ほうっておけない「誰に投票しても変わらないでしょ」

 今回の参議院選は48・80%と戦後二番目に低い投票率だったそうですね。「誰に投票しても変わらないでしょ」という、投票に行かなかった人の堂々とした街角インタビューの声を聞くとかなり挑戦的だなあと思います。なぜなら、私には、そういった人たちが自分が投票に行くまでの下調べをする努力を怠っていることを棚に上げて、「僕が・私が投票へ行かないのは、施策の違いを解りやすく説明しない側のせい。私に投票に行かせてみせなさい」と言っているように聞こえるからです。私には「平和は市民の常々なる努力なしに保つことができない」という基本原理が刷り込んであるため、能動的情報摂取が当たり前のことになっているからでしょう。

 ところで投票に行かなかった残りのおおよそ半分の人たちには争点になっている軽減税率、年金制度、憲法改正・安保、奨学金制度などについてうまく説明できない、もしくは何が争点になっているかよく知らないという人が少なからずいるようなのです。それぞれの争点の決着は、明日からのわたしたちの生活に直撃するものなのに、どうにもその両極のコネクションを想像する下地がないようなのです。そこには、いわゆる自転車置場の議論というものが絡んでいるような気がします。

 自転車置場の議論というのは、たとえば「原子力発電所と自転車置き場を建設するときに、原子力発電所の建設計画についての議論は複雑で膨大なので粛々と進むが、自転車置場の設計に関しては誰もが理解できる事柄なので議論が白熱し、そもそもの必要性といった議論はおきづらい」というものです。先に上げたような争点に関して、社会的不満は徐々に鬱積しているものの、当事者の人柄の問題といった一過性の原因としてワイドショーなどでフラストレーションが消費・発散されているに過ぎません。たとえば、Web上の議論とは異なり、TVを見ていると、ゴーン元会長の金銭感覚や浪費癖といった話題ににかなりの時間が割かれていても、それを許した日産のコーポレート・ガバナンスの仕組み上の不備については対象的にあまり議論されていないのです。

 ですが、先に上げたような問題は、高度で特定の人にしか理解できないような問題なのでしょうか?そんなことはないと思います。こういった問題は原子力発電所の例のようにコンテキストが深いのです。全く畑の違う人たちと会話を共にすると、まるで別の言語のように全く会話を追えない経験をしたことはありませんか?それと同じような事が全国規模で起きているのだと思います。
ですから、こんな方法で世の中がすぐ変わるとも思えませんが、少なくともわたしたちは日常的にもっとおせっかいなコミュニケーションを身の回りの人に対してとるべきだと思います。自分の友人、親、兄弟、姉妹に干渉し、できる限り自分の周りから無関心をなくすべきです。なぜなんのために投票に行くべきなのか、なにが投票によって変わるのか、そしてどの政党がどのような具体策を提案しているのかということを理解してもらえるまで何度も共有するべきなのだと思います。もしこの今の、左右の両極端な意見と、中央の無関心という三極という状況がしばらく変わらなければ、わたしたちの社会は最終的に劇的な形の変化を見ることになるのではないでしょうか?

#COMEMO #NIKKEI


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