『翠』 33
つい先日会ったばかりだというのに、というより、職場では毎週のように顔を合わせているのに、麻倉さんが隣にいるという現実が、まるで夢のなかで起こっていることのように、素直に受け入れることができなかった。
もちろん嫌という意味ではない。
スラッとした繊細な体つき、今にも折れそうなほど華奢な骨格、思わず抱きしめたくなるような背丈、触りたくなるほど艶やかなセミロングの栗毛。ここが電車の中や不特定多数の人が利用する公共の場でなくて、ほんとに良かったと、心の底から思ってしまう。
もし、まったくの面識もない状態で、こんなキレイな人を満員電車のなかで見かけようものなら、どうかすると痴漢などしかねない。そう思えてしまうほど、隣にいる彼女は素敵だった。店長が麻倉さんのことをオキニなのは、もちろんぼくも知っている。むしろ職場では四六時中、彼女につき纏っているので、気づかないほうがどうかしてる。ただ、その店長の男心もわからないでもない。
それほど彼女は魅力的だし、そこはかとない色気がある。嫌らしい意味ではなく、だ。どう喩えればよいのか、押しつけがましい派手さのある色気ではないのだが、ふとしたときに醸し出す控えめな色気がある。
既婚者じゃなければ、確実に言い寄っているだろうし、店長ほどガツガツ行くわけではないにしても、少なからず運良くLINEの交換もすることができたのだから、何かしらの口実にかこつけて、メッセージを送るだろうし、そうじゃなかったとしても、ここまで慎重に相手の出方など窺ったりしない。猛アピールとまではいかないまでも、自分のことを印象に残すくらいのアクションはかける。
既婚者であることが、ほんとに残念でならないが、既婚者であることに逆に感謝もしている。というのも、既婚者ということを名目に、少なくともほかの誰かから彼女を狙われる心配がないからだ。夫婦関係が上手くいってるのか、どうかは知らないが、そんなことはどうでもよかった。
自分のモノにしたいという感情を満たせるわけでもないが、それ以上にヘンな虫がつかないことのほうが、自分にとっては都合が良かった。すぐ隣にいるのだから、「このまま抱きしめてしまいたい。なんなら押し倒してしまいたい」という衝動が湧かないわけではないが、さすがに職場の人が大勢いるなかで、そんなことをするわけにはいかない。自分の下心を喩られないように、ほかの数名のサラダを装ったあとで、彼女の器にもサラダを取り分けてあげた。
「あ、もしよかっったら、これ……」
なるべく自然体で接するように、声のトーンを変えずに、サラダの盛られた器を渡すと、「あ、どうも……」と、ぎこちない笑顔で、その器を受けとる。
その際、器を受けとる彼女の指と、自分の指が不意に触れる。
「あ、すみません……」と、とっさに謝ると、彼女もそれに応じるように、
「あっ」と、短い声を漏らして、「いえ……」と、一瞬だけ頬を赤らめる。
お互いお酒が入っているので、まさかぼくに気があるわけでもないだろうが、そのふとした瞬間に出るさり気ない仕草が、なんというか男心を絶妙に擽ってくる。ほんとに罪深い人である。
本人に悪気などないことはわかっているが、そういう思わせぶりな彼女の行動に、果たして何人の男が勘違いさせられ、被害に遭ってきたのだろうか。まあ、自分もその一人といえばそれまでなので、あまり大きなことは言えないが、あそこまであからさまに逆上せ上がっている姿を見せられると、それが脈なしだとわかっているだけに、店長には同情せざるを得ない。狙ってやるあざとさと無自覚なあざとさ、同じく惑わせるなら、どちらが罪深いのだろうか。
「ところでさっきの話なんですけど……」
話す内容が思いつかず、さっき宙ぶらりんのままで終わってしまっていた話を、もう一度、蒸し返した。
「さっきの話?」
「あ、本棚の……」
ぼくの装ったサラダを口に運びながら「あー!」と、短く彼女が声を漏らし、「え? 何か不都合でも……」と、一瞬、不安そうな表情を浮かべる。
「いや、そういうことじゃなくて……」
「……」
どういうつもりで、そういう顔をしているのか、無言のままこちらを見つめてくるが、その彼女の真意が掴めない。不安げにも見えるし、こちらを弄んでいるようにも見える。店長が惑わされているのも、同じ男として納得がいく。彼女の色仕掛け?(本人はそのつもりはない)に屈しないように、なるべく取り乱さないように努めた。さっきはお酒が入っていたのもあり、話の流れでつい勢いで家に誘ってしまったが、冷静に考えてみると、男女が同じ密室に二人っきりという、シチュエーションになってしまうのだから、何か間違いが起きないとも限らない。
「あの、ほんとに大丈夫なんですか?」
「あ、旦那のことですか?」
「あ、はい……。いや、ほら、というか、自分から誘っておいて、何なんですけど……。幾ら職場の人の家に本棚を見に行くだけとはいえ、一応、ぼくも男なわけですし、冷静に考えてみたら、さすがに旦那さんにも悪いかな? って思って……」
「え? じゃあ、やめておきます?」
「あ、いや、それは……」
男である自分の本能と、社会人としての理性が心のなかで葛藤し、「じゃあ、やめておきましょうか?」とは、素直には言い出せなかった。
「わたしもだれかれ構わず、ほいほい着いて行ったりしないですよ……」
「え? それ、どういう意味ですか?」
驚きのあまり、とっさにそう口をついた。
「あ、いや、そのままの意味ですけど……」
どういうつもりで言っているのか、全然判らない。言葉のまま受け止めればいいのか、それともぼくに好意があって、つまりは男として意識していて、そういうことを言っているのか、たとえそこに深い意味はなくても、彼女の口から発された言葉は、その無自覚さ故に罪深い。とりあえず、不審な相手だとは思われていないだけ、まだマシかと思い直し、自分の落胆ぶりを喩られないように、
「あー、まあ、それはそうですよね? どういう相手かも、よく判らない相手の家に、幾ら話の流れで、『ぼくの部屋見に来ませんか?』って声をかけられたからって、ふつうは着いて行ったりしませんよね」
冗談めかして、てきとうにその場の会話を取り繕っていると、「あの……」と、彼女が唐突に口を挟んでくる。
「あ、はい?」
狐に摘ままれたような顔で、ぼくが振り向くと、
「実は、わたし、旦那と別れようと思ってるんです……」
と、不意に彼女が、とんでもないことを打ち明けてくる。
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