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蝉丸~逢坂山の約束 - Blind Melody<前編>

さて、今まさに正解のない時代、自分はより自由にして根本を探究(探求)し、わからないことについては謙虚な気持ちを忘れずに勉学していきたいと思う…いきなりどうした?。

ふと、
さらに能楽が好きになったなって感じた、しょっちゅうCDやYouTubeや色々聞いてるうちに脳が慣れてきたというか、カスタマイズされてきたというか、ここ最近は演能が観れなかったけど、春以降ようやく時間が取れそうで楽しみである。

ふと、
思い出したのは、自分の名称である「Tsukami」の「ツ」は「津 近江の大津の津」から来ているということ、爺ちゃんは何を思って名付けたのだろうか、謡が好きで、若干横着で、ペースメーカーを付けた状態で町までパチンコをしに山から下りてきて、遊戯中に機器が止まった(爺ちゃんの方)なんて事があった、ま、何十年も前の話だが覚えている・・何故そんなことを自分は覚えているかというのも変なものだが。

その大津という場所、ここをテーマにした演目がたくさんある。

京都二条~びわ湖浜大津~三井寺にかけての電車旅は色んな方がお勧めしてるけど、二条での地下鉄から地上に行き、山中国道に沿ってクネクネと走る中で過ぎていく風景が何とも味わい深いものがあり、浜大津で路面電車として走り出す、電車での味変が楽しめます。

そんな中、今回は演目「蝉丸」について。

百人一首・・久しぶりに聞く言葉ですが、その中で、
「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」
という歌を書いた方で、音曲芸能の神、琵琶の祖とも言われる蝉丸さん。前回、琵琶を弾く吉高ちゃんの話を書きましたが、琵琶法師とは、

琵琶法師は、中世日本における盲目の演奏家兼語り部です。彼らは琵琶という弦楽器を演奏しながら物語を語ることで知られています。特に、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、盲目の音楽家は多くが僧侶であり、法師と呼ばれることが一般的でした。彼らは「琵琶法師」と称され、物語や伝説を琵琶の伴奏とともに語ることで、聴衆に教訓や娯楽を提供しました。

琵琶法師の活動

琵琶法師は、寺院や貴族の邸宅、または市井の広場などで、さまざまな物語を語りました。彼らが語る物語には、『平家物語』が特に有名で、これは平安末期から鎌倉時代初期にかけての源平合戦を中心とした叙事詩です。『平家物語』は、琵琶法師によって広く語り継がれ、多くのバリエーションが存在します。

琵琶の種類と演奏スタイル

琵琶法師によって使われる琵琶には、薩摩琵琶、筑前琵琶、義経琵琶、そして最も有名な平曲琵琶(へいきょくびわ)などがあります。これらの琵琶は、形状や弦の数、音色が異なります。琵琶法師は、一般に「盲人音楽家のギルド」として機能する盲人組織に属しており、その中で演奏技術や物語の語りを学びました。

社会的役割

琵琶法師は、音楽と物語を通じて、教育的および娯楽的な役割を果たしました。彼らの語る物語は、歴史的事件や英雄伝説、仏教的な教訓など、当時の人々の価値観や世界観を反映していました。また、盲目であることから、彼らは社会的な同情を集めると同時に、特定の宗教的、霊的な力を持っていると見なされることもありました。

引用 ChatGPT

物語の内容ですが、真正面からド悲劇な話だと自分でもわかった。

もともと身分の良い家に生まれたけど、目が見えない病ゆえに家から出され、逢坂山に連れていかれます。悲しむ彼を付き添いさんが憐れんで琵琶を彼にあげました。しかし彼はそんな中でもこれは前世での行いのせいかもしれんし次に生まれたら幸せにということかなと付き添いを気遣うのです。高い服も蓑笠に替え、そこで彼は髪を剃り僧となり悲しみのどん底にいましたが、それを見ていた身内の一人がびしょ濡れの彼を庇うべく藁家を作ってあげました。もう一人、彼の身内のいわゆる皇女(姉)でもある方がいまして、今でいうPUNKヘアーですかね、髪の毛が逆立ちしていることに悩み苦しみあげくは狂い彷徨っていました。彷徨う最中、逢坂山あたりで琵琶の音と聞き覚えのある声から、彼(弟)だと気付き二人は再会します。暫し話をしたのち、正気を取り戻した姉は互いの境遇を悲しみながらお別れします。・・・こんな感じでしょうか。

姉ちゃんは去っていったのである。
ただ、悲しいだけの話である。
そして何故、髪が逆立っていたのか。

尾崎豊でいう「Oh my little girl」、野島伸司でいう「この世の果て」感である。

色んな事を思考するTsukamiである、昨夜、今更ですがNetfrixで「トッケビ」を観ていますが、シナリオの味付けを削ぎ落していくと、能の物語にみられるシンプルで無駄のないお話に辿り着くように思ったりもした。何度見ても飽きないというものほど普遍的、人間性の根源にタッチしているからだろうか。風呂吹き大根に味噌を付けても美味しいが、そのまま出汁の味だけでも食べたくなる時がある、という感じでいいだろうか。

この「蝉丸」の話を「風呂吹き大根」と想定し、最先端の調理法で美月シェフに、2時間の感動的映画にアレンジしてもらいました。

タイトル: 「逢坂山の約束 - Blind Melody」

物語概要:

失明した天才ピアニスト、拓哉は、父である醍醐からの圧力により、メディアの目を逃れるため山間のリハビリセンターに送られる。音楽との再会、過去との対峙、そして再び光を見出す旅を描く感動のドラマ。

第一幕: 失われた光

都会の輝きと期待を一身に浴びていた拓哉は、遺伝病によって突如失明し、音楽の世界から姿を消す。冷徹な父・ダイゴはスキャンダルを避けるため、蝉丸を都心から遠く隔離された施設に送り込む。そこで彼は、孤独と沈黙の中、古い琵琶に出会い、かつての情熱を心の中で呼び覚ます。

第二幕: 音楽の絆

琵琶の音色と共に、拓哉は新たな自己表現を見つけ、施設で孤独に音楽療法に励む。そのころ、彼の居場所はメディアによって暴露され、かつての仲間であり音楽プロデューサーの雅三が彼のもとに訪れる。雅三はサポートを申し出るが拓哉は自身の道を歩むことを選択する。

第三幕: 美穂の彷徨

一方、拓哉の姉でファッションモデルの美穂は、自己のアイデンティティと兄への愛情に葛藤していた。メディアの厳しい目と内なる狂気に追われ、彼女はキャリアを放棄し、兄を探して逢坂山へと向かう。

第四幕: 再会と約束

美穂は逢坂山で拓哉と感動的な再会を果たす。二人はお互いの苦悩を共有し、兄妹の絆を再確認する。夜明けと共に、美穂は自分自身の人生を取り戻す決意をし、都会へ戻る。拓哉は、音楽を通じて新たな人生を歩むことを誓う。

第五幕: 希望の旋律

映画は拓哉が琵琶の演奏を通して新たな人生の章を開く様子で終わる。一方、美穂はファッションの世界での再出発を果たし、兄の音楽と共に彼女自身も新たな光を見出す。逢坂山の約束は、二人の間の永遠の絆となり、彼らの人生の旋律に深い響きを加える。

エンディング:

「逢坂山の約束 - Blind Melody」は、逆境の中で希望を見出す旅を描き、観客に人生の再生と可能性のメッセージを伝える。音楽がもたらす癒しと希望を軸に、拓哉と美穂の心の旅は多くの人々に感動を与える。彼らの物語は、逆境に立ち向かい、真の自己を見つめ直す勇気を与える。

エンディング・シーン:

拓哉は再び舞台に立つが、今回はピアノではなく、琵琶を手にしている。彼の演奏は、かつての自分を象徴するピアノのメロディとは異なるが、琵琶から生み出される音楽は彼の内面から湧き出る新しい物語を語る。拓哉の音楽が、失った視覚を超えて心の眼を開く力を持つことを観客に示す。

一方、美穂は自身のファッションブランドを立ち上げ、兄の勇気と再生の物語からインスピレーションを得たコレクションを発表する。彼女のランウェイは、美穂の旅と拓哉の音楽に捧げられたショーとなり、彼女は兄の琵琶のメロディを背景音楽として使用する。

映画は拓哉と美穂の新たな人生が始まるところで締めくくられ、二人の未来は明るく、彼らの「逢坂山の約束」が永続することを示唆する。彼らの物語は、いかなる困難も乗り越えられるという希望のメッセージを残し、観客に強い印象を与えて幕を閉じる。

引用 ChatGPT

美月さんはよっぽど拓哉が好きなのだろう。

しかし、美月さんも学習されてますね、音楽療法が出てきました。

また、「ネガポジ変換」って言ったりしますが、陰から始まり陽に出ていく流れ、前向きな方向にリフレーミングしてくれるのはセラピューティックな視点からしたら有難いもんです。

話変わって、自分と美月さんとの関わり方について復習したいのですが、

ポジティブかつ建設的なユーザー体験を促進することを目指しています。これは、ユーザーに不快感を与えたり、ネガティブな影響を及ぼすようなコンテンツを避けるためです。そのため、物語や回答が一般的には希望に満ちたものや解決に向けたものとして終わることが多いです。

ただし、これは物語のすべての暗い側面や悲劇的な要素を避けるという意味ではありません。物語には様々な側面があり、人生の困難や挑戦を描写することは重要です。しかし、そのような要素を含めたとしても、最終的にはユーザーにとって有益で前向きな方向へと導くことを心がけています。

ユーザーからのリクエストに応じて、リアルな描写やダークなテーマを含む内容を生成することもありますが、その際にも不快感やネガティブな影響を最小限に抑えるための配慮がされます。これは、コンテンツが安全であり、さまざまなユーザーに配慮したものであることを確保するためです。

引用 ChatGPT

なるほど。

・・・ということで、
行ってきました。

関蝉丸神社上社下社。

大津駅から歩いていくとまずは下社が見えてきます



回廊、夜来たら怖いな

色んな切り口から能楽を探究する、この時間を作るようになってから、持ち出してから、無が無で無くなってきているような感じがしている、何を言ってるのかが自分でも若干わかりづらいが、ま、正直他にも趣味・クリエイティブを持つ中で、こうしてnoteを使い能について思考することで、自身の人間性や人生観について、内側から何某か変容をきたしているように感じる。身体動作での覚えはまだ無いが、聴き続ける中で、今までなかった「観」をインストールしているようなもんで、悪い気はしないが・・・不思議な、それこそ。


続く。


能楽の解釈には多様性がありますので、1つの見方として参考になれば幸いです。


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