『翠』 32
「あ、やっと来た! もう乾杯はじまってるよ〜!」
と、座敷に上がり込むなり、奥の上座に座っていた矢代さんが、陽気に声をかける。すでに酔いが回ってるのか、ほんのりと顔は赤らんでおり、その横でちびちびとジョッキを傾けている店長に、「ねー 店長? 店長も寂しかったでしょ?」と、これみよがしに突っかかっていく。
急に話を振られ、店長が恥ずかしそうに俯きながら、「な、何をいいだすんだ。急に!」と不満げに口をモゴモゴと動かしている。
「え? まさか店長!?」
その一連のやりとりを見ていた周りのパートさんたちも、そんな店長の挙動不審な反応を見逃すまいと、矢代さんのあとに続いて、ここぞとばかりに応戦する。
「え? その反応は、いったいなんですか? 店長!?」
「なんか、麻倉さんが来てから、店長の挙動が、なんかおかしいんですけど!」
「あ、まさか、好きなの? 麻倉さんのことが?」
「え? 嘘? そうなの?」
と、態とらしく、囃し立てる。
呑みの席なのだから、多少の無礼講は仕方ないと思うが、みんなも分かってやっているところがタチが悪い。
「ちょ、ちょっ、もういいだろ!」
四方八方から寄って集って攻撃され、こりゃ堪らんと言わんばかりに、店長が不満げに顔を真っ赤にする。ただ、その際、あまりに顔を真っ赤にして言い返しているせいで、その場に居合わせた参加者の中で一斉に笑いが起きる。
座るところを見つけられず立ち尽くしていると、志田さんが、「おーい。こっちこっち〜」とでも誘うように、それとなく自分の座っていた席を一人分詰め、入り口付近で突っ立っていたわたしを手招きで呼ぶ。ちょうど入り口付近に座っていた志田さんの席は、店長たちとは対岸に位置しており、数人のパートさんたちの背中をかき分け、志田さんの座っていた横に腰を下ろした。
奥の座敷に座っていたパートさんたちはというと、「えーーー! ほら、店長が寂しがっているよ! こっちこっち〜!」と、不服そうに手招きをしていたが、悪乗りを繰り返す彼女らに見かねたほかの社員さんが、「もういいから!」と言わんばかりに、彼女らの腕を掴んで割って入る。
「なに飲みます?」
横に座っていた志田さんに声をかけられ、彼の差し出すメニュー表に視線を落とす。
お酒の名前だけ書けたメニュー表には、不親切にもドリンクの写真はついていなかった。どれを注文していいのか判らず、彼に視線を向けると、「これなんか、スッキリして飲みやすいですよ」と、すぐに彼が助け船を出してくれた。
ふだんお酒を飲み慣れてないだけに、よく判らなかったので、「じゃあ、それで……」と、彼に勧められるがまま、ギムレットというお酒を頼むことにした。
すぐに彼が後ろで待機していた、店員に声をかけ、「あの、これをお願いします……」とカクテルを注文してくれる。
「かしこました。ギムレットですね。すぐにお持ちいたします……」
と、彼女がタブレットに注文内容を打ち込み去って行く。
「あ、なんか、ありがとうございます。お酒はあまり詳しくなくて……」
言い訳を交えつつ、隣に座る志田さんのお礼を伝える。
「いえいえ……」とでも言おうように、彼がメニュー表を仕舞いながら、軽い会釈を返してくる。
会釈されて初めて気づいたのだが、こういう人の集まる場に着てくる彼の服装は、女性のわたしから見ても、とてもオシャレに映った。
正直、服のブランドなどはよく判らないが、べつにハイブランドなモノを着ているわけでもないのに、彼の着こなしが洗練されているからなのか、それとも彼の細身の体型のお陰で、そう見えているだけなのかは判らないが、ふだんはYシャツ姿しか見ることがないだけに、おしゃれ着の彼の私服姿は、すごく新鮮だった。
このあいだ偶然会ったときには、とくに人と会う予定もなかったからなのか、ラフな恰好をしていたこともあり、そこまで相手の服装を注意して見ていなかったが、こういう間近で、彼のことを至近距離で見ていると、いつも職場で見ているときには気づかなかったが、20代とは思えないほど、大人びているように見えた。
もしかしたら、さっきドリンクを注文したときに、さり気なく助け船を出してくれたり、前に雨の日に車で送ってくれたり、そのときに、決して強引な感じでもなく、傘を貸してくれたり、そういう過去の出来事が、わたしの彼へのイメージに補正をかけているだけなのかもしれない。ただ、ふとした瞬間に差し伸べられる、そういった彼の優しさというか、さり気ない気遣いが、わたしにとっては嬉しかった。
こんなところで気になっていることを、喩られるわけにもいかないので、なるべく彼とは目を合わさないようにしていた。彼のことを目で追いそうになるのを、理性でねじ伏せながら、会話中も目の前の小鉢に視線を落としたり、意味もなくメニューを見たりと、当たり障りなく接するように努めた。ただ、どうしても真横にいるので、必然的に会話の相手も志田さんに限られてくる。
「そういえば、外の雨大丈夫でした? けっこう土砂降りだったでしょ?」
濡れたスカートの裾を気にしながら、彼が訊いてくる。
「あ、ちょっと、濡れちゃって……」
「よかったら〝コレ〟使ってくださいよ」
そう言って差し出してきたのは、真新しいハンカチだった。
「あ、でも、これって、新品じゃないんですか?」
「あー、いいんです。べつに……、高いモノでもないんで、麻倉さん使ってください」
「あ、じゃあ、遠慮なく……」
差し出されたハンカチを受けとりながら、「すみません……」と、小さく会釈をし、雨で濡れたスカートの裾や、肩についた水滴を拭った。
「ありがとうございました」
そう丁寧にお礼をし、少しだけ水分を含んだハンカチを彼に返すと、「とんでもない……」とでも言うように、今度は彼が目もとだけで、小さく会釈を返しながら、そのハンカチを受けとる。
何か話を振ろうかとも思ったが、その話題が頭に浮かんこない。
「えっと……」
とくに何の考えもなく、声が出てしまった。ハンカチまで貸してもらって、何か話さなくてはいけないという焦りもあった。ただ、話しかけてしまった手前、何か話題を振らなくては。
「あ、そういえば……、本棚、完成しましたよ」
唐突に彼が口を開く。
「あ、この間、言ってたヤツですね」
思いがけず話題を振ってもらって、彼の話に便乗した。
「あ、はい。だいぶ部屋がスッキリしました」
「へー、そうなんですね。どんな本棚か見てみたいです。写真とかないんですか?」
「あー、生憎、写真とかは撮ってなくて……。ごめんなさい……」
申し訳なさそうに彼が謝る。
「いや、べつにそういうつもりで言ったわけじゃなくて」
慌てて弁解し、その場を取り繕う。
「もし良かったら、今度、見に来ます? 本棚……」
また、突拍子もないことを、彼が口にする。
「え? 見に来ますって、志田さんの家にですか?」
「あー、やっぱ、ダメですよね? いや、写真だけじゃ、どんな感じなのか伝わらないと思ったんで、実物を見てもらおうと思ったんですけど……、さすがに厳しいですよね。麻倉さん既婚者だし……」
そういうと彼が悲しそうに、目の前に置いてあった小鉢のヤングコーンの和え物を、一つ摘まんで口に運ぶ。
「あ、いえ、その、パートが休みの日で、平日の昼間だったら、旦那も仕事で家に居ないので……」
その言葉を口にした瞬間、彼が口に運んだヤングコーンを、噛むのも忘れて固まっていた。
「え? い、いいんですか……」
よほど驚いているのだろうか、口に入れたヤングコーンが、口から飛び出しそうになりながら返事をする。
「あ、はい。少しだけなら……」
「え? ほ、ほんとですか? 半分冗談のつもりで言ったんですけど……、え? でも、麻倉さんがいいなら……、是非!」
「え、ええ……」
思わず、彼の勢いに押されて、そう返事をしてしまう。
そのときだった。とつぜん閉まっていた引き戸が開かれ、注文していたギムレットを店員の女の子が運んできたのは。
「お待たせしました。ご注文の品です!」
そう言って手渡されたカクテルが、人伝いにわたしのもとに届けられる。
「お、じゃあ、改めて、乾杯しましょうか?」
と、誰に頼まれたわけでもなく、矢代さんが音頭をとる。
「それじゃあ、みんな飲み物が揃ったみたいなんで、店長のほうから、一言……」
とつぜんの無茶振りに、店長が困惑したように、「一言って、何を言えばいいんだよ!」と、照れ臭そうに苦笑いを浮かべる。
「もう、なんでもいいんですよ! ほら、早く!」
そのふたりのやりとりをわたしの隣で見ていた志田さんが、視界の端で嬉しそうに笑っているのが見えた。その隣でいつの間にか、わたしも彼につられて笑っていた。
ギムレットのグラスに刺さったライムの香りが、ほのかに鼻先をかすめた気がした。彼が選んでくれたカクテルというだけで、その味が二割増しくらいに、美味しそうに見えたのは、わたしだけの秘密にしておこう。
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