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戦争まで引き起こした「イエロー・ジャーナリズム」⑤~W.R.ハーストの挑戦

前回はこちら。

 前回までは、《ニューヨーク・ワールド》紙を成長させたジョセフ・ピュリッツァーについて紹介した。今回は、ライバルであるウィリアム・ランドルフ・ハーストにスポットを当てたい。

 ピュリッツァーが立志伝中の人物だったのに対し、ハーストは資産家の子として対照的な前半生を歩んでいる。

地方紙経営者として才能を発揮

 ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、1863年にカリフォルニアで生まれた。父ジョージ・ハーストは、19世紀のアメリカ西武開発の時代に、鉱山経営者として財を成した実業家だった。経済的成功を収めたジョージは政治に関心を持ち、赤字の続いていたサンフランシスコの日刊紙《イブニング・エグザミナー》を買収する。叩き上げで教養に乏しかった父は新聞社経営に不向きであったが、これは息子ウィリアムの成功の足がかりになった。


 息子ウィリアムはハーバード大学に入学したが、勉強には不熱心だったらしく中退している。しかし、大学中退後の1887年に《エグザミナー》紙の経営を父から引き継ぐと、「メディア王」としての才覚を早くも発揮し始めた。

魅力的な紙面に生まれ変わった《エグザミナー》紙

 買収した時の同紙の紙面は、第一面から記事と広告でびっしり埋まっており、明らかに魅力的とはいいがたかった。


「発行部数を増やすには、幅広い階級の人々に訴えかけるのが一番だ」とハーストは考えた。まず、紙名を《サンフランシスコ・エグザミナー》に改称。見出しを大きくし、イラストをふんだんに使う。特に第一面には数段抜きの大判イラストを掲載した。記事の中身としては、殺人事件や大事故などの報道を増やし、大げさな脚色を加えた文体で読み手の心を掴んだ。


 例えば、1887年4月3日の紙面は、モンテレーにある高級リゾートホテル「ホテル・デルモンテ」の火災を報じている。

「飢えた狂乱の炎。炎はモンテレー湾沿いの豪華な快楽の宮殿に狂ったようにとびかかり、デルモンテは塔の頂から土台に至るまで、飢えた抱擁に包まれた。高く高く高く、炎は欲望をむき出しに舞い上がる。軒やアーチや正面を、狂おしく奔放に走り抜ける。獰猛に怒り狂い、震える宿泊客に襲い掛かる。……」

ニューヨーク進出を決めたハースト

 ハーストのターゲットは下層階級だけでなかった。スポーツ報道や海外のニュース、人気作家の連載小説なども掲載して、あらゆる階級に読まれる新聞を目指したのである。これらは、前述したピュリッツァーの《ワールド》紙の改革をモデルにしたものであった。


 こうした改革には、辣腕の編集者や評論家の引き抜きなど巨額の出費を要したが、父ジョージの資金に物を言わせて乗り切った。こうして、弱小の地方紙に過ぎなかった《エグザミナー》紙は、サンフランシスコの有力紙に成長していった。


 この頃、ハーストはまだ30代前半の若さだった。彼は《エグザミナー》紙の成功に飽き足らず、今度はアメリカの中心地ニューヨークへの進出を図った。

(続く)

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