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【歴史のない日本伝統1】君が代

右翼は低偏差値であったり歴史を知らないのに「日本の伝統が大事だ」とすぐに云う。しかし右翼が強調する伝統や歴史観などウソだらけで伝統性など乏しいものばかりだ。

その実例を少しずつ紹介していく。
まずは国歌『君が代』だ。

『君が代』の起源は905年に成立した『古今和歌集』の7巻に掲載された和歌にある。

「我 君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて苔のむすまで」

『古今和歌集』作者不明

1013年成立の『和漢朗詠集』にて「我君は」が「君が代は」となった。

君とは古代中国の風習にならった天子や主君、家族や夫婦といった親愛なる人々を示して代は治世・時代、年齢を意味する。

この事から戦前・戦中解釈の「天皇の治世」にはとどまらない。親密な人々の長寿や将軍家の栄華などもこの中には含まれている。

ただあくまでも『君が代』は流行歌の一つであった。「君が代は~」と始まる歌は多くあった。

『君が代』が国歌とみなされたのは明治時代である。始まりは明治維新翌年の1869年10月にイギリス人の軍楽長が呈した疑問だった。

横浜で薩摩の軍楽隊を指導していたイギリス軍のジョン・ウィリアム・フェントンはなぜ日本に外国のような国歌がないのか練習生に質問した。練習生の西建蔵から報告された薩摩藩砲兵隊長の大山巌は海外に匹敵する国になるには国歌が必要と痛感して君が代の作曲をフェントンに依頼した。

大山たちが『君が代』を選んだのは『君が代』を引用した琵琶歌『蓬莱山』が薩摩藩内の祭礼などで良く歌われていたからであった。

協議開始の翌年の9月に『君が代』は江東区越中島の閲兵式にて初の演奏がなされた。しかし国歌にはならなかった。洋風のメロディーと和風の歌詞との相性が悪く数年で歌われなくなった。国歌と認める法律もなかった。

1880年(明治13年)7月に海軍省は『君が代』を国歌にするべく宮内庁に作曲を依頼した。林廣守が作曲し10月には新しい『君が代』が発表された。ドイツ人のフランツ・エッケルトが修正をして11月の天長節に宮中で演奏された。

これが今の『君が代』の誕生経緯である。

しかし海軍主体の編曲だったので陸軍は認めなかった。1888年(明治21年)になり「大日本礼式」として主要各国に公文書で国歌と通告された。1889年(明治22年)に祝祭日の斉唱歌として全国の学校に通達された。1897年(明治30年)の陸軍省達153号にて天皇と皇族を敬うために用いると制定された。

こうして『君が代』は事実上の国歌として認識されていったが国法として定められてはいなかった。太平洋戦争後に『君が代』は連合国軍総司令部(GHQ)によって歌唱が禁止された。

国内では民主化に相応しい新国歌の成立運動が一部で起きた。

日本教職員組合が作曲した『緑の山河』や壽屋(サントリー)の社長が中心となって造られた『われら愛す』など新国歌の候補は多かった。1958年(昭和33年)の主権回復で君が代斉唱が再開し新国歌運動は下火となった。戦後も『君が代』を国歌と定めた法は存在しなかったが入学式などでの斉唱を義務づけるなどしていた。

1999年(平成11年)8月に「国旗及び国歌に関する法律」の成立で法的に国歌となった。

初めて作曲されてから約127年後の歳月が必要であった。そして『君が代』が正式に国歌となったのは平成に入ってからであった。未だ25年の歴史しかない。

(結論)

モデルの『古今和歌集』や『和漢朗詠集』を恣意的に拡大解釈してつくったのが『君が代』である。君とは中国思想に基づく。

楽曲となったのは明治維新の約8年後であり選定された理由も薩摩藩に馴染み深かったからだ。

戦前・戦中・戦後もずっと法的に国歌ではなかった。正式に国歌となったのは1999年(平成11年)である。

以上の事から国歌『君が代』は起源から日本の伝統とは云えない。近代日本を誇示するために適当に海軍省が作った全く歴史のない日本の伝統である。公認されてたかが25年しか経っていない。ポケモンの方が歴史がある。これが日本の真実だ。

■参考文献
『日本人が大切にしてきた伝統のウソ』オフィステイクオー 河出書房新社

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