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飯野純平さん・神宮一樹さんインタビューPart6「いつか風になる日」

塔と井戸 ダイアローグ 第2弾
飯野純平×神宮一樹×佐藤悠

Part6「いつか風になる日」
2022.06.17.


こんにちは。塔と井戸・佐藤悠です。

ダイアローグ第2弾のPart6です。
今回も、前回のPart5に引き続き、飯野純平さんと神宮一樹さんへのインタビューで伺ったことをお届けします。
前回は、飯野さんと神宮さんがそれぞれ追究し続けている”詩”と”身体表現”についてお話ししてもらいました。それぞれのメディアに対する考えを伺い、そしてお二人の神髄を垣間見ることができました。

今回は、これまでの話を受け、お二人がどんな”風”を吹かせていくかを聞かせていただきました。いよいよ最終回です。

今回も最後までお楽しみください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

言葉の森の守り人

佐藤:いよいよ最後になります。風が今回のテーマで、前半から中盤まで「どんな風に吹かれてきたか」をお話しいただきました。最後は「どんな風になれるか」、より具体的に言うと「何を残したいか」という内容をお聞きしたいと思います。いよいよ来週、30歳を迎えるお二人のこれからをお聞かせいただければ嬉しいです。

飯野:ずっと思っているのは、“言葉の森の守り人”でありたいと思っているかな。言葉って多義的でさ、捕らえ難いものだと思うんだけど。分裂もしていくし、勝手にわけわからないものに変わっていくし。でも、それを単純化して、単一化していくのが人間の性なんだ。だけど、人間の物の見方・考え方・感じ方を担保してくれているのが、言葉という目には見えない大事な根源なんだと思う。だから、そこが豊かであることは、どんなに自分のしてることがそこに役に立とうが、立たなかろうが、言葉の傍にいたいとは思うかな。人間の側ではなくて、言葉の側に。という意味で、守り人でありたいとは思うかな。

能登の高校生たちと共作した詩『今日は』(読み:こんにちは)
丁寧に紡いだ言葉を活版印刷で残した

佐藤:言葉を守りたいのですか?

飯野:守るというか、見守っていたい。

佐藤:なるほど。たしかに最近は守られていない感じはしますよね。

飯野:人間が言葉を使っちゃうからさ。言葉が飼い慣らされちゃっているというか、人間に。本当は、僕らが言葉に転げ回されているはずなんだけど。でも、そこを手懐けやすいものに仕立てて、意味の伝達の道具にするのが人間だと思う。だけど、そうではない付き合いをしたい。言葉も良いリソースだと思うんだよね。

佐藤:人間全体のリソースということですよね?

飯野:そう。あえてリソースって言い方をするけど。

佐藤:資源ですよね。

飯野:そう。守るべき、人間の生活や文化を支えている・共存している大事なもの。人間より大事だとちょっと思っちゃっているかもしれないですね。

神宮:飯野くんが“言葉の守り人”として、人間の側より言葉の側にいたいというのは、あえて僕なりに楽観的に言うと、飯野くんの指す人間はhuman beingではなくて、今の社会にいるpeopleのことを言っていると思うんだよね。そのpeopleより言葉を大事にしたいっていう意味なんだと思っています。human beingではないというか。

飯野:なるほど。

神宮:「人類というプロジェクト」という言葉を、以前純平くんが言っていたんだけど、それはすごく良いなと思っていて。そんな言葉が出てくる純平くんは、言葉を「人類というプロジェクト」より優先されるものとしては言っていないと思う。

飯野:うんうん。非常に好意的な解釈だね。

神宮:好意的でもあるし、僕に都合の良い解釈でもある。

飯野:そんな気がするね。

神宮:今、この瞬間に世界で生きている人間の価値観に捉われず、人類という総体的なプロジェクトを見たうえで、言葉を優先すべきだとは言っていないと思うんだよね。human beingというプロジェクトを考えた時に、people以上に言葉の重要性を感じているのではないかと思いました。

佐藤:peopleというのは、群れというか、そこにただ人がわちゃわちゃいるみたいな感じで、human beingっていうのは、長い歴史を持った人類という意味ですか。そのpeopleより、言葉は深いっていうことですか?

神宮:というより、僕が思う人類と言葉の関係は、お互いに必要としている関係なのではないかと。少なくとも現時点で人類しか言語を操ることができないわけだから。今の2022年現在の我々は、意味の伝達という点でしか言葉を消費できていない。けれども、人類しか言語を操れないことを考えた時に、数千年前からある言語は、人類という種が続いていく、あるいはより良い方向に行くうえで、もっと多様な良いパートナーなのではないか。このアクセスポイントにおいて、飯野純平が繋いでくれるってことなんじゃないかな。

飯野:的確です!(笑)。

佐藤:そういう意味で、前回の英語の文法の話に戻りますが、三単現の<s>は、意味の伝達という観点から見れば、「つけなくても問題ない」という結論に終わらせるのではなくて、もっとその向こう側にある由来とかまで考えようとすることも、良いパートナーであろうとするには重要なことなのかとも思いました。

飯野:一つはそういうのもあると思うよ。

神宮:でも、僕が思うに飯野くんの言葉への取り組み方は、語源とか僕らがさっき話した英語への取り組みよりもさらに深い気がするかな。

佐藤:そうだと思います。ただ、さらに深いけど、そこ(文法や語源への意識)を無碍にしないというか。「そこはどうでもいいよね」と言わずに、さらにその先に行っている。さっき言葉には「層」があると言っていたから。

神宮:そうそう。そういう見解だね。僕は、「言葉は変化していくものだ」ということをさっき話したけど、純平くんはこれまでの言葉と人間の付き合いをずっと考えていると思う。考えるだけではなくて、僕らが日々使っていくものが次に繋がっていくと思うから。

佐藤:変わっていく水面上での変化より、さらに深い部分を見ているということですかね。

飯野:うんうん。

神宮:そうなんだよ。別に変えていっていいと思うんだよね。俺らだって、日本語で遊んだり、使いやすいように変えたりしているし。古代の人が変えてきたことの続きが、今に繋がっていると思うから。乱れた言葉なんてないと思う。乱れではなくて変化だから。ただ、言葉はただの意味の伝達の道具ではなくて、思想や今の時代を反映したもので、絶対的なものではなく、その時代に生きた人間の痕跡が残っているものであることは、知っておいてほしい。

佐藤:ようやく「言葉」の輪郭が見えてきたような気がします。飯野さん、すみません。勝手に僕ら解釈して(笑)。

飯野:いやいや楽しかったよ(笑)。自分の著書を読んでもらった感覚だよね(笑)。

神宮:たしかに(笑)。

飯野:一つ例を出すと、ある一つの研究では、ナチス・ドイツが台頭してきたときに、当時のドイツの社会の中ではボキャブラリーが異様に減ったと言われているんだよね。

神宮:そうなんだ。

飯野:プロパガンダとか、いろんなメディアが一切合切同じようなことを言っていたから、そうなったのも一因としてあると思うんだけど、それが例として代表されるように、思考が硬直化したりとか、あるいはいろんな意見が出てこなくなったりして、人間がとんでもないミスを犯して、人間が人間自身を追い込んでいくのは大いにありうるわけで。それは、言葉から多義性を奪っていったということだよね。言葉に変化も許さなければ、いろんな意味を持つ使いづらいものであることも許さなかったわけだよね。そういう状況は許容し得ないものとして、一つ「退路」を守っていたいとは思っているよね。自分が守り人になるというのは。言葉の音の魅力も伝えたいと思うし、書くことの魅力も伝えたいと思うし、読むことの魅力も、あるいは文法とかの論理の知的な面も、全て伝えたいなーと思っているよ。

佐藤:なるほど、それが言葉の層なんですね。そうした幅を全て大切にしたいわけですね。

飯野:そうだね。伝わるといいなーと思いながら話してるけど、わかってもらえてるかな。

佐藤:飯野さんの次元では理解できていないかもしれないですけど、少しずつ近づけているような気がします。飯野さん、本当にありがとうございました!

飯野:いえいえ。こちらこそ。

終わりを含むことに美しさは付随する

佐藤:次に神宮さん、「残す」や「作る」ことへの思いを教えていただいてもいいですか?

神宮:残そうという意識で作られているものにあまりに惹かれてこなかったんですよね。今回の話の軸で言えば、永続的なものと、一回性のものがあるとすれば、一回性のものがたまたま残っているものに、魅力を感じる。残そうと思って作りたいという意識はあまりないかな。

佐藤:なるほど。

神宮:自分が今、一人の人間として生きていることの生々しさの中にこそ、残るものがあると思っている。あまり、僕は残そうという意志によって作られるものに魅力を感じないんだよね。

佐藤:「作ろう」もないですか?

神宮:それも結局、自分のエゴのようなものになってしまうと思うんだよね。(作ることを)否定する気はないんだけど。自分が一貫して、生徒に伝えたいのは、「自分というものに向き合う」こと。僕の場合は身体だった。身体に向き合うことがきっかけで、自分自身に向き合うようになった。その背景として、僕は自意識が強い人間だったので、演劇とか身体マイムを通して、ビジュアル的にどう見えているかとか、姿勢とか、振る舞いとか、公営塾の塾長になっても髭を生やし続けたままであるとか(笑)。そういうのも含めて、メッセージだと思っているから。目に見えるものは全てね。悪い言い方をすれば、カッコつけてると思われるかもしれないけど、動きとか目に見える部分とかでメッセージは必ずあると思っている。純平くんのやっている言葉の部分に対して、僕は言葉にならない部分のメッセージを大事にしている。その中で伝える内容は様々なんだけど。

佐藤:言葉にならないメッセージ。

神宮:そう。これは難しいんだけど、言葉以上に見た目が伝えるメッセージは無意識に伝わる気がしていて、そこは、僕は意識しているところかな。姿勢や目線で伝わるものは多い。

飯野:うん。

神宮:言語化されないメッセージは意識しているかな。でも、それを残したいとは思ってないけどね。直接的に自分より若い世代に伝えたいとは思わないというか。

佐藤:僕が、「残す」というワードを使ってしまったのでよくなかったのですが、聞きたいのはどちらかというと、そういう部分かもしれないですね。

神宮:僕は直接的に残すということはしないけど、伝えたいという気持ちはある。

飯野:んー。でも、僕は神宮くんにそこを残してほしいと思うけどね。

神宮:そうだよなー。なるほどね。一回整理してみるね(笑)。残したいとあまり思わないし、残そうともしてないけど、その方が残るとも思っている。「こんな感じに残したい!」と思わない方が、結果的に残ると思っているんだよね。

飯野:なんか、受験生とかが聞く言葉で「結果だけじゃなくて、プロセスが大事だよ」という言い方があると思うんだけど、それは「プロセスでがんばったから、結果はどうでもいい」という、ある意味逃げの口にもなると思うんだよね。だから、これは自戒の意味を込めて、あえて残すこと(結果)を意識したほうがいいと思うんだよね。

神宮:なるほどね。結果として残すということね。

飯野:そう。神宮くんの言っていることは大いにわかるし、大いに与するところなんだが、近年の神宮くんを見てると、「そこ(残すこと)をやっちゃったほうがいいんじゃないですか?」とも思う。

神宮:もっと残すことにフォーカスしたほうがいいということだよね。

飯野:うん。

神宮:「残らなくていい」という言い方をしているからわかりづらいんだけど、伝えるために本質が歪むことは違うかなとも思う。たとえば、今日この場で話したようなことを、自分の生徒たちに伝えたいという思いは、ずっと滲んで出している。ただ、伝わりやすい形に変えなくていいかなとは思う。modification(変形)はしたくない。そうすると、本質的なもののまま伝わらないから。modificationせずに、生のまま「僕はこういう生き方をしていて、こういう仲間がいて、こういう思想があるよ」っていうのをバーンってぶつけるのよ。それを受け止めきれない人もいると思う。たとえば、今の話を高校生に伝えてもほとんどはわからないと思う。だけど、それでもいいと思っている。今ここで4時間話したことを、高校生用にわかりやすく説明しなくていいと思う。もちろん授業の中で工夫はするけど、俺はこのまま生で伝えたい。伝えることを優先すると、ここにある生の感覚が歪むような気をしていて。ここで100%でないにしろ、3人の中で共有できるのは、ある程度各々のバックグラウンドとか読んできたものの多さがあるから、知らない人のために話そうとした瞬間に何かが変わってしまう。それが、「伝わらなくていい」という言葉の含意かな。

2017年、飯野さんと神宮さんがともに訪れた奄美大島のマングローブ。
美しいまでに生々しく、ねじれる生命

佐藤:わかりやすさを重視して、伝えるのではないということですよね。自分たちが”作るために”作ったものを、そのまま伝えるというか。

神宮:そう。そういうことなのよ。

佐藤:先ほどの話と繋げると、身体などの一回性の具体的なものを介さなければ、ものは伝わらない。だから、絶対何かは削がれるし、差異は出るし、元々の経験との違いは出てしまう。そういうことを理解したうえで、見せたいというか。

神宮:うん。僕はsustainabilityに興味ないんだよね。続かないものにこそ、美学があるというか。身体をテーマにした時に、それはいつか消えるものだと。いつか老いるものだと。だけど、歳を取った身体や精神にも美しさは必ずあると思うから。僕は究極的な話、sustainableなものに美しさはないと思う。人類という種が生きていくうえで必要な合理的な正義・判断であったとして、僕はそこに「美」は感じない。

佐藤:sustainableではなくて、死を含んでいることの方が大事ということですか?

神宮:そう。死を含む、あるいは終わりを含むことに美しさは付随すると思う。このことを考えると、俺は日本的なんだなと思ったけど。

飯野:うんうん。

神宮:残していくことも、受け継いでいくことも大事ななかで、そういうことを考えると、僕は、今は伝えることに主眼を置く前に、自分が今まで受け継いだ、上からもらったものや、同じ世代から貰ったものを体現するということに集中するというレベルかもしれない。僕は。残すことを考えるのは、まだ早いかもしれない。残せるものの創造をしていないという後ろめたさもある。まだそういう時期じゃないんだよね。

佐藤:なるほど。これは、今回のテーマのいい終わり方かもしれないですね。

神宮:さっき、ちょっとフジファブリックの志村さん※1 の曲を流していたけど、彼は何かを残そうと思って曲を書いていなかったと思うんだよね。亡くなってしまったから、僕らは彼の残したものを受け取っているけど、彼は別に残そうとしていなかったと思うんだよね。

 ※1 志村正彦:1980年山梨県生まれのロックバンド・フジファブリックのボーカル。2009年12月24日に29歳の若さでこの世を去った。

佐藤:今にフォーカスしていますよね。

神宮:彼はあの時点での自分や世界にフォーカスしていたと思う。自分が消えることなんて、きっと想像していなかったのではないかと思う。だけど、僕らが彼の残した作品に心打たれるのも、だからこそだと思うんだよね。

佐藤:たしかにそうかもしれないですね。

神宮:いろんな憶測があるけど、もし彼が29歳で自殺する気で作曲をしていたとして、影響を受けたかと言われれば、あまりそうではないと思うんだよね。彼はその後も生きていろんなものを作るはずだったからこそ、そこに途絶えた道のりに対して、残された人々やそれを聞いていた若い世代がいろんなことを感じたんだとも思うんだよね。

佐藤:今にフォーカスしているからこそ、残っているというのはそういうことなのか。そして、それをもっと古くから存在している言葉が支えて、身体や文字という終わりがあるものを通して、その時代が変わり、人が変わってもそのspirit=精神は受け継がれていく

神宮:そういうことだよね。

佐藤:それが風になっていくのかもしれないですね。忘れられることなく、語り継がれていく風。

飯野:まとまってきたね。

佐藤:ようやく「どんな風になれるか」というテーマにたどり着いたのではないかと思います。飯野さん、神宮さん、本当に長い時間、ありがとうございました!

神宮:こちらこそ!

飯野:楽しかったです!

<終わり>

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

いかがでしたでしょうか。
Part6では、お二人がどんな"風"を目指していくのか、お話を伺ってきました。読んでいただいた方にも、お二人が起こした”風”、感じていただけたでしょうか?
全6回に渡るインタビュー記事は以上になります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

飯野 純平(いいの じゅんぺい)
1992年6月23日生まれ、東京都小金井市出身。東京外国語大学卒。在学中に書物に導かれて参加した今福龍太ゼミ、そこで神宮一樹と出会う。創作や旅を続け、北アイルランドの現代詩人研究をする傍ら、言語と教育に自身の生きる道を見出し、2019年から石川県能登町にて地域教育に従事。受験勉強の指導をする一方、言葉のあり方を考える時間を生徒と数多く共有。能登をフィールドとした言語活動、書道パフォーマンスの共作等。3年を過ごし故郷ともよべる存在となった能登を離れた現在、高校生対象の教育現場にて自身の言語教育スキルをさらに磨きつつ、「街の言葉屋」として活動中。大切にしていることは「詩をものすことではなく、詩に生きていられること」。

神宮 一樹(じんぐう かずき)
1992年6月23日生まれ、埼玉県深谷市出身。東京外国語大学在学中、今福龍太ゼミで、飯野純平と出会う。留学先のイタリア・ナポリで、街それ自体が孕む演劇性に魅せられる。身体マイムとイタリア仮面劇を学ぶ傍ら、刑務所や過疎集落など、<今、ここで>あり得る表現に触れる。石川県能登町でのワークショップを経て地域教育に興味を持ち、2020年より愛媛県伊方町公営塾にて高校生と学びを共にする。主に英語を担当し、即興性や言語を通じた文化考察を重視した指導を心がける。2023年より、埼玉県秩父市にて高校魅力化コーディネーターを務める。「人が人といること。人が人としてあること。」を大切にしながら、<今、ここで、あなたと>だからこそありうる表現を模索中。

取材・執筆・編集:佐藤 悠

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