知られざる高崎城の痕跡を求めて
あまり知られていないと思いますが、群馬県高崎市は城下町であり、上野高崎藩の政庁として高崎城が築かれていました。
徳川家康に従って関東に入った井伊直政は、初め箕輪城主となります。しかし慶長2(1597)年、交通の便がよい高崎に近世城郭を築き、居城を移しました。
三の丸の土塁と水堀
高崎城のあった地域は明治以降開発が進み、あまり多くの遺構はありません。
しかし、かつて城の外側を囲っていた三の丸の水堀と土塁が残っており、当時の面影を伝えています。
特に、土塁はすぐそれと分かるほどの規模を持ち、中々の迫力があります。
移築された乾櫓と東門
城址公園には、かつて本丸にあったという乾櫓と、三の丸の入口であった東門が移築現存しています。いずれも、農家に払い下げられ移築されたものを、再び城址に戻したものです。
いずれも本来の位置にはありませんが、群馬県内で唯一現存する貴重な城郭建築です。
長松寺に残る高崎城書院?
さらに、ちょっと変わった「移築建築」も紹介します。高崎城の本丸にあった書院が、市内の長松寺というお寺に移築されているというので、訪問してきました。
移築といっても、高崎城の建材が長松寺の庫裡に転用されたもので、外観からは分かりません。お寺を訪ねると親切なご住職が、丁寧に由来を教えてくれました。
長松寺は享保11(1726)年に全焼しており、ちょうどその頃高崎城が改築されたため、建材をもらい受けたそうです。
今はごく普通の部屋ですが、柱は確かに古そうです。
近世以降の格式の高い建物に使われる「釘隠し」もあります。
また、梁には手を入れられる程度の隙間があり、武器を隠したのではないかといいます。文字史料のない伝承ゆえに何とも言えませんが、高崎城の建材を転用した可能性は十分にあると思います。
長松寺庫裡にまつわる悲劇
長松寺庫裡となっている「伝高崎城書院」には曰くもあります。
徳川家光の弟である徳川忠長は、家光に疎んじられた結果、改易され高崎藩に身柄を預けられました。そして寛永10(1633)年、高崎で自害を命じられます。
長松寺の庫裡は、徳川忠長が自刃した部屋を移築したものと伝えられています。本当に「徳川忠長自刃の間」かどうかは分かりませんが、高崎で非業の死を遂げた貴公子を偲ぶことができる建物なのです。
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