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飯野純平さん・神宮一樹さんインタビューPart5「<今、ここ>から、<ここではないどこか>へ」

塔と井戸 ダイアローグ 第2弾
飯野純平×神宮一樹×佐藤悠

Part5「<今、ここ>から、<ここではないどこか>へ」
2021.05.21. / 2022.06.17.


こんにちは。塔と井戸・佐藤悠です。

ダイアローグ第2弾のPart5です。
今回も、前回のPart4に引き続き、飯野純平さんと神宮一樹さんへのインタビューで伺ったことをお届けします。
前回は、神宮さんと飯野さん、そして今福龍太さんの再会の中で起こっていったことについてお話ししてもらいました。3人の経験が舞台制作へと昇華していったことが伺えました。

今回は、飯野さんと神宮さんがそれぞれ追究し続けている”詩”と”身体表現”について聞かせていただきました。いよいよ終盤へと入ってきます。

今回も最後までお楽しみください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

知的な身体を持つ

佐藤:ここからは、2人がそれぞれ向き合ってきた領域、神宮さんは演劇・身体、飯野さんは言葉・詩について聞いていきたいと思います。まず、神宮さんにお聞きしたいのですが、演劇・身体マイムとはどのような表現だとお考えですか?

神宮:刑務所演劇の話でも少ししたんだけど、身体表現というのは、自分自身の体との向き合うことだと思うんだよね。演劇学校の先生であるミケーレ・モネッタが初回の授業の時に、すごく印象的なことを言っていた。職人は、毎日道具に触る。大工は、毎日鉋に触るし、仕立屋は、毎日生地や針に触る。それは、感情とは関係ない。職人は自分の仕事をする素材に触ると。役者やパフォーマンスをする人にとっては、自分の体が素材なんだよね。感情がこうだから、演技をこうするとかじゃなくて、「自分の体を素材として扱え」と。嬉しくても、悲しくても、自分の体という素材に向き合う。毎回レッスンの時に、嬉しいでも悲しいでもない、英語で言うとneutralに当たるゼロに近い状態になろうとする時間があった。でも、人間にそういう状態って絶対ありえないじゃん。

佐藤:そうですよね。感情が動いていないことってまずないですもんね。

神宮:そう。ちょっと楽しいとか、悲しいとかを含んで、neutralな状態な人なんて絶対にいないんだけど、演劇のレッスンの時に「できるだけそこに近づこうとしなさい」って言われた。そこから、表現することを始めると。それで、演劇は人に見せるっていうイメージが強いんだけど、とにかく自分と向き合う作業だと思った。自分をその過程で理解しないといけないし、理解した上で他者に自分をどう見せるかを考えないといけない。芸術的であったり、美的であったりするのとは違って、演劇や身体表現は優れたものや派手なものだけを見せるのとは違うということがわかったんだよね。それに気づいて、すごく楽になった。生きているのが。力の抜き方がわかるようになったというか。そういうものを共有したいっていう感じだよね。

佐藤:人が“ただ生きていること”を見せるということなんですかね。

神宮:それがね、こういうのって観念的になりがちなんだけど、体を使ったレッスンを経験していくなかで、何って言ったらいいんだろうな、、

佐藤:たぶんそれを、言語や思考ではなくて、身体で身につけたということですかね?

神宮:ああ、今言ってくれたので、ミケーレ・モネッタの大事な言葉を思い出した。「“知的な身体”を持て」とよく言ってた。英語にすると、intelligent bodyだね。頭が知的なのではなくて、体が知的であれってことだね。僕らはパフォーマンスをするから、体がそうじゃなきゃいけないんだけどさ、もっと拡大解釈すると、「具体性」を持つってことなんだと思うんだよね。

ナポリ演劇祭2019"Amnistia"にて

佐藤:なるほど。

神宮:つまり、理論や方法を頭で理解して仕事をするのではなくて、自分が肌で感じた痛みをベースに思想が生まれて、行動していく。それが身体的な知性だと思う。自分もそういうものを持っていたいし、高校生にも伝えたい。

佐藤:それが、体が賢くなるということですよね。

神宮:自分と向き合うなんて言い回し、よく聞くじゃない。僕は2年間かけてレッスンを受ける中で、重心のギリギリまで体を逸らしたりして、自分の体の限界を知った。そういうのも含めて、自分ができること/できないことを知るのが大事だと思うんだよね。そこから生まれてきた思想が、本当の知なんだと思うんだよね。

声から始まる赤ん坊

佐藤:次に、言葉・詩はどのようなメディア・表現なのかを飯野さんにお聞きしたいと思います。言葉・詩とはどのようなメディアか教えていただきたいです。

飯野:詩か。いつも、詩は「うつす」ものだと思っているよね。漢字変換すると3つくらい出てくるけど、写真の「写」、映写機の「映」、物理的に移し替える「移」というのもある。何か存在したものをうつし替える、保存しておくのが、詩の本質かなとは思っている。意味とかではなくね。言葉にうつし替えることが、詩に欠かせないことだよね。もう一つは、詩は、言葉の全身運動であるべきだと思っていて。言葉自体にも身体がある。僕ら人間にも体があって、感覚がある。その上で、頭があって脳や知性がついていて、意味を考えられる。言葉も同じで、まず音という言葉の声があって、それに応じて言葉の体である文字があって、その果てに意味や概念がある。彼らには、声と体と頭脳・知性みたいなのがあって、彼らを使うのではなくて、全部を生かして、彼らとの共同作業によって、何かをうつし取っていくと考えている。

神宮:今、聞いていて思ったのは、最近英語の授業で、日本語圏と英語圏の違いとして、ヨーロッパは心身二元論の考えが日本より強いという話をしたんだよね。たとえば、bodyという単語は、日本語での意味は「体」だけど、英語では「死体」という意味にもなる。英語で、体は箱であって、そこにspirit やsoulが宿るみたいなイメージなのね。今の話を聞いて思ったのは、文字というbodyがあって、そこに音というspiritが入っているっていうイメージなのかな?間違ってる?

飯野:うーんとね。どっちかっていうと、「声から始まる赤ん坊」みたいなイメージかな。

神宮:音が優先するイメージかな?

飯野:そうだね。音が一番最初。存在の証。言葉が生まれるところに、そもそも音があると考えているかな。音があって、音に釣られて、体が出てくる。赤ちゃんもそうじゃん。音ありきで、そこからbodyが出てくる。実りとして意味を駆使して、他者と抽象的なコミュニケーションを交わすわけじゃん。根っこの部分。種みたいなところかな。

神宮:なるほどね。なんとなくわかってきた。体と心は繋がっているみたいな考えは和風だなって思うんだけど、「病は気から」みたいな。

飯野:うんうん。

神宮:なんとなく僕が今まで触れてきた哲学の話のイメージだと、結構、心身二元論的に分断するのは、英語とかでもあるのかなと思う。physicalなものとmentalなものを結構分ける。

飯野:そうだね。それは大いにあるね。

神宮:だから、bodyが「死体」という意味があることも教えるんだけど。身体の話に結びつけると、音って身体的なものだよね。physicalから出てくるから。

飯野:うん。

神宮:僕の演劇の学校の声のレッスンで、そのときに「声っていうのは体の一部だ」って言われて。「だから、あなたたちは声に関するレッスンを受けなければならない」って言われたのね。歌をうまく歌うためとか、セリフをうまく言えるようにするためにやるのではなく、声に向き合ってコントロールするのは、体と向き合うのと同じだというのは言われたよね。

飯野:おもしろいね。

神宮:通じるところはあると思うよね。

残る詩と残らない身体

飯野:アイルランドへ語学留学に行ったんだけどさ、そこに惹かれた理由の一つとして、無意味性みたいなものがあって。

神宮:はいはい。

飯野:アイルランドは、もっと言うとケルト文化は、無目的的というか、石文化なんだよね。

佐藤:石文化とは、どういう意味ですか?

飯野:そうだね、崩れちゃうような石を積み立てるみたいなことかな。証として立てておくというか。残しておくことが第一義ではないのに、それでもなお、残すことに意味を見出している。崩れ去るのにやるんだよね。矛盾しているんだよね。残すことができないのに、残そうとする。詩は、そういうものだと思っていて、そのときのものをうつし取って、取っておく。それは、別に目的があるわけではなくて、ただ「あったよ」という証として行うんだよね。ずっと誰かに見られるものとしてあるのではない。だから、いとも容易く消えるものなんだけど、なぜか残っている。なかなか誰にも理解されないんだけど、そう思ってるかな。無目的的というか。そういうものとして、詩はあるべきかなとは思うよね。

神宮:うんうん。

飯野:でも、詩はある程度残るけど、パフォーマンスって残らないじゃない。その辺はどう思う?

神宮:そこを僕は考えたことなかった。残すという観点がなくて、現在性にしか目を向けてなかったから、残る/残らないという観点がなかった。今話していて思ったのは、文字は残るのに対して、声が話した瞬間に消えていくのと同様に、自分のパフォーマンスも今この瞬間に消えていくのは、恥ずかしながら考えたことがなかった。声とか音楽は、その場限りで消えていくのは思ってたくせに、自分の体の動きはその場で消えるっていうのは思ったことがなかった。もっと長い目で言うと、体は死んだ時、灰になって消えるというのも今思った。

飯野:はいはい。

神宮:それで言うと、純平くんの言う詩は、単体で形を持てなくて、声や体というphysicalなものに乗せてあげて初めて残される。だけど、そのphysicalなものは長くは残らなくて、mentalなものしか長くは残らない。でも、mentalなものが残るには、physicalなものがないといけないということに今気づいた。

飯野:なるほど、なるほど。でも、神宮くんって<今、ここ>というのを強調するじゃん。

神宮:言う。言う。

飯野:でも、言葉には<今、ここ>を離れる特権があるというか。

神宮:そうだね。言葉にはあるね。正直、体にはないかな。うーん。どうだろ。

飯野:君のパフォーマンスを目撃するのは、<今、ここ>を離れると難しくなる。

神宮:あ、でも違う意識があって。詩的なものを宿すことができるという意味で、体そのものは<今、ここ>にしかないんだけど、古代とかここから離れた時代や場所の詩を取り込むことによって、「どこにでも体は行ける」みたいな感覚はあるかもしれない。<今、ここ>にある体が、詩とかイメージの力を借りることによって、飛び立てるみたいな感覚はあるかもしれない。

飯野:うんうん。

神宮:僕が行ってた演劇の学校のレッスンで、最初に円盤投げのマイムを教わるのね。

飯野:ええ、そうなんだ。

神宮:円盤投げというのは、古代のオリンピックにある競技なんだけど、それを身体マイムでやるのね。そうすると、馬鹿みたいな言い方だけど、1000年前のギリシャの競技場にいる気持ちになるよ。全く同一でないにしても、その当時に古代ギリシャのオリンピアンの祭典に出ていた人と同じ重力の感じ方とかを経験できている感覚になるんだよね。その時の体の動きをマイム的に表現しているはずではある。もちろん、様式化はされているんだけどね。

飯野:うんうん。

神宮:その点で言うと、<今、ここ>にしかない体だけど、ある意味で普遍的なものと言えるかもしれない。

飯野:なるほどね。書道で、王羲之※1 とかの書を見て、どんな筆遣いをしてたのかを体で再現するんだけど、数千年前の人間と、同じような体の動きで書の意味を受け取りつつ、同じものをイメージするんだよね。その接続の仕方って、覚えがあるなって思って。だから、言葉の身体が文字の形だよね。体の使い方とか姿勢を回路にして過去にアクセスできる。

 ※1 王羲之:中国東晋の政治家・書家

神宮:そうそう。身体がアクセスポイントになるっていうイメージだよね。

飯野:回路が繋がる感じは、めちゃくちゃ面白い事象だよね。言語表現にしろ、身体表現にしろ。繋がるってことだね。すごくエキサイティングなことだよね。

神宮:書く行為は、結局身体性をはらむよね。声にすることは身体的だって話をさっきしたけど、文字にするのも身体的で。書くって、何かを「引っ掻く」というか、削り取るというか。物質を消費することによってしか、何かを記すことができない。何かを犠牲にすることによってしか、そのものは残すことができない感覚って、日本語でも「引っ掻く」から「書く」ができたりとか、ラテン語圏では"scri-"という文字を書くことを意味する語根があるんだけど、これも物を引っ掻く<スクリ>という音を引っ掻く音に由来があると考えられているみたい。去年の英語の授業で、"scri-"だけではなくて、writeの語源も簡単に調べたんだけど、語源はwritana=<発音:フォリターナ>というゲルマン語系で、「彫る」という意味があるらしくて。<フォリターナ>って、日本語の「彫る」と発音似てるなと思ったんだけど、まぁそれはいいとして。何かを削らないと文字は残せないという感覚は、非常にphysicalだなって思うんですよね。

飯野:うんうん。

神宮:詩のイデア、つまり未来永劫残りうるような精神性は、未来永劫は残らないものによってしか伝わらない。皮肉というか、相関関係というか。その二つの共同作業とか、共演が文化とかの営みなんですかね、、(笑)?

飯野:(自分で言って)恥ずかしくなってる(笑)。

神宮:言い切ることはできないからさ(笑)。

飯野:究極はそういうところだよね。

太陽と番う海

飯野:ランボー※2 の詩がずっと残ってるんだよね。

 ※2 アルチュール・ランボー:フランスの詩人。

神宮:どれ?俺が知ってるのは、海のやつしかないな。

飯野:言ってみて。

神宮:「僕は永遠を見つけた〜」みたいなやつかな?

飯野:あ、それそれ。

神宮:たしか、それが村上龍の『69』で紹介されてて、めっちゃいいなと思ったんだよね。

飯野:読むね。「また見つかった 何がー 永遠が 海と溶け合う太陽が」※3 これさ、ずっと忘れられないモチーフなんだよね。消えてしまうものだからこそ、増幅されてしまう、波、波線、波動。一瞬と永遠が番う瞬間を、再現したいというか、感じたいのかな、僕は(笑)。難しいこと言っちゃってる(笑)。

 ※3 アルチュール・ランボー『永遠』より

神宮:今言われてさ、初めて気づいた。太陽が一瞬を表してることに。「太陽と番う海」というのは、太陽を消えていくものとして描いていることに、今初めて気づいた。太陽と海という莫大に離れたもの同士が、溶け合う神秘の美しさぐらいしかこの詩を捉えてなかった。そこには時間の制約が明確にあるのか。それを永遠と呼ぶということか。

飯野:僕は今、自分の卒論見てるんだけどさ。

神宮:うん。

飯野:「旅の向かうべき西という方角は、アイルランド西端を指し示す物理的な意味合いにとまらない。夜明けを迎えつつも、物語はかわたれ時の時間帯にある」かたわれ時は、夕方のことだね。かわたれ。彼はだれ?、誰彼?たそがれ。

神宮:メモしてありますちゃんと。「かわたれ時」に線引いて、「かわたれ」「たそ・かれ」って書いてある。

佐藤:『君の名は。』ですね(笑)。

飯野:そうそう。ちょうどこの時期『君の名は。』を見た時期でもあって、モチーフとして興味深く思っていた時期だったね。

佐藤:私も相当影響受けました。

飯野:「かわたれ時とは、夕方と明け方という、太陽と月の入れ替わる狭間の時間を意味する言葉だ。ここから派生して生まれた『たそがれ』について、『見えるものと見えないものの戯れが、まるで精神的な絶対物に近づきつつあるかのように、極めて儚い現実を作り出している』と語った上で、他者について刺激的な思考を積むトリン・T・ミンハは次のように言う」って書いてあって、このあとトリン・T・ミンハというベトナムの思想家の言葉を取ってある。「黄昏、悲哀・喪失・ノスタルジアの時間でもある。だが、それは再生を準備するための時間でもある。つまり、日が西に沈み、月が東に登る時に終わりが始まりとなるということだ。終わりが始まりとなる西への旅は、疑いもなく暗い変化の道筋を通り抜けてこそ達し得る、未来への変化の旅になるのだ」ってあるね。終わりゆくものに永遠性を感じるのは、再生を見るからだと思うんだよね。「暗闇の先にこそ予感される、生の輝きを志向している」と書いてある。西の果てに興味があるって、自分で言って初めて繋がってきた。

神宮:そうだね、西方の話はすごく書いてあるね。

飯野:終わりに向かうことが、すごく大事なことなのかもしれない。身体性から離れられないのは、そこが肝だよね。身体は終わるっていう。

アラン諸島のひとつ、イニシュモア島。アイルランド、あるいはヨーロッパの西の果て

言語の“盲腸”

飯野:こないだNHKの『スイッチ・インタビュー』という番組で、さっきも触れた詩人の吉増剛造と歌手の佐野元春が対談したんだよね。そのときに、ジェームズ・ジョイスが自分で音読して吹き込んだ『Finnegans Wake』という詩の末尾のところが地上波で流れて、僕的には衝撃だった(笑)。そのとき、なぜ二人がそれを聞いたかというと、ジョイスがnightという単語を<ナイーート>って読み方をしたのね。吉増剛造曰く、「聞こえない<gh>、言語の抱えている<gh>の記憶の光が見える」らしいんだよね。

佐藤:<gh>の記憶の光。

飯野:そう。それを佐野元春が感じ取ろうとしていたんだけど。吉増剛造の言語に対する感覚にかかると、言語自身が抱えている記憶というか水路というか、細かく出ている記憶糸、産毛みたいなほつれ糸を引っ張って連れてきてしまう。

佐藤:それって、さっきの<K>の話とかとも繋がってきますね。<K>は外来でしたたけど。音として発音されないということは、ある意味、世界のなかで認知されていないことにもなりますよね。それに<K>は英語でも発音しない時ありますし。

神宮:それ俺も今言おうと思った。読まれてないよ<K>!

飯野:(笑)(笑)。

佐藤:knightとかですよね。そこに記憶があるなんて、思ったことなかった。

神宮:knowとかもだよね。knightは、昔は<クナイト>って発音されてたはずですよね。言いにくいからきえちゃったんだよね。

飯野:そうそう。言語って惰性で効率的になっていくものなんだよね。吉増剛造と佐野元春は、「<gh>は言語の“盲腸”」って言ってた。

神宮:すごい。俺、全く同じことを英語の授業で“盲腸”って言った。三人称単数現在形の<s>のことを言語の“盲腸”だって話をした。

佐藤:どういうことですか?

神宮:三単現の<s>は、なぜ三単現だけにあるのかを話したんだけど。The Beatlesの『Ticket To Ride』という歌の中に、<She's got a ticket to ride / She's got a ticket to ride / She's got a ticket to ride / And she don't care>という歌詞があるの。<She don't care>なの。<She doesn't care>じゃなくてね。これが、文法的には<doesn't care>のはずなのに、なぜ<don't care>なのか?という話をしたのね。

佐藤:たしかに<don't care>ってはっきりと歌っていますね。

神宮:そう。一応、The Beatlesの故郷のリヴァプールの方言では、(三単現のときも)<don't>って言うらしいんだよね。

佐藤:そうだったんですね!方言で変わるなんて知らなかった。

神宮:でも、「そもそもなんで、三人称単数のときだけ、<s>をつけるんだろう」って話をしたのね。元々、英語も含めてラテン語系の言語は、英語も含めて一人称単数・一人称複数・二人称単数・二人称複数・三人称単数・三人称複数の2×3で6つ、全部違う活用をしていたのに、三人称単数だけがなぜか残って、他は消えたらしいんだよね。ということは逆に言うと、三人称単数の<s>も、今後100年くらいで消える可能性は高い。実際にインドとかでは、もう言わないらしいんよ。主語がsheでも、<She eat 〜>とかにしちゃうらしいんだよね。

佐藤:ええ、そうなんですね。全然知らなかったです。

神宮:言語の機能にだけ着目したら、たぶん三単現の<s>なんていらないんだよ。英語は主語を絶対に言うから。機能的にはいらない。慣習的に残ってるだけだから。そういう意味では、三単現の<s>は“盲腸”で、100年、下手したら50年後くらいに消えてるかもしれないから、生徒には「『三単現の<s>はつけないと減点されるから、めんどくさいな』って思うんじゃなくて、『こいつらはもうすぐ消えるんだな、かわいそうだな』って哀れみの目で見てつけてください」って言ってる(笑)。

佐藤:なるほど(笑)。

神宮:それで、ちょうど今日“盲腸”って言ったかな。なぜなら俺が盲腸になったことがあるから(笑)。

飯野・佐藤:(笑)(笑)。

佐藤:僕も中学生のころ同じようなことを考えたことがあって。まず、「三人称」という言葉自体が、日本語の中だけでは頻繁に聞く言葉ではないじゃないですか。

神宮:そうだね。基数と序数がごっちゃになる子が多いね。二人称=複数みたいな勘違いだよね。

佐藤:そういうケースは多いですよね。あと、基本的に英語は1対1で話すことを前提としている言語なのではないかと、当時思っていました。何か根拠があるわけではないんですけど。1対1で話していて、そこで話題に出てくる人(物)は、3人目になる。だから、三人称。二者間の外側にいる存在という意識。これは日本語では、あまり意識しないことかなとも思うんですよね。それに、英語で話をしているうえで、たとえば主語がsheの文章で動詞に<s>がついていなくても、すごく気になるかというとそうでもない。文字は残るものだから、書くときには意識していたほうがいいのかもしれないけど、話すときに一番意識するべきことではないような気がするんですよね。むしろ、意識すべきはまず主語が来て、動詞が来るという形になっているかどうかだと思っていて。

神宮:優先度が低いってことだよね。

佐藤:そうです。それは、知らなくてもいいということではなくて、英語を理解するうえで、何がfundamental(基本)で、何がsignificant(重要)になっているかを改めて考えるということだと思うんです。だから、もしかしたら三単現の<s>が、100年後くらいになくなるかもしれないというのは、非常に興味深い話でした。

神宮:今日の話のテーマでもある気がするんだけど、言語は、人間に関係するものだから、合理性や効率性に必ずしも準じないんだよね。記号として便利かどうかは、PCのプログラミングでは突き詰められていると思うんだけど、実用的な言語ではそこまでいかなくて。言語は人間に密接で、だけど人間は非合理的な生き物。言語はどうしてもその人間にくっついて回るものだから、言語も非合理的になるはずなんだよね。

佐藤:たしかにそうですね。

神宮:だって正しいんだよ。意味の伝達という観点だけで言えば。プログラミングの言語で言えば、三単現の<s>なんていらないんだよ。だけど、なぜ残っているかというと、人間が不完全で慣習や今あるルールに依存してしまう生き物だからなんだよね。

佐藤:かつ、第三者(第二言語習得者)として学んでいるから、ルールを踏襲することが学習時に前面に出てしまうわけですよね。

神宮:そうそう。だからあなた(生徒)が間違えることはいいのよ。だけど、「これっておかしいじゃん」って思った時に、言語というものがそもそも合理的ではないものであり、では「なぜ言語が合理的ではないか」というと、「人間が今まで過去にあるルールに依存してしまう生き物だからなんだ」ってことまで感じ取れたら、それはもう結構な学びになっていると思う。

佐藤:すごい。今、中学生の時の自分の悩みの答え合わせになっているみたいです(笑)。

神宮:いや、あってるかどうかはわからないよ(笑)。それでテストで間違えて「いや、神宮先生にこう言われたから」って言ってきたら、「それ言うな!」って言うけどね(笑)。

佐藤:そういうコード=文脈として理解されたら、もう(講師として)負けですよね。

神宮:そうだね。その通りだね。

佐藤:ここまでの言語に対する文脈を、学習者と共有できるかが大事なわけですよね。

ここではないどこかへ 

佐藤:それから、言語は社会科学的な法律や政治と違って、議会や政治家が決めた一つのルールが、(ある国や地域の)東の果てから、西の果てまで浸透するものではないですよね。一元的に統治機関がルールを決めるものではない。「詩的である」ということと繋がるかはわからないですけど、大きなものには縛られない強さを持っているのが、言葉の魅力だと思いました。さっき、インドではもう<s>が使われなくなってきているという話がありましたけど、もしかしたら、どこかの島ではそんなこと気にしなくなるほど、<s>は消えているかもしれない。でも、そういう人たちが、捕らえられるわけではないから(笑)。それが、言葉が持つ自由さだと思うんですよね。飯野さん、言葉の持つ自由さと、神宮さんが言ってくれたような人はそもそもルールに従って生きるという部分と合わせて、「詩的である」ということに対する見解を教えていただけないでしょうか。

飯野:そうだなぁ。どんな言い方がいいかな。詩というのは、”ここではないどこか”が感じられるものじゃないかな。他を孕んでいるものじゃないかな。他のものを抱え込みながら、独りであるというか。大きくなろうとしないことかなぁ。correctという単語は、他と比べて「正しい」か否かという意味だと思うんだけど、accuracyという単語は、「精密である」という意味なのね。これは、他のものが間違っているからそれ自体が正しいとか正しくないという意味ではなく、何か他のものことを受けて、いかに「精密に」うつし取っているかだと思うんだよね。だから、単体であっても<ここではないどこか(somewhere else)へ>繋れるような遠心力を、内に入り込むことで、むしろ遠くに繋がっている管があるような感覚かな。そんな感じがするね。どうだろ。

能登高校書道部と共作した詩とそのパフォーマンス作品。
詩篇が筆にのって遠くに飛んでゆくような力強い作品となった。

神宮:見た目は、<ここではないどこか>という言葉は、僕が好きな<今、ここ>という言葉と対極というか、対になる考えだと思うんだよね。でもそれが、内に入り込むことで遠くに飛ばすっていうのは非常に面白いね。うーん、ちょっと僕らは、やっぱりもっと物理とか化学をちゃんと勉強した方がいいと思うんですよね(笑)。

佐藤:それすごくわかります(笑)。

神宮:数学とか物理とかを勉強したら、比喩的な面でも、重ね合わせるという面でも、もっと正確なことを言えるのかなと思うよね。

飯野:まぁ、「詩的である」というのは「層がある」ことなんじゃないかな。空間とか時間とかの。

佐藤:あわいもありますかね。

飯野:そうだね。あわいもあるね。グラデーションも。

佐藤:別に<今、ここ>にあるものを否定しているわけではないですもんね。

飯野:うん。

佐藤:<今、ここ>にあるものをうつし取ることもそうだし、遠くのことを再現することもそうだし、それらを繋いでいくこともできるということですか。

飯野:そういうことかもしれないね。

Part6へ続く>

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

いかがでしたでしょうか。
Part5では、飯野さんと神宮さんがそれぞれ追究してきた“詩”と“身体表現”についてお話を伺ってきました。次回のPart6では、これから二人がどんな”風”を目指していくか教えてもらいます。いよいよ最終回です。
ぜひ、お楽しみに。

飯野 純平(いいの じゅんぺい)
1992年6月23日生まれ、東京都小金井市出身。東京外国語大学卒。在学中に書物に導かれて参加した今福龍太ゼミ、そこで神宮一樹と出会う。創作や旅を続け、北アイルランドの現代詩人研究をする傍ら、言語と教育に自身の生きる道を見出し、2019年から石川県能登町にて地域教育に従事。受験勉強の指導をする一方、言葉のあり方を考える時間を生徒と数多く共有。能登をフィールドとした言語活動、書道パフォーマンスの共作等。3年を過ごし故郷ともよべる存在となった能登を離れた現在、高校生対象の教育現場にて自身の言語教育スキルをさらに磨きつつ、「街の言葉屋」として活動中。大切にしていることは「詩をものすことではなく、詩に生きていられること」。

神宮 一樹(じんぐう かずき)
1992年6月23日生まれ、埼玉県深谷市出身。東京外国語大学在学中、今福龍太ゼミで、飯野純平と出会う。留学先のイタリア・ナポリで、街それ自体が孕む演劇性に魅せられる。身体マイムとイタリア仮面劇を学ぶ傍ら、刑務所や過疎集落など、<今、ここで>あり得る表現に触れる。石川県能登町でのワークショップを経て地域教育に興味を持ち、2020年より愛媛県伊方町公営塾にて高校生と学びを共にする。主に英語を担当し、即興性や言語を通じた文化考察を重視した指導を心がける。2023年より、埼玉県秩父市にて高校魅力化コーディネーターを務める。「人が人といること。人が人としてあること。」を大切にしながら、<今、ここで、あなたと>だからこそありうる表現を模索中。

取材・執筆・編集:佐藤 悠

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