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歴史家トゥキュディデスの見た疫病

 ギリシャの歴史家トゥキュディデスは、アテネとスパルタの間の戦争であるペロポネソス戦争を叙述した『歴史(戦史)』を著しました。

 彼の文体は時に難解ですが、非常に理知的であることで知られています。トゥキュディデスには「人間心理には普遍性があり、どの時代も似たようなことが繰り返される」という信念があったようです。

 政治的対立から悲惨な戦争に至ったアテナイやスパルタ、その他ギリシャ諸都市の動向が、後世への教訓のようにつづられています。

アテナイを襲った疫病

 トゥキュディデスの冷徹な筆致がよく表れている箇所は、『歴史』第2巻に見えるアテナイの疫病の記述です。以下は、小西晴雄訳『歴史』(ちくま文庫)によります。

 疫病は、ペロポネソス戦争前期の紀元前429年ごろに発生しました。

 最初にこの疫病はエジプトのさらに南のエチオピアに発生して、さらにエジプトとリビアに広がり、ペルシア王国の各地に入ったと言われている。アテナイには突如として現れ、最初はペイライエウス(※1)の人々を襲ったので、人々はペロポネソス人が貯水池に毒を入れたのかもしれないと噂した。
(※1)アテナイの外港

P162

疫病の正体は?

 トゥキュディデス自身もこの疫病に罹患し、さらに多くの患者を目撃しました。以下のような詳細な病状が記されています。

・突如として高熱を発し、目に炎症を起こす。
・舌や喉が出血を呈する。
・強い咳、くしゃみ、嘔吐。
・胃のけいれん。
・肌に小さいただれや腫瘍が発生する。
・体が異常に暑く感じ、激しい喉の渇きを覚える。
・大多数は7~9日目に死ぬ。
・7~9日目を持ちこたえても、激しい下痢で衰弱して死ぬ者が多かった。
・回復しても四肢や視力に後遺症が残った。

 これらの記録にも関わらず、その病名は分かっていません。混乱した市内の惨状を、トゥキュディデスはこう描写します。

 彼らが息を引き取るそばから死体は積み重ねられて街路に累々と並び、どの井戸にも水を求める瀕死の者たちが蝟集していた。彼らが住み込んだ社殿はその中で死んだ者の遺体で立錐の余地もなかった。つまり人は過度に災害の猛威を体験するとどうなるという判断力を失い、神聖とか尊厳に何の価値も認めなくなってしまうものだ。

P166

アテナイ人の心に残した傷

 疫病の惨禍は、アテナイ人の精神にも影響を及ぼしました。

 他の面でもこの大疫はアテナイ市全体の秩序が崩れていくさきがけとなった。つまり以前には束縛された心持で、隠れてしていた行動も人々は堂々とやってのけるようになった。それは裕福な者が思いがけず死んだり、それまでは文無しの貧乏人が死者の富を得てたちまち物持ちになるというような急変を、人々は目の当たりにしたからである。それゆえ、健康も富もひとしく長続きするものではないと考え、快楽にふけって一時の愉悦を大事なものとした。(中略)人の掟も神への恐れも拘束力を失った。

P166

 私たちは数年前からコロナ禍を経験し、社会の混乱を目の当たりにしました。現代人から見ても、トゥキュディデスの記述にはハッとさせられるものがあります。

 冷静な目で民衆の恐慌と諦念の模様を書き留めたトゥキュディデスの知性に、驚嘆を覚えずにはいられません。

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