人は生まれながらに特権を持って生きていると十字架を背負うように生活する者がいる時代。素直に美しいと言って差別だと言われる時代。トイレに不思議な服装の人が入っていったから、娘の安全を心配し差別だと言われる時代。そんな世界が私にとって息苦しくてならない。
LGBTQ+に平等な権利を。と掲げて、オリンピックで元男性が重量選手としてオリンピックに出場。何年もトレーニングをしてきた女性たちが敗退。世の中の平等性は本当に保たれているのだろうか?
ただ、こんなことを話すと私はアンチジェンダーレスだと思われるかもしれないので言っておく、私はパンセクシャルだ。現在ストレートのパートナーがいるだけで、ジェンダーにとらわれて恋愛をしたことは無い。しかし、誰かにそれを認めてもらおうと思ったこともなければ、その類のパレードへも参加したことがありません。
何故なら、カテゴリが増える毎、私たち自身が、自由を失うと感じてるからです。パレードをして誰かに受け入れられたいのなら、受け入れられないことも受け入れなければならないと言うこと。要するに、ニップレスに網タイツでパレードをすることを良しとするなら、子供たちにそれを見せたくないという親がいることも良しとするべきなのです。
結論から言うと、他人とこの地球を共有する以上、差別がこの世からなくなる事はなく、自分が明日にでも、いや、今日あなたがした発言が、あなたを差別主義者にしているかもしれない。
カテゴライズされたくないと、ユニークを主張する以上、オリジナルや少し前にあったユニークを否定することにもなるということ。それが結果として、より多くのカテゴリを生み、自分を自分で型にはめることになってしまうことに繋がってるのだと、少しでも共感、もしくは考えるきっかけとなっていただければ幸いです。
もちろん誤解を生んだことで生じた差別ではなく、本当に意思をもってアジア人なんて!黒人なんて!といった、暴行、横行の差別に対しては断固反対ですが、今回は別のアングルから差別について、お話したく、この記事をアップするか悩みましたが共有する事にしました。
こんな思想を怖がらずに発信したっていいじゃないか、受け入れられなくてもいいじゃないか、差別したって思われても、自分の思想や考えを伝えられるのなら、社会の差別に恐れる必要もそんなにないのかもしれない。
むしろあなたがそこに地雷を置いてしまっただけで、実は相手には差別心など微塵も無いのかもしれない。今一度、広い視野で、カテゴリを外して世界を見るのも大切なのかもしれない。
あなたは差別をされたことがありますか?もしくは差別をしたことがありますか?
以上が「父は性差別主義者で、義父は人種差別主義者。」でした。
それではTot de volgende keer !
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?