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映画『愛がなんだ』を、27歳・男子の僕はこう観た

【『愛がなんだ』/今泉力哉監督】

痛々しくて、情けなくて、残酷なほど生々しくて、それでも圧倒的にリアルで正しい「等身大」の恋愛映画。『勝手にふるえてろ』、『チワワちゃん』など、近年、その系譜に連なる傑作が次々と生まれているが、この『愛がなんだ』は、はっきり言って桁が違った。

《全部が好き。でも なんでだろう、私は彼の 恋人じゃない。》

このコピーを見て、ハッとさせられた人は少なくないのだろう。事実、都内の主要な映画館では、各回で完売が続いている。インディー系の作品としては、異例の特大ヒットを記録している今作を、遅ればせながら鑑賞してきた。


まず、ど頭のシーンから惹きつけられた。風邪を引いたというマモちゃん(成田凌)からの電話に「うん、うん、今から、ぜんぜん大丈夫だよ」と答えるテルちゃん(岸井ゆきの)。既に帰宅しているにもかかわらず、「ちょうど会社を出るところだった」と嘘をつきながら、マモちゃんの家に向かう支度をする彼女の「目」は、もはや狂気さえも感じさせるものだった。

そう、テルちゃんは、俗に言うところの「重たい女」である。それでも、当の本人にとっては、ただただ真っ直ぐで、いつだって真剣だ。そんな恋愛まっしぐらな彼女に、はじめは呆れ果てていたはずの観客は、その突き抜けた想いに触れるにつれ、ゆっくりと惹かれていく。不器用でカッコ悪くて、時には「5周先回りした行動」に目も当てられなくなるけれど、なぜだか不思議と他人事とは思えなくなってしまう。

このように書くと、まだこの映画を観ていない人は、テルちゃんも観客も、不幸の沼にズブズブと引きずられていくように想像するかもしれない。それでも、劇中で語られているように、テルちゃんが「死にたい」といった弱音を吐かない芯の強さを持っていることが、この映画の救いになっている。痛々しくてもすがすがしい。軽率と言われようとも、最短コースを全速で駆け抜ける。どこまでも「ポップ」な輝かしいオーラをまとったテルちゃんは、とっても魅力的だ。


それに、この「等身大」の恋愛映画の主人公は、何もテルちゃんだけではない。27歳・男子の僕としては、マモちゃんとナカハラくん(若葉竜也)の行動/言動/思考の一つひとつを観ながら「ああああああああ」と空いた口が塞がらなかった。(マモちゃんとテルちゃんが散歩をしているシーンで、どちらが車道側を歩いていたか。気が付いた人は少なくないだろう。)そして、胸が締め付けられるほどに共感してしまった。

みんな、ダメダメなんだ。ここには、恋愛の華々しさも、美しさも、輝かしさもない。それでも僕は、この映画に出てくる全ての登場人物が、心の底から愛おしく思えた。そして、映画を観終わった後も、この世界のどこかでテルちゃんやマモちゃんたちが生きているように感じる。そこまで思わせてくれる映画、そうそう出会えるものではない。


そして、映画を見終わった後に気付いたことがもう一つある。今作のポスターアートに用いられている、「マモちゃんがテルちゃんをおんぶする夜道のシーン」は、本編の中では使われていなかったのだ。

なぜ今泉監督は、この象徴的なシーンを大胆にカットしたのだろうか。もしかしたら、今作には「幸せ」なシーンは必要なかったのかもしれない。いや、そのシーンがなくても、「等身大」の恋愛の尊さを描き切る覚悟を、今泉監督は持っていたのだろう。

角田光代の原作小説は2003年に刊行されたものだが、この映画に込められた「等身大」の恋愛観、そして生き様は、結果として、この2019年という時代と共振を果たした。原作の結末の先に用意された「震撼のラストシーン」の演出を含め、恋愛映画の旗手・今泉監督の手腕が、この企画においても見事に発揮されたと言えるだろう。

そして、「等身大」の恋愛映画の、新たな金字塔がここに打ち立てられた。僕はこの先、この映画を何度も観返すことになると思う。それほどに愛おしく、大切な作品となった。




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松本 侃士
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