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『翠』 34

「はぁ!?」

 思わず、そう声を漏らすと、それに反応した周囲の同僚が「なになに?」と言わんばかりにふり返る。二人同時に会釈をし、彼女が小声で「志田さん、声が大きいですよ……」と、小声でぼくに耳打ちしてくる。

「あ、ごめんなさい……。つ、つい……。それにしても、ど、ど、どうしてですか?」

 そっちの話のほうが気になり、もう本棚のことなど、どうでもよくなっていた。

 さっきより声のボリュームを抑えつつ、どもり気味で麻倉さんに耳打ちを返すと、「これ、絶対、ほかの人たちにはナイショですからね!」と、こちらのトーンに合わせて、彼女が小声で念を押し、

「じ、実は……」

 と神妙な面持ちで切り出してくる。

 周りでドンチャン騒ぎをする同僚のお陰で、お互いの声が掻き消され、ちょうど二人にしか聞こえない声のボリュームだった。彼女の真剣な顔つきに、思わず、こちらまで自然と身構えてしまう。

「うちの旦那、ちょっと酒癖が悪くて……、といっても、直接、手を上げられたことは、まだないんですけど、何か気に入らないことがあってアルコールを飲んだりすると、とくに手をつけられなくなるんですけど、酔っ払って食器を床に投げつけてきたり、激昂して飲みかけのビールを床にぶちまけたり、家の中で暴れ回って、会社で溜まった鬱憤を、わたしにぶつけてくるんですよ……」

 そこまで聞いて、軽はずみに聞ける内容でもないことは、彼女の表情を見れば、すぐに伝わってきた。急に喉の渇き癒やしたくなり、ジョッキの底に溜まっていた、気の抜けたビールを、一口で喉に流し込んだ。温くなったビールの感触が、喉を通り抜け、胃袋の中へと落ちていく。

 正直、まったく美味しくはなかったが、彼女が胸の内を打ち明けていくにつれ、彼女の表情から感情というものが失われていく様を、目の前で見せられていると、何でもいいから口に流し込みたかった。

 お互い小声で話しているせいで、自然と距離が近くなり、抑えようとしても、自分の股間に血流が集中するのを感じた。冷静になろうと、目の前にあった枝豆を一つ摘まんで、口に放り込んでみたが、何の効果もなかった。

 放っておくと膨れ上がりそうになる自分の股間を、彼女に気づかれないように、チンポジを変える素振りをして誤魔化した。

 そんな話題を聞かされながら、不謹慎だとは思いながらも、次第に近くなっていく彼女との距離感に、自身の鼓動が体内で脈打つのが、細胞レベルで伝わってくる。

 もっと彼女の体臭を嗅ぎたくなり、その衝動を抑えられなくて、酔っ払った勢いに任せて、

態とらしく、相手との距離をさらに縮めようと、

「それ、完全にDVじゃないですか!?」と、相手の話に共感するふりをして近づいた。

「で、どうしたんですか?」

 こちらがさらに前のめりになったせいで、彼女が一瞬驚いた顔をする。

「あ、ごめんなさい……」

 お互いのそう謝り、仕切り直すように、

「で、どうしたんですか?」

 と、こちらから聞き直した。

 彼女もまんざらでも無さそうに、一度開いた距離を縮めるように、潤んだ瞳でこちらを見つめながら、「そ、それが、そんなことは、一回や二回じゃなくて、もう何十回もそんなことがあって……」と、これまで誰にも打ち明けられなかった思いを、思い切ってぼくに吐露してくる。

 彼女の息づかいが伝わって来そうなほどの、お互いの距離感に、すでに脳内では彼女のことを抱いていた気さえしてくる。

 今すぐに押し倒してしまいたいという、不埒な下心を腹の底にねじ込み、「マジですか? それ……」と、深刻な表情で相づちを打った。

 こくりと無言で頷き、潤んだ瞳で、さらに見つめてくる。

 ゴクリと唾を飲み込んでから、「そ、それで?」と、彼女に話すように促した。

 それを合図に、麻倉さんが、ため息を吐くように、さらにその先を続ける。

「一度は、近所の人から警察まで呼ばれたことがあって……、わたしも話をあまり大袈裟にはしたくもなかったので、そのときは警察の人に上手く言って、旦那に対してとくに罰則とかはなくて、厳重注意だけでなんとか引き取ってもらったんですけど、そのあとも旦那の酒癖の悪さが直るわけでもなく、年に数回単位で旦那のDVが続いたんですけど、さすがに最近、それが立て続いていたので、ちょっとあまりに酷かったので、堪えきれなくなってしまって……」

 涙ながらに訴える彼女の様子を見ていると、それが自分に対してだけ打ち明けてくれているのだと思うと、これまで誰に対しても壁を作って接していた彼女が、とたんに彼女が自分のモノになったような気さえしてくる。心臓の底でヒリヒリとした感情が、火種を作って湧き上がってきた。

 さっきまで下心と葛藤していた自分が、急に情けなくなり、なんとかして〝この目の前のこの女性を守ってあげたい〟、〝地獄のような生活から救い出してあげたい〟という気持ちが、いつの間にか、そんな正義感となって込み上げてきた。

「ちょっ……、それは、あまりにも酷くないですか!?」

 また声が大きくなりそうになるのを堪えて、怒りを抑えて彼女に吐き出した。

 少なくとも仕事が忙しい中でも迎えに来ようとするような旦那なのだから、大層立派な旦那さんなんだと勝手に想像していたが、彼女の語る旦那の人物像と、自分の想像の中で勝手に作り上げていた彼女の夫の人物像が、あまりのギャップがありすぎて、呆れという感情を通り越して、無意識のうちに天井を見上げてしまっていた。

「あー、マジッすかぁ〜……」

「ご、ごめんね。こんな飲み会の場で、お酒の力まで借りて、話の流れとは言え、こんな話まで聞かせてしまって……」

 俯き加減で、そう唐突に謝られ、

「あ、いや、そんな謝らないでください。ぼくもこれまで気づいてあげられなくて、なんかすみません……。こ、こんなとき、なんて言ってあげたらいいのか判んないんですけど……、あの、ぼくに何かできることがあったら、遠慮とかしないでいいんで、何でも言ってください! もちろん、誰にも言ったりしないので……」

 と、そんな言葉は、気休めにも、慰めにもなっていないのは、十分理解はしていたつもりが、その言葉以外、何も思いつかなかった。今、ここで、何でもいいから、何か彼女に伝えないと、一生後悔するような気がした。

「あ、ありがとうございます……。ずっと一人で何年も抱え込んでいたんで、志田さんに話せて、ちょっとスッキリした気がします……」

 こちらが顔を上げると、嬉しそうな表情を浮かべて微笑む彼女の姿が目の前にあった。

 その瞬間、はじめて下心ではなく純粋な気持ちで、目の前の彼女のことを、「今すぐ抱きしめたい」という強い想いが、不意に込み上げてきた。

 もしかすると、ぼくでも、彼女のオアシスくらいにはなれるのかもしれない。彼女の表情を見ていて、急にそう思えてきた。

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