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【歴史概要71】春秋の五覇・戦国の七雄・長平の戦い

①東に遷都した周は政治的実権はなくなっていたが権威は健在であった。尊王攘夷を掲げて周の権威を尊び周辺民族の侵入を防ぐ事を口実として有力諸侯が呼びかけたのが会盟であった。

②ここに集まった有力者の中で指導者となったのが覇者である。覇者は実質的な最高権力者となった。覇者は諸侯の序列や関係の調整などを行った。

③BC7世紀前半は斉の桓公は鮑叔や管仲の補佐を得て覇者となった。同じく会盟に出席していた宋の襄公(じょうこう)は後に覇者と云われたが、南方の楚との戦で愚かな用兵で敗北した。これが宋襄の仁という故事となった。

④BC7世紀中ごろには晋で王位継承問題が起きてそれを嫌った文公(重耳)は亡命生活をした。

⑤対立する恵公(夷吾)をサポートしていたのが秦の穆公だった。しかし穆公は恵公の態度ゆえに恵公を捕虜とした。晋の文公はBC632年に城濮の戦いで楚を倒して会盟で覇者となった。

⑥BC7世紀末に楚に出た荘王は王を名乗り新しい天下の支配者になる野望を持って周の使節と会見したが野望を拒否される事件が起きた。これが鼎の軽重を問うの故事となった。

⑦BC6世紀からBC5世紀になると長江下流域に呉や越という国が成長していった。この両国の戦いから臥薪嘗胆という故事が生まれた。BC5世紀初頭の話である。

⑧文公などの有力者を生んだ華北の大国である晋もBC5世紀になると弱体化していった。晋は有力臣下によって韓・魏・趙の三国に分裂した。このBC403年(or BC453年)を境に春秋時代と戦国時代が区分される。

⑨諸子百家の代表人物である孔子が魯において活躍するのはBC6世紀中ごろからBC5世紀の初頭である。

⑩戦国時代は北方の燕、東方の斉、南方の楚、西方の秦、晋が分裂した韓、魏、趙の3国を交えた7つの国家=七雄を中心として弱肉強食や下剋上が頻発していった。

⑪この時代は各国が富国強兵に励んだので灌漑施設が整備され鉄製農具により農業生産力は向上し鉱山開発によって各国の経済力は大きくなった。塩や鉄を使う商人も出現していった。貨幣鋳造も行われた。

⑬BC4世紀後半に秦の孝公は諸子百家の一つである法家の商鞅を登用し富国強兵をはかっていった。そして秦は強大化していき諸国の脅威となっていった。

⑭BC4世紀後半に蘇秦が合従の策を提唱した。燕から楚まで南北の諸侯国をまとめ秦に対抗した。しかし合従は崩れた。

⑮張儀は秦と個別の盟約を結び国家の安泰をはかっていくという連衡策を出した。

しかしこれは秦の強大化を防ぐ事に繋がらなかった。楚の屈原は秦の脅威を説き王を諫めたが聞き入れてもらえなかった。洞庭湖のほとりで屈原は自殺したという伝説が残されている。

⑯BC3世紀の前半に孟嘗君が中心になって第2次合従の策を出した。しかしこれも失敗に終わった。秦の宰相であった范雎(はんしょ)の遠交近交策によって秦の勢力は肥大化していった。

⑰秦は燕を攻めて、残る五国(斉・楚・韓・魏・趙)を滅ぼしていく。趙との長平の戦いで秦は勝利して秦の優勢は決定的となった。最後に攻撃したのが山東省を中心とした斉であった。斉について細かい事は不明だが降伏したと考えられる。

⑱BC221年に秦によって中国が統一された。中国史は次のフェイズに入っていく事になる。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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