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落合陽一的な世界を迎えるための教育④ 2017年の佐藤ツヨシな思考

3年前の自分はアクティブラーニングに違和感を覚えていた

いや、今もだけど。

おそらく、マニュアル通りに形だけ真似すれば良いみたいな流れに反発してたんだなと。
さて、はじまりはじまり。

最近の教育のワードとしてトレンドになっているアクティブラーニングなんですけど、すごく違和感。

アクティブラーニングというのは何を指すのか。

生徒がアクティブに学習を行うというとそのままなんだけど
色々な意味を含んでいて非常に曖昧なものになっている。

生徒がグループワーク"のようなもの"をして今までとは違う授業形態で授業を受けているのがアクティブラーニングだとすれば、それはどの程度意味を持つものなのか。

結局、黒板を使って知識を享受する授業も先生がアクティブラーニングを頑張っている授業も生徒がパッシブであればそこに何も変化はない。

生徒はアクティブラーニングをパッシブに受けているという非常に面白い状況になっていることも多々見受けられる。

アクティブラーニングというのは生徒の気持ちや頭がアクティブに動く、そのような授業なのではないでしょうか。

つまり、落合陽一さんが話されている"エモ"というのがキーワードになっていて、
この"エモさ"を持った状態で行っている学習がアクティブラーニングになるのではないでしょうか。

もしくはこの"エモさ"を育てる、"エモさ"の萌芽を育成するのもアクティブラーニングの1つの側面なのではないか。
アクティブラーニング型の授業は決してアクティブラーニングとイコールではないということです。

科学技術の発展により肉体は衰えるスピードが落ち、しかし一方で精神は肉体が衰えない代わりにこれまで通りのスピードで衰えてしまう。
このギャップを埋める、精神を衰えさせない、エモさを維持させる、これらがアクティブラーニングの指す、アクティブさなのではないか。

最近そう思うようになりました。

生徒のマインドをアクティブにさせる、その仕掛けを作るのが教員の役割だと思います。

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