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【小説】毒親育ちが転生しそこなって普通に進学したら絶望しかなかった

*姉妹編「慶應ボーイ・ミーツ・慶應ガール」も全文公開しています。


 ある朝、蓮正寺昇二が不吉な夢から目覚めると、自分が醜くて哀れな高校一年生になっていることに気がついた。嘆く暇もなかった。昇二は何者かに足を引っ張られ、ベッドから乱暴に引きずり出された。足を引っ張っていたのは彼の両親だった。
「着替えろ!」父親が命じた。
 母親が制服一式を用意していた。
 昇二は両親を振り切ってトイレに駆け込み、学校に行きたくないと訴えた。無駄と知りつつ、小学校と中学校を通して九年間訴え続けてきた主張だった。高校生になった今年でそれも十年目に突入していた。
「引きずってでも連れていくぞ!」
 父親は、胴間声を響かせながら借金取りのように容赦なくドアを叩いた。
「ここを開けろ! ひどい目に遭わせるぞ!」
 繰り返し恫喝されると、昇二はやがて恐怖に耐えきれなくなって鍵を開けた。
 トイレから無理やり引きずり出された彼は、委縮した体に制服をすっぽりと被せられ、フレームが曲がったまま直していないメガネをかけられ、押しつけるようにして通学鞄を持たされた。教科書とノートは母親が勝手に準備していた。
 拉致されるようにして車まで引きずってこられると、昇二は助手席に放り込まれた。
 父親は車を急発進させた。
「学校はどうだ」
 そこに行きたくないと言って五分と経たないうちに、そんなことを訊いてくるのだった。昇二には父親の思考回路がどうなっているのか見当もつかなかった。
「別に」
 他に返事のしようもなかった。うっかり意にそぐわないことを言えば、また怒鳴りつけられるだけなのだ。
 父親と二人きりの車内は、まるで沈没船のように息苦しかった。
 昇二は、数日前の入学式の朝に感じた底なしの憂鬱を今またはっきりと感じていた。まるで刑務所から別の刑務所へと移送されているような気分だった。それは何の罪も犯していないのにぶち込まれる刑務所であり、刑期も不当に三年追加されていた。はじめから何の希望もなかった。
「言っとくが」父親が吐き捨てるように言った。「お前なんかみんなに変人と思われてそれでおしまいだからな」
 昇二の保護者を自称するこの男は、さらに不滅の決まり文句を付け加えた。
「お前のために言ってるんだ」
 父親は、このままでは遅刻だから学校まで送ると言い出した。昇二はあわてて最寄り駅で降ろすように頼んだ。他の生徒に見られたらからかいの的になること必至だからだ。当然のごとく、父親は息子の意見になどまるで耳を貸さなかった。
 昇二の高校は城下町を見下ろす高台の上にあった。地元では名門とされる歴史のある公立高校だ。この高校に進学することは両親のたっての希望だった。昇二自身は高校などどうでもよかった。
 車がけたたましいブレーキ音を響かせて正門前に停まると、昇二は助手席から吐き出されるようにして転げ落ちた。車は急発進してあっという間に見えなくなった。
「おい、メガネ!」
 鞄から飛び出た荷物をかき集めていると、上から怒声を浴びせられた。付き従うような笑い声があとに続いた。見上げると、各階の窓のところに全校生徒が鈴なりになって群がっていた。
「寝癖くらい直してこい!」別の誰かが言った。
 生徒たちはどっと笑った。
 誰かが昇二を狙ってサッカーボールを投げつけると、それは見事に顔面に命中した。
 それを皮切りに方々から色々なものが飛んできた。食べかけのパン、薄汚れた上履き、黒板消し、パイプ椅子、スパイク、口の開いたペットボトル、デッサン用の石膏像、かつら、便座、生ゴミ、野球のバット、ビート板、スケボー、花瓶、刃の飛び出たカッター、プランターなどなど。
 昇二は身をかわそうとして、逆にすべてに当たることとなった。
 遅れて飛んできたシャーペンが、ダーツの矢のようにして額に突き刺さった。ひと思いに抜き取ると、まるで漫画のように血がぴゅううと噴き出た。生徒たちは一斉に笑った。昇二は完全に見世物になっていた。
 標準的な一日の出だしだった。
 世界は限りなく広いのに、逃げ場はどこにもなかった。それが蓮正寺昇二の高校生活であり青春だった。こうなったら行くところまで行くまでだ。
 昇二の教室は一年五組だった。
 後ろのドアから中に入ると、すでに一時間目の現代文がはじまっていた。クラス担任でもあるその科目の教師は、薄くなりはじめた髪をオールバックにしてサングラスをかけた、にやけ顔の背の低い男だった。
「いい天気だね」教師は言った。
「そうですね」クラスメイトたちは声を揃えて応じた。
「四月だっていうのに暑いよね」
「そうですね」
「明日はもっと暑くなるらしいよ」
「そうですね」
「今日はもう六時間目まであるってね」
「そうですね」
「きみたちも入学早々大変だね」
 クラスメイトたちは笑った。
 何が起きているのか分からなかった。ただ一人、昇二だけがこの掛け合いから取り残されていた。
「蓮正寺昇二!」
 教師は、遅刻して現れた昇二に対して、面白がるようにフルネームで呼びかけた。昇二の名前は「れんしょうじしょうじ」と「しょうじ」が二度続くので、聞いたものの頬が思わず緩む効果があった。
 クラスメイトたちがいやらしい笑みを浮かべて昇二を振り返った。昇二は彼らの底意地の悪い目つきに射すくめられたようになり、教室の後方に突っ立ったまま動けなくなった。
「いい天気だな」教師は試すように言った。
 さすがの昇二にも「そうですね」と言えばいいのだと分かった。だが、その言葉を口にしかけたまさにそのとき、突然雷鳴が響き渡って外は大雨となった。
「いい天気だな」教師はもう一度言った。
「あう、あの……」
 昇二は、外の天気と教師の顔を見比べてしどろもどろになった。
 突然、足元で床がぱっくりと口を開けた。落とし穴だった。昇二はあわてて何かに掴まろうとしたが、手は虚しく空を切るだけだった。彼がか細い悲鳴を残して床下へ落ちていくと、教室に笑いがこだました。
 限界だった。もうこれ以上耐えられなかった。
 昇二は授業を抜け出し、校舎裏に広がる雑木林に足を踏み入れた。雨は早くもやんでいた。
 学校には苦痛しかなかった。小学校時代から何年通っても、昇二にはそこが一体何をするところなのか分からないままだった。
 家も同じだった。両親は息子をくじけさせることをほとんど唯一の生き甲斐としていたが、それがあまりにもやり甲斐がないので、やればやるほど苛立ちを募らせ、より一層ひどく彼を踏みにじってくるのだった。家にはとどまることを知らない悪循環があるだけだった。
 居場所はどこにもなく、味方は誰もいなかった。一歩足を進めるごとに死にたいという言葉が頭の中でこだました。死にたいということ以外、何も考えられなかった。
 校舎裏の雑木林は、死ぬにはもってこいの場所だった。
 首を吊るのに目ぼしい木を探しているとき、昇二は枝から垂れ下がっていた大きなずだ袋のようなものにぶつかった。首吊りの先客だった。
「ぐごごごご……。誰だ? 我が眠りをさまたげるものは?」
 首吊り男が喋った。腐敗の進み具合や衣服の傷み具合から、首を吊ってからかなり時間が経過していることが分かった。
「すいません。起こすつもりは――」
「私に何の用だ?」
「あの、今どんな気分ですか?」昇二は好奇心から訊かずにはいられなかった。
 首吊り男は、ぎょろりと目を剥いて昇二を見下ろした。
「体中が焼けるようだ」
「苦しいですか?」
「ふん」首吊り男は不愉快そうに鼻を鳴らした。「生きていたときと比べれば全然ましだ。だからって最高の気分とは言えないがな」
「ぼくもやろうと思ってるんです」
「何を」
「あなたと同じことを」
「ふごっ」首吊り男は笑いかけて喉を詰まらせた。
「失敗すると余計に苦しいぞ。お前はロープも持ってないじゃないか。出直すんだな」
 その通りだった。ほとんどいつも死にたいということばかり考えているわりに、彼は衝動任せにここへ来たのだった。制服のベルトでは枝に引っかけるには短すぎた。
「おれの使ってるやつを見ろ。綿のトラックロープで六五〇キロまで耐えられる。軽くて摩擦にも強い。ビーバートザンで一九八〇円プラス消費税だ」
「参考になります」
「何事にもこだわりを持つことだ」
 昇二は恭しく頭を下げると、大人しくその場をあとにした。
 死にたいという気持ちが収まったわけではなかった。呆然自失で城下町までおりていくと、昇二は自分がいつの間にかお濠にかかる朱色の橋の上で、思い詰めた表情で水面を覗き込んでいることに気がついた。やがて、そのまま引きずり込まれるようにしてお濠に落ちた。
 どぷんと水がはねたあと、水面はたっぷり三十秒静かだった。
 突然、昇二はシンクロナイズドスイミングの選手のように水面に勢いよく飛びあがって悲鳴をあげた。脚にワニが咬みついていた。
 石垣を掴んで這いあがろうとすると、たまたま通りかかった観光案内の市民ボランティアが手を貸してくれた。
 市民ボランティアは昇二の脚に咬みついている生物を見て驚いた。それはワニではなかった。ワニに似た魚でアリゲーターガーという肉食の外来種だった。どこかの身勝手な飼い主が、飼い切れなくなってお濠に放したのだ。市では、この魚のせいでお濠の鯉が減って困っていたのである。
「人に咬みつくことは珍しいのに」
「まだ咬みついてます」昇二は痛みをこらえながら言った。
「お、そうか」
 市民ボランティアは枝を使ってその巨大魚の口をこじ開け、昇二の脚から引きはがした。体長は八十センチほどもあった。その魚は、噛み跡から完全な歯の模型が作れるほどくっきりとした歯型を昇二のふくらはぎに残していた。
「おかげで捕獲できた。きみはこのお濠の鯉たちの救世主だ。役所に電話しよう。カメラマンにも来てもらって一緒に写真を撮るんだ。お手柄高校生として新聞に出るぞ」
 昇二は、痛む足を引きずって逃げるように立ち去った。
 何かがおかしかった。すべてがおかしかった。もう何もかもおしまいだった。なのに続いていた。昇二は途方に暮れて帰宅した。
「数学と英語のテストが返されたでしょ」母親が開口一番に言った。
 その通りだった。子供の成績にしか興味がないこの母親は、学校で行われるありとあらゆる試験のスケジュールを把握しているのだった。
 母親は勝手に人の鞄を漁って解答用紙を取り出すと、目と指ですばやく○×を追った。
「ここが違ってる。ここが違ってる。ここも。ここも」
 そうやって間違えた箇所を逐一指摘してくるのだった。
 試験のたびに繰り返されるこの儀式は、いつも例外なく昇二を暗然とした気持ちにさせた。間違いが十あろうと、一つしかなかろうと同じことだった。間違いが一つもなかったときに満足そうな顔をするのは、地上でただ一人、この母親だけだった。
 そこへタイミング悪く父親が帰宅した。父親は、まるで神経の昂った人喰い熊のようにいきり立ち、不機嫌を撒き散らしていた。
「お前にはがっかりだ!」
 父親は、昇二のミスに付け込んで大袈裟な言葉で責め立てた。
 昇二はその場に正座させられ、どうすれば挽回できるか言ってみろと威圧的に迫られた。
 まるで頭上に巨大な金床をぶら下げられているような気分だった。解放されるには相手が聞きたがっている答えを言うしかなかった。
 正解は分かっていた。「がんばって勉強して次のテストでもっといい点を取る」と言えばいいのだ。だが、分かってはいても口にはできなかった。一つにはそれが空手形を発行するようなものだからであり、一つにはそれがあまりにも薄っぺらく、的外れで、型にはまったバカげた発言だからだった。
「どうすればいいか言ってみろ!」
 父親は今にも殴りかからんばかりに脅しつけた。
「分からない」
 それがぎりぎり妥協できる答えだった。
「分からないとはなんだ! 自分で考えろ!」
 父親は、昇二の葛藤などまるで理解せず、自白を強要する能無し刑事のようにわめき散らした。
 まるで拷問だった。昇二は、何度か消え入るような声で「分からない」と呟いたあと、楽になりたい一心で父親が聞きたがっている言葉を言わされることとなった。
「がんばって勉強して、次のテストでもっといい点を取ります」
 翌朝、昇二が叫び声をあげながら恐ろしい夢から目覚めると、相も変わらず自分が醜くて哀れな高校一年生であることに気がついた。昇二は問答無用に両足を掴まれ、地獄に引きずりこまれるようにしてベッドから引きずり出された。
「着替えろ!」父親が命じた。
 母親が制服一式を用意していた。
 昇二はトイレに逃げ込んだ。
「学校行くとお腹が痛くなるからいやだ!」
 昇二は切実な思いで訴えた。
 それは本当のことだった。昇二は小学校の頃からずっと授業中に急激な腹痛に襲われるという謎の症状に悩まされていたのだ。
 腹痛が起きると、彼はいつも授業中にトイレに席を立つという恥ずかしさを避けるため、脂汗をたらしてぎりぎりまで堪えたのち、結局我慢できずに挙手してトイレに行きたいと申し出るのだった。背中に笑い声を浴びせられながらトイレに駆け込むと、いつも決まってひどい下痢便が出た。
 そんなことが毎日のように起きるのだった。ひどいときには一日に二回も三回もだった。 
 昇二はもう何年にも渡って両親に惨状を訴えていた。
「お腹が痛くなるなんて誰だって同じだ!」
 それが父親のいつもの回答だった。
 父親は、自分以外の人間が体調不良になるとあからさまに不機嫌になったし、どんなに根拠がなかろうと大声で言えばそれが真実になると信じていた。
「五体満足で生まれただけで幸せ」
 それが母親のいつもの回答だった。
 母親は、普段は障害者などこの世に存在しないかのような態度を取っているくせに、感動物語に仕立てあげられた障害者のドキュメンタリーを見ると気分よさそうに涙を流すような人間だった。
「病は気から!」
 両親は口を揃えて言った。
 もう何を言っても無駄だった。
 昇二は授業中にトイレに行かなくて済むように自分であらゆる努力をしてみたが、何をやっても効果は得られなかった。家ですべてを出し切ってから登校してもダメだったし、休み時間のたびにトイレにこもっても何も出なかった。何も食べないという手段に出ても、それでもなお下痢になった。
 手の打ちようがなかった。授業がはじまると決まったように腹痛に襲われ、そして、いったんそうなってしまうと百パーセントの確率でトイレに駆け込むことになるのだ。授業に集中するどころではなく、学校で気の休まるときなど片時もなかった。
 何しろ話は下のことであるから、威厳の保ちようもなかった。昇二はどの学年にあってもクラスのいい笑いものとなり、「うんこ」とあだ名された。あまりにも露骨でみじめなあだ名だったが、当の本人にさえそれが妥当だと思えた。歴代のすべての担任教師が昇二を嘲笑った。
 下痢をめぐるこうした闘争で、昇二はとことん負け癖をつけさせられていた。
「学校はいやだ。病院に行きたい」
 昇二はトイレに立てこもったまま訴えた。
 急激な下痢以外にも、彼はこれまで様々な原因不明の症状に悩まされてきた。
 謎の湿疹、何週間も続く咳、何週間も続く微熱、突然の発汗、食いしばり、偏頭痛、過呼吸、チック、自分の体が臭くて仕方ない気がすること、爪を噛むのがやめられないこと、人の視線を感じると極度に緊張してしまうこと、閉じ込められると強い圧迫感を感じること、慢性的な気持ちの落ち込み、手足の震え、耳鳴りなどなど。
 数え上げたら切りがなかった。
 聞きかじりの心療内科的知識から、昇二はどれもこれもストレスが大きな要因であるに違いないと考えていた。これまで何度となくその手の病院に連れていってほしいと頼んでいたが、両親はいつも彼が訴える症状を小バカにして笑うか、逆に我慢が足りないと言って怒り出すかするだけだった。彼は今まで一度として医師の診察やカウンセリングを受けたことがなかった。
 昇二には、これまで散々自分を苦しめてきた症状に名前がつくことに対する強い憧れがあった。両親は説明が二行になると言い訳だと決めつけたし、三行になると臭いものに蓋をするように見て見ぬふりをした。一行あるいは一語でなければダメなのだ。一語ですべてが示せる病名がどうしても必要だった。名前がないと自分自身に対してさえ自分の身に起きていることをうまく説明することができないのだ。
 少しの間、ドアの向こうが静かになった。
 父親が逆上すると巻き添えを食わないようにさっさと姿をくらませる母親が戻ってきて、二人で何事か相談しているようだった。
「開けろ」父親がドアの向こうでやや声を落として言った。「病院に連れて行ってやる」
「ホントに?」
「いいから開けろ」
 昇二は、電気ショックを与え続けられた実験用のネズミのように震える手で鍵を開けると、ドアの隙間からそっと外を覗いた。
 途端にドアが勢いよく引き開けられた。昇二は無理やり引きずり出され、制服を上からすっぽり被せられ、フレームが曲がったメガネをかけられ、通学鞄を押しつけられ、拉致されるように車まで連れていかた。
 父親は車を急発進させた。
 車はあっという間に病院を通り過ぎた。
「びょびょびょびょびょ、病院は?」
 昇二は強制という名の拘束着を着せられていた。あまりにも度が過ぎていたので、その服はほとんど目に見えるかのようになっていた。
「病は気から!」父親は威嚇するように言った。
「連れていくって言ったのに!」
「お前には我慢が足りない!」父親は自らの怒声に興奮してさらに言い募った。「お前の悩みなど悩みのうちにも入らん! 他のみんなの方がよっぽど悩んでいる!」
「学校に行くのが当たり前」
 いつの間にか後部座席に同乗していた母親が言った。
 得意の常套句で訴えを無化された昇二は、無間地獄へ落ちていくような気分で座席に深く沈み込んだ。彼にあるのはもうどうしようもないという無力感だけだった。
 いやなことにひたすら耐えること。そして、それに対する見返りは何一つないこと。それが昇二がこの両親に繰り返し叩き込まれてきた現実だった。生まれてきたのがそもそもの間違いだった。
 昇二は百一段階段のたもとに放り出された。車はあっという間に走り去っていった。
 それは高台にある高校へのアプローチとなる階段で、その名の通り百一段ある階段だった。
「ゴー・ゴー・レッツ・ゴー! しょうじ!」
 突然元気のいい声を浴びせられ、昇二はびくっと肩をすくめた。顔を上げると、階段にずらりとチアガールが並んでいるのが見えた。あまりにも超現実的な光景だった。
 チアガールたちは、きびきびとした動きで足を蹴りあげ、ポンポンを振って昇二を応援した。
「レディ、オーケー?」
 一番下の段のチアガールが問いかけた。
 昇二は圧倒されてこくこくとうなずいた。
「エブリバディ・セイ!」
 一番下のチアガールが上に向かってコールすると、仲間たちが応えた。
「ゴー・ゴー・レッツ・ゴー! しょうじ!」
 昇二は声援に押されるようにして百一段階段をのぼりはじめた。
 チアガールたちは段差をものともせずに華麗な技を披露した。彼女たちが飛び跳ねたり、片足を軸にして回転したりすると、ミニスカートがふわふわ舞ってショートパンツがちらちら覗いた。
「S・Y・O・J・I! SYOJI!」
「ヘイ! ナンバー・ワン!」
 一段のぼるたびに、昇二はチアガールたちから全力の笑顔で前向きな言葉を投げかけられた。
「ファイト!」
「笑顔を見せて!」
「負けないで!」
「くじけちゃダメ!」
 昇二は、笑顔を見せてと言われると顔がこわばった。負けないでと言われると負けそうになった。くじけちゃダメと言われるとくじけそうになった。
 階段も残りわずかになると、昇二はチアガールたちに担ぎあげられた。
「レディ? レッツ・ゴー!」
 最初に一番下の段にいたリーダー格のチアガールが言った。
 チアガールたちは昇二の手足や胴体を掴んで高々と持ちあげると、そのまま一気に残りの階段を駆けあがった。一番上に着くと、昇二は「ヘイ!」という全員揃った掛け声とともに空高くへ放り投げられた。
 昇二は、わけも分からずに空中できりもみ回転しながら、このまま地面に激突して死ぬことを夢見た。そうはならなかった。チアガールたちが手を交差させて作ったネットで、うまいこと昇二をキャッチしたのだ。
「ヘイ!」
 チアガールたちはフィニッシュを決めると全員でポーズを取った。
 昇二が一番息が切れていた。
「き、きみたちは誰?」
「私たちは101匹チアガール!」
 リーダー格のチアガールが元気いっぱいに言った。
「匹? 人じゃなくて――」
「エブリバディ・セイ!」
 リーダー格のチアガールが昇二をさえぎってコールした。
「ゴー・ゴー・レッツ・ゴー! しょうじ! ヘイ!」
 他のチアガールたちが応えた。
 チアガールたちは、ポンポンを振りながら跳ねるように退場していった。
 あっという間に誰もいなくなった。昇二は一人とぼとぼ校舎に向かった。
 教室に入ると、昇二はいきなりドロップキックを食らった。廊下まで吹き飛ばされると、後ろに回り込んでいた生徒二人に捕まって再び教室に投げ戻された。昇二は腕まくりをして待ち構えていたクラスメイトにラリアットで迎えられた。
 床に突っ伏して喘いでいると、数人に取り囲まれて激しくストンピングされた。ようやくそれがやんだかと思うと、一本の手がすっと差し出された。昇二は思わずその手を掴んだ。強い力で引き起こされたかと思うと、頭を相手の膝の間に挟む格好にさせられた。助けてくれるのではなかった。昇二は体を逆さまにして抱えあげられた。教室が沸いた。パイルドライバーだった。
 失神しているうちに四時間目まで終わっていた。
 昼休みになってようやく意識を取り戻すと、昇二は鞄を手にふらふらと教室を出て南棟に向かった。
 敷地の外れにあるそのこじんまりとした建物は、一階に図書室と保健室が入っている他は各階に実習室があるだけで、普段生徒が寄りつくことはほとんどなかった。
 その四階にある男子トイレの奥の個室は、広い校内で唯一昇二が息をつける場所だった。彼は昼休みはもちろん、授業合間の短い休み時間にもわざわざここまで来て、そのわずか半畳ほどの空間で過ごすようになっていた。
 昇二は鞄からおもむろに弁当を取り出すと、立ったままそれを食べた。彼にとっては他のどこで食べるよりマシだったのだ。立ったままなのは便器が和式だからだった。
 弁当はまったく喉を通らなかった。入学以来まともに食べられた試しがないのだ。少しでも食べなければと思って無理やり口に入れると、まるで腐葉土を詰め込まれたかのように胸がむかついた。
 昇二は、いったん個室を出て、洗面台の脇にあるごみ箱に弁当の中身を捨てた。残して帰ると母親がうるさいから食べたことにするのだ。気配を感じて振り返ると、作業服にゴム手袋をつけた男がトイレの入口のところに立っていた。
「わっ」
 昇二は驚いて弁当を捨てる手を止めた。
 男は、薬品や雑巾を詰め込んだ水色のバケツをぶら下げ、もう片方の手には使い込んだ感じのデッキブラシを持っていた。用務員だった。
 何か釈明しなければとどぎまぎしたが、相手は気に留める様子もなかった。用務員はバケツから容量の大きな黄色いボトルを取り出すと、小便器の目皿を取り外して液体洗剤を垂らして回った。
「新入生だな?」用務員はようやく昇二に一瞥をくれた。
 昇二は黙ってうなずいた。
「私の正体を知りたいか」
「え?」
 あまりにも唐突な質問だった。どう返せばいいのか見当もつかなかったが、そんなことを言われるとこの人は用務員ではないのかという疑問が否応なく生じた。だが、目の前の男はどこからどう見ても学校の用務員にしか見えなかった。
「用務員さんじゃ――」
「実は小説家なんだ」
「え?」
「兼業してる。小説は仕事が終わったあとや休みの日に書くんだ。だが、こうしている間も常に小説のことを考えている」
 大学で教えている小説家という話なら聞いたことがあったが、高校で用務員をしている小説家というのは初めてだった。昇二は、男がどこか油断のならない目つきをしていることに気がついていたが、その目は便器の汚れを見極める以外のことにも役立っているらしかった。
「何か悩みがあるようだな」用務員は研磨スポンジで小便器を磨きながら言った。
「いや、ぼくは――」
「小説を書くといい」
 実は小説家の用務員は、昇二が話そうとするのをさえぎって言った。
「な、なんで?」
 昇二は、ほんの少しでも小説に興味があるような素振りをした覚えはなかった。
「書いてみなければ何も分からない。小説というのはそういうものだ」
「いや、なんて言うか――」昇二は別にそんなことは訊いていなかった。
「きみがここで学んだことは何だ。この学校で。中学や小学校で」
 実は小説家の用務員は、言いたいことを一方的に言い、他人の話にはまるで興味がないタイプの人間のようだった。それでも昇二は訊かれたことについて考えてみた。
「何も」
 高校で学んだことなど何もなかった。これまでも同じだった。小学校と中学校、九年間の学校教育、何もなし。
「よし、それを書いてみろ」
「でもどうやって」
 素人の昇二には、「この学校で学んだことは何もない」と書いたらそれで証明は終わってしまうように思われた。
「そこが腕の見せどころだ。書けたら読んでやろう」
 具体的なアドバイスはなかった。実は小説家の用務員はバケツに水を汲んで小便器を順に洗い流すと、さっさと荷物をまとめて次のトイレに行ってしまった。
 得体の知れない男だったが、小説を書いてみるという考えは悪くなさそうだと昇二は思った。そういう形でしか吐き出せないような何かが自分の中にはあるような気がした。
 帰りがけに一階にある図書室に立ち寄った。
 本が整然と並ぶ書架の間を何気なく行き来してみると、物量に圧倒されて目眩がした。実を言うと、昇二は今まで小説というものをただの一冊も読んだことがなかった。
 文章を書くことも苦手だった。学校という場所で課せられる課題の中で、昇二が最も嫌っているものといえば作文だった。作文というものには正解があるのかないのかがいまいち分からなかったし、自分で考えたことを書けばいいのだと言われても、それでもなお望ましい答えというものはあるような気がした。
 昇二には、考えるということがどういうことなのかも分からなかった。もともとは分かっていた気がした。だが、自分で考えたことを両親に頭ごなしに否定されているうちに、次第に分からなくなってしまったのだ。
 両親は「自分で考えてみろ」と言っては昇二に考えさせ、出てきた答えを全否定するという悪魔の手法で昇二を混乱の極みに突き落としていた。そこでは親の考えこそがすなわち正しい考えであるとされた。事実上、昇二は自分で考えることを禁じられていたのだ。
 多くの本に囲まれて、昇二はいつの間にか平常心を失っていた。
 彼は、書架から何冊もの本をでたらめに取り出すと閲覧席の上に積み重ねていった。自分でもなぜそんなことをはじめたのか分からなかったが、やってみると不思議と心が落ち着くのを感じた。
 一冊また一冊と本の上に本を重ねていくと、やがて即席の本の塔ができた。角は揃っていなかったし、厚さや表紙の色にもまとまりがなかった。判型もジャンルも入り乱れていた。どんな観点から見ても統一感がなかったが、それでもそこには確固たる何かがあった。
 そのとき、昇二は天啓を受けた。欠けている最後のピースがはっきりと見えたのだ。昇二は、鞄からレモンを一個取り出すと、塔の天辺にそれを置いた。レモンはレモンでも、CCレモンのペットボトルだ。つい先程、校内の自販機で買っていたのである。
 これで完璧になった。まるで神話に登場する建造物が眼前に姿を現したようだった。
 昇二はこのあとどうすればいいのかも分かっていた。本の塔をこのままにして、何食わぬ顔で出ていくのだ。
 さっそく実行に移そうとすると、入口のところに図書委員が腕を組んで立ちはだかっていた。
 昇二は、相手の顔を見ないようにうつむいたまま右に避けた。すると図書委員は大股で一歩横に動いて道をふさいだ。昇二は今度は左に避けた。図書委員はまたしても大股で一歩横歩きして行く手をふさいだ。
 昇二は右に行くと見せかけて素早く向きを変え、左から抜けようとした。図書委員はフェイントにひっかからなかった。昇二はあえなく捕まり、腕を後ろにひねりあげられた。
「本を元に戻せ」
 昇二は言われた通りにした。
 放課後、昇二は下駄箱で靴に履き替えると、一刻も早くこんなところから立ち去りたい一心でさっと足を踏み出した。思ったように足が前に出なかった。誰かが右の靴紐と左の靴紐を結び合わせていたのだ。昇二は派手に転倒して地面に鼻を打ちつけた。鼻血が出た。
 古典的ないたずらだった。靴紐はあまりにも固く結ばれており、いくらがんばっても解けなかった。仕方なく、昇二は太ももを縫い合わされた男のようにひょこひょこ小刻みに歩いて帰っていった。 
 駅で電車を待っていると、中学のときに一度同じクラスになったことがある男に声をかけられた。親しく話したことはなかったが、田中という名前は覚えていた。
 田中は、昇二の高校とは駅の反対側にある、偏差値が低いことで有名な高校の制服を着ていた。
「高校の勉強って難しくないか?」
 田中は疲れた顔で言った。
 昇二はあいまいにうなずいた。
「十一を英語でなんて言うかだぞ。分かるわけないだろ?」
 昇二はその言葉の内容をよく検討してみた。
「それは中学の問題だと思うけど。中学一年の」
「マジ?」同級生は深くため息をつきながら首を横に振った。「だからか」
「いや、だからかって意味分からないし」
 このとき、昇二はある重大なことに気がついて後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
 それは、昇二の両親がこの中学の同級生と同じ高校の出身だという事実だった。両親とこの同級生は、同じレベルの学力なのだ。学校でいい成績を取ることがすべてだと思っているあの親は、英語で十一を何というか知らないやつと大差ないのだ。
 両親の出身校は知っていたが、今までそのように捉えたことはなかった。
 すべてが繫がった気がした。両親が通った高校の偏差値レベルは低かった。大学もそうだった。両親はともにFランクの私立大学の出身だった。そのあとどうなったかと言えば、父親は高校の体育教師になり、母親は一度も社会に出ないまま専業主婦になっていた。
 二人とも勉強などろくにしたことがないのだ。進路にうるさく口出ししてくるのは、両親自身の学歴への劣等感ゆえなのだと昇二は気がついた。自分たちができなかったことを、あるいは怠けてやらなかっただけことを、子供に無理強いしているのだ。自分たちの自尊心を満たすために子供を利用していただけだったのだ。
 翌朝、昇二が現実の際限のない繰り返しのような夢から目覚めると、自分が寝ても覚めても変わらない醜くて哀れな高校一年生であることに気がついた。
 昇二は問答無用に両足を掴まれ、奈落の底に引きずりこまれた。
 無理やり車の助手席に放り込まれそうになると、昇二はドアを掴んで抵抗した。
「ちょっと話が――」
「子供のくせに生意気な口をきくな!」
 まだ何も言ってないのに、父親がいきり立って封殺した。
「学校に行くのが子供の義務!」母親が得意の常套句で気力をくじいてきた。
「それは違う。親の方に子供に教育を受けさせる義務が――」
「口答えする気か! 何様のつもりだ!」
 話の通じる相手ではなかった。今さら分かり切ったことだった。昇二は舌を引っこ抜かれた罪人のように黙り込んだ。車は急発進した。
 またしても百一段階段のたもとに放り出された。
「ゴー・ゴー・レッツ・ゴー! しょうじ!」
 チアガールたちが手を貸し、一段また一段と昇二をのぼらせていった。
「イエス! ユー・キャン!」
「イエス! ユー・キャン!」
「イエス! ユー・キャン!」
 教室のドアを開けると、上から金盥が落ちてきた。
 もろに脳天に食らって床に倒れると、今度はクラスメイトたちに囲まれて足蹴にされた。
「やめ、やめてくれ」
 誰もやめなかった。
 やがて、昇二はいくつもの手に押さえつけられ、まるで人食い族に捕らえられた生け贄のようにしてどこかへ連れていかれた。校舎を出ると、渡り廊下のすのこがげらげら笑うように鳴った。その先にあるのは旧体育館だった。
 今にも朽ち果てそうなその木造の古ぼけた建物は、割れた窓ガラスや破れた床板がそのまま放置されており、雨の日に新体育館からあぶれた運動部が筋トレをするのに使用する他は誰も使うことがなかった。
 昇二は、後方の更衣室に連れ込まれると、壁際に並んだ錆びついたロッカーの一つに押し込まれた。外から鍵がかけられる音がした。
「開けてくれ!」昇二は扉を叩いて懇願した。「閉所恐怖症なんだ!」
 外で笑い声が起こり、それがそのまま遠のいていった。
「頼む! おい!」
 もう返事はなかった。ロッカーの中は窮屈な上に、斜めになって引っかかっている箒の柄がひどく邪魔だった。扉を蹴ろうにも体勢が悪くて足に力を入れられなかった。呼吸が浅くなり、それを意識することで余計に気持ちが焦った。昇二は狂ったように扉を叩いた挙げ句、気を失った。
 ロッカーの扉が突然壊れて開き、昇二は更衣室の床に投げ出された。
 全身を打ちつけた痛みと、床板の冷たさで意識を取り戻した。窮屈な姿勢で閉じ込められていたせいで体の節々がこわばっていた。
 薄暗く湿っぽい更衣室は、あちこちに蜘蛛の巣が張りめぐらされ、割れたガラスが床に散らばっていた。奥には壊れた長机やパイプ椅子が雑然と積み上げられていた。
 どれくらい時間が経ったのか分からなかった。外はまだ明るかったが、グラウンドの方から運動部の声が響いてくることもなかった。なぜか、休みの日に間違えて学校に来てしまったような感じがした。
 そのとき、別のロッカーから突然男が躍り出た。同じ制服を着ていたが、やけに老けていて三十代後半くらいに見えた。男は薄目を開けると周囲の明るさに恐れおののき、あわてて窓の方に手をかざした。
「まだ昼間かっ!」
 男はすごすごとロッカーの中に戻ろうとした。
 昇二はあっけに取られて男を見つめた。
「ドラキュラちゃうちゃう!」
 男は、昇二が小芝居に突っ込まないのを見て取ると、自分で自分に関西弁風に突っ込んだ。
「笑え。先輩先輩」
 男は着ている制服をアピールしながら言った。
「この学校の人ですか?」
「ほれほれほれ、同じ制服」
 昇二は改めて相手をよく見た。目尻や額に刻まれた何本ものしわ。かさついた肌。白髪の目立ちはじめた頭。張り出し気味のお腹。どう見ても高校生とは思えなかった。この学校には夜間コースもないはずだった。
「OBの方?」
「現役に決まってるだろうが」
「でも」
「大先輩だから。二十三回留年してるから」
「二十三回?」
「何。おかしい?」男の目は笑っていなかった。
「いえ」昇二は一度否定し、それから「はい」と正直な気持ちを言い、それから焦ってもう一度「いえ。全然」と否定した。自分の年齢に二十三を足してみて、何とか納得した気になった。
「この学校はいろいろとおかしいんだ」
 二十三回留年の男は、ふんと鼻息を吹いてぼやいた。
「それはぼくも思います」
 昇二が控えめに同意すると、二十三回留年の男は片眉をぴくりとあげ、品定めするような目で昇二を見た。
「一年坊主。この学校にはお前の知らないことがまだ山ほどあるぞ」
「はぁ」
「知らないままでいたら絶対に卒業できない。卒業したかったらすべて理解して自分のものにしないとダメなんだ。試験の出来なんか関係ない」
 昇二はそう断言されて思わずたじろいだ。それと同時に、自分が知らないことというのが何なのか、少しではあるが興味を引かれた。
「この学校のことなら何でもおれに訊け」
「はぁ」
 少しおかしい気がした。もしこの人が何でも知っているというなら――。
「じゃあなぜおれが二十三回も留年してるのかって顔をしてるな」
「いや、別に」
「知るべきことを知ったあと自分で考えてみるんだな。いいか、教師どもを信用するな。まさかとは思うが、してないよな?」
 まったくしてなかった。昇二は深くうなずいた。
「連中をよく観察するんだ。そうすればすべて見えてくる」
 昇二は肝に銘じた。
 翌朝、昇二が恥辱にまみれたいやらしい夢から目覚めると、自分が醜くて哀れで救いようのない高校一年生であることに気がついた。と同時に、両方の足を引っ張られてベッドから引きずり出された。
「お前にはがっかりだ!」
「五体満足で生まれただけで幸せ」
「お前の悩みなど悩みのうちに入らん! みんなの方がよっぽど悩んでる!」
「みんな行くんだから行くのが当たり前」
「ひねくれた根性を叩き直してやる!」
 無理やり玄関から放り出されると、そこは一年五組の教室だった。昇二は、一時間目がはじまる前からすでに意識もうろうとしていた。
「れんしょうじしょうじ!」
「へ?」
 昇二は大声で名前を呼ばれて突然我に返った。クラスメイトたちが失笑した。
「立て!」世界史の教師が権力を振りかざして言った。「おれが今訊いたことに答えてみろ!」
 昇二はよろよろと立ち上がった。何を訊かれたのかも分からず、ただもじもじするしかできなかった。
「はいダメー!」
 世界史の教師が手で教壇を強く叩くと、天井がぱかっと口を開けた。そこから大量の水が昇二に降り注いだ。教師とクラスメイトたちが一緒になって、ずぶ濡れになった昇二を指さしてげらげら笑った。
 昇二は、二十三回留年の男が言っていたことを思い出した。教師どもをよく観察するんだ。そうすればすべて見えてくる。
 昇二はその言葉を信じることにした。もはや他にすがるものがなかったのだ。
 教室では何事もなかったかのように授業が続けられた。中世ヨーロッパはどこもかしこもネズミだらけだったのでみんな気持ちが暗くなった、それゆえこの時代を暗黒時代と呼ぶようになった、という内容の話だった。
 昇二にしてみれば、あまりにも甘すぎる認識だった。それはそんな大昔の話ではない。暗黒時代は今も続いているのだ。昇二の周りで。
 世界史の教師は、前歯を突き出してネズミの真似をした。
 ちゅーちゅー、ちゅーちゅー。
 生徒たちは大いにウケていたが、昇二には何が面白いのかまるで分からなかった。
 そのときだった。世界史の教師が鳴き真似の合間に何かささやいた。
 ちゅーちゅー、(……)ちゅーちゅー。
 ちゅーちゅー、(……)ちゅーちゅー。
 昇二は全神経を集中した。フィルム映像の中にわずか一コマだけ差し挟まれた断片のように、世界史の教師は一瞬恐ろしい悪鬼のような顔に変貌して、何か言っていたのだ。
 時の狭間の感知できないほどの短い瞬間だったが、昇二は見逃さなかった。
「屈服しろ!」
 世界史の教師はそう言っていた。
 ちゅーちゅー、(屈服しろ!)ちゅーちゅー。
 ちゅーちゅー、(屈服しろ!)ちゅーちゅー。
 昇二は恐ろしくなって椅子ごと身を引いた。
 昇二が気がついたということに、世界史の教師もまた気がついたようだった。世界史の教師は、昇二を見据えて陰謀めいた笑みを浮かべた。
 昇二はすがるような思いで教室を見回した。他の生徒たちは、まるで笑気ガスでも吸わされたみたいにネズミの物真似に腹を抱えて笑っていた。ただ一人、昇二だけが世界史の教師の正体を知ったのだ。
 気がつくと二時間目の数学がはじまっていた。
「お前のことなど誰も助けてくれない!」
 数学の教師は因数分解の公式を説明する合間に、ほんの一瞬恐ろしい悪鬼の顔に変貌し、言った。
 昇二は、冷や汗をかきながら教師を見つめた。
「お前のことなど誰も助けてくれない!」
 教師は同じメッセージを繰り返し発した。人間の顔と悪鬼の顔が点滅するように入れ替わった。昇二はその度に教室をきょろきょろ見回した。クラスメイトの誰も、このことに気がついていなかった。
 三時間目は化学だった。
「諦めろ!」
 白衣を着た化学の教師は言った。
「何も考えるな!」
 サングラスをかけた現代文の教師は言った。
「適応しろ!」
 英語の教師は言った。
「適応しろ! 適応しろ! 適応しろ!」
 昇二が混乱に満ちた悪夢から目覚めると、自分が醜くて哀れな高校一年生であることに気がついた。昇二は、ベッドから引きずり出され、玄関から放り出された。
「お前には我慢が足りない!」
 そこはもう一年五組の教室だった。
「れんしょうじしょうじ!」
 昇二が荒れ狂う渦の中でもがき苦しむ束の間の夢から目覚めると、倫理の教師が彼を指名していることに気がついた。授業中に居眠りをしてしまったのだ。
「わ、分かりません」昇二はふらふらと起立し、もうろうとした意識のまま言った。
「体面がすべて!」倫理の教師は言った。
「え?」
「お前には我慢が足りない!」体育の教師が言った。
 息をつく暇もなかった。次から次へと焼夷弾が降ってくるようだった。
「同調しろ!」情報の教師は言った。
「既存の体制を支持しろ!」家庭科の教師は言った。
「想像するな!」美術の教師が言った。
 昇二は、南棟四階にあるトイレの、奥の個室から転がり出た。
 床に突っ伏したまま起き上がれなかった。手の施しようがない悪夢から目覚めたかのように、全身にびっしょり汗をかいていた。
 大変なことが起きていた。高校はさながら惨劇の館だった。
 二十三回留年の男の言った通り、すべてが見えたのだった。この学校は完全におかしかった。正気の沙汰ではなかった。ここではとんでもない洗脳教育が施されていたのだ。
 昇二だけがそのことに気がついていた。いや、本当はみんな気がついているのかもしれなかった。むしろ、進んで洗脳を受けているのかもしれないのだ。そうしなければ卒業できないのだとしたら、誰もがそうするのではないか。だが、それは魂を売り渡すのにも等しいことだった。教育とは逆のことなのだ。
 これまでもずっと何かがおかしいと思っていたが、小学校中学校を通して同じことが続いていたのだと今になってはっきり気がついた。
 ここにいたらダメだ。昇二は強く思った。
 気がつくのが遅すぎるくらいだった。いや、本当は心のどこかで気がついていたが、今まで抑えつけられていたのだ。親と学校が結託して、昇二を騙して来た結果だった。どうにかしてここから抜け出さなければ。このままでは遅かれ早かれ自分も洗脳されてしまう。
「何か書けたか?」
 気がつくと、実は小説家の用務員が入口のところに立っていた。片方の手に道具を詰め込んだバケツを、もう片方の手にデッキブラシを持っていた。
 昇二はふとひらめいた。自分には小説があるではないか。いきなり学校をやめるといっても先立つものがなかったが、小説に賭けてみることはできるかもしれない。
 この数日の間に、実は小説家の用務員に勧められるままに少し書いてみたのだった。自分には文章を書くことなどできないと思っていたが、やればできるような気がしはじめていたところだった。プロだか何だか知らないが、とにかく読んでもらって後押ししてもらえたら心強かった。
「少しだけ書いてみました」
「見せてみろ」
 昇二は、制服の内ポケットに折り畳んでしまってあったルーズリーフを渡した。手書き原稿だった。実は小説家の用務員は、ゴム手袋を外してそれを受け取ると、その場で文章を音読した。
「オ、オール・ワーク……」実は小説家の用務員は出だしからつまずいた。「英語?」
「はい」
 実は小説家の用務員は、不満そうに眉をしかめてもう一度頭から読みはじめた。
「オール・ワーク・アンド・ノー・プレイ。えー、メイクス・ジャック……、ジャックというのは誰だ?」
「登場人物というか……」
「まぁいい」実は小説家の用務員は続きを読んだ。「メイクス・ジャック・ア・ダ、ダ……」
「ダル」
「ダル・ボーイ。どういう意味だ」
「それは……」
「ダルビッシュ?」
「そんなところです」
「ジャックがダルビッシュになる?」
 実は小説家の用務員は、文章の続きに目をやった。
「あとは同じ文章の繰り返しだ。ずっと」
「はい」
「はい?」
「ぼく、ものになりそうですか?」
「なるわけないだろ!」
 実は小説家の用務員は、怒りに顔を真っ赤にしてルーズリーフをばらばらに引き裂いた。
「あっ! ちょ、やめっ!」
「ダメダメダメダメ! 全然ダメ!」実は小説家の用務員は、ちぎったルーズリーフを忌々しげに撒き散らした。「小説をナメてるのか!」
 昇二は、わっと泣き顔になって切れ端を拾い集めたが、すぐにそこまでする価値のない原稿なのだとあきらめた。
「これしか書けなくて」昇二は床に膝をついたまま涙目で訴えた。
「あきらめるんだ」
「それじゃ困るんです」
「がっかりすることはない。才能というのは、ないのが普通なんだから」
 その言葉は何の慰めにもならなかった。
 学校から一歩出たと思ったらもう家だった。昇二は、すべての希望を打ち砕かれて居間のソファに倒れ込んだ。テレビでワイドショーをやっていた。
 自殺した男子中学生のニュースだった。同級生から受けたいじめがその原因で、担任教師もそれに加担することがあったという。その男子生徒は、誰にどんなことをされたのか日記に克明に書き残していた。しかし、学校側は会見でいじめの事実は確認できないと言った。
 都合の悪いことは認めない。あるいはもみ消す。それが学校だった。
 次は、両親を殺した高校一年生の男の子のニュースだった。幼い頃から両親に厳しくしつけられた彼は、有名国立大学を目指すようにことあるごとに言われていたという。両親はテストの点がちょっとでも悪いと「そんな子に育てた覚えはない」だとか「お前なんかいらない」などと暴言を吐き、毎日決められた分量の自宅学習が済むまで子供を椅子に縛りつけた。文字通りロープで縛りつけたのだ。
 ある晩、その息子は両親の寝込みを襲い、包丁でメッタ刺しにした。
 昇二は二つのニュースに自分の行く末を見たのだった。自殺した中学生と、両親を殺した高校生。自分が当事者になるならどちらがいいか。そう迫られているような気がした。
 前者なら自分は生き残らない。と同時に、自分を追いつめた相手は野放しになる。後者なら自分は生き残る。それも、自分を追いつめた相手を始末した上で。後者の方がずっとましに思えた。だが、果たしてそれは選ぼうと思って選べるようなものだろうか。
 昇二は両親に殺されかけていた。
 学校にも殺されかけていた。
 昇二の身にも、どちらかが起こる可能性は大いにあった。
 昇二はもう夢を見なかった。すべての夢が消えてしまった。目が覚めると、父親に両脚を掴まれてジャイアント・スウィングをかけられていることに気がついた。
「もう、ガッコ、いか、ない」昇二は頭に血がのぼってくらくらだった。
「甘ったれるな!」
「よーん、ごーお、ろーく」母親が回転数をカウントした。
「ぜ、ぜ、ぜったい。こんなの、は、ま、まちがって――」
「屁理屈を言うな! お前はみんなに変人と思われてそれで終わりだ!」
「はーち、きゅーう、じゅーう」
「このまま学校まで投げ飛ばしてやる! お前のために言ってるんだ!」
 昇二は玄関から放り投げられると、空の彼方へ飛んでいった。
 落ちたのは百一段階段のたもとだった。階段には、百一匹チアガールがずらりと並んでポンポンを振り回していた。
「スタンダップ!」
 リーダー格のチアガールが切れのいい英語で言った。
 昇二は目が回ってとても起きあがれなかった。
「イエス・ユー・キャン!」
「の、のー……、あい、きゃんと」
 昇二は壁に掴まりながら、やっとの思いで立ちあがった。
「イエス・ユー・キャン!」
「のー・あい――」
「イエス! イエス!」
「ゴー・ゴー・レッツ・ゴー・しょうじ!」
「ウィー・ラブ・しょうじ!」
「イエス! ウィー・ラブ!」
「ウソつけ」
 昇二は吐き捨てるように言うと、地べたに手をつきながら階段をのぼっていった。
「異議あり!」
 昇二は授業中に突然起立し、決死の思いで宣言した。ずるずると地獄に引きずり込まれる前に、できるだけの抵抗はするつもりだった。
「異議ありに異議あり!」英語の教師は言った。
「い、異議あり!」昇二は出鼻をくじかれた。
「それに異議あり!」
「異議――」
「ない!」
「あります。あるんです」昇二はなおも食い下がった。
「ないない! 全然ない!」
 英語の教師は、まるで話にならないというように手を振って否定した。
「ぼくは――」
「そうだろ? 言いたいことなんか何もないんだ」
「いや――」
「ここで教えられていることなんて、どうせ何の役にも立たないんだから」
「え? 今何て?」
「何って何が?」
「今言いましたよね」
「何を」
「絶対言った! ここで教えられていることなんて、どうせ何の――」
「私は何も言ってない」
「でも――」
「いいから黙るんだ!」
 昇二は口に黒板消しを押し込まれた。
「むご、げば……」
「れんしょうじしょうじ。ははは、変な名前だ。きみは夢でも見てるんじゃないか?」
 昇二は、黒板消しを抜き取って床に投げ捨てた。このまま引き下がるわけにはいかなかった。
「みんなだって聞いたはずだ!」
 昇二はクラスメイトたちに訴えかけた。
 クラスメイトたちは、黒板の方を向いたまま昇二を無視した。
「聞いただろ? きみも」
 昇二は近くの席の生徒に声をかけた。
「きみも。きみも」
 そのときだった。昇二は、声をかけた生徒の机に開かれた教科書とノートがどちらもまっさらな白紙であることに気がついた。ノートはまだしも、教科書まで白紙だなんてありえなかった。昇二は信じられない思いでそれを引ったくると、他のページを確かめた。どのページもすべて真っ白だった。
 教科書を持つ手が震えた。受け入れがたい思いで他の何人かの生徒の教科書とノートを確かめた。同じようにすべて白紙だった。この連中は勉強するふりをしていただけなのだ。教師も生徒もみんなグルで、学校ごっこをやっていたのだ。
 昇二は一拍遅れてやってきた恐怖に身をすくませ、教科書を取り落とした。それがばさりと床に落ちると、クラスメイトたちが一斉に昇二を振り返った。彼らの目は、まるで目玉の代わりに青色LED豆電球を入れたみたいに妖しく光っていた。
 何もかも手遅れだった。この連中はもはやまともな人間ではなくなっていた。この場所はすでに狂気の論理に支配されていたのだ。
 昇二は身の危険を感じて後ずさりした。
「メガネのくせに生意気だ」
 英語の教師が進み出て言った。その目も同じように妖しく青色に光っていた。
「メガネのくせに生意気だ」
 生徒たちが付き従って言った。彼らは一斉に立ち上がり、昇二にゆっくり迫ってきた。
「メガネのくせに生意気だ」
「メガネのくせに生意気だ」
「メガネのくせに生意気だ」
 昇二は、床に置いてあった鞄に足を取られて尻もちをついた。腰が抜けてしまい、這うようにして後ろのドアを目指した。
 ドアに手をかけると、それは突然廊下側から開けられた。
 そこには、苛立ちを露わにした父親が仁王立ちになっていた。
「逃げるのか! 卑怯者!」
 昇二は、恐怖のあまり昆虫のように腹を上にしてひっくり返り、手足をばたつかせた。なんとか自力で腹這いの姿勢に直ると、手足を素早く動かしてゴキブリのように父親の股下をすり抜けた。
「待て!」
 昇二は廊下の隅っこをかさかさと駆け抜けた。
 階段口のところに来ると、先回りした父親が逆上して待ち構えていた。
「お前はそんなに自分に自信がないのか!」
 昇二はトカゲのように壁に張りついて父親をかわすと、体をくねらせて壁伝いに降りていった。
 視聴覚室に逃げ込もうとすると、狼男のように鋭い牙と爪を剝いた全身毛むくじゃらの父親が立ちふさがり、問答無用で襲いかかってきた。
「親に恥をかかせる気か!」
 昇二は恐怖に飛びあがり、ムカデのように死に物狂いで足を動かしてそこから逃げた。
 わずかに残された本能に従って、昇二は南棟四階のトイレを目指した。
 フンコロガシのように階段を後ろ向きに上がり、踏みつぶされた毛虫のように体液を垂らしながらのそのそ床を這った。
 命からがら目指す場所にたどり着くと、昇二は安堵して個室のドアに手をかけた。
 中には半狂乱になった父親が両手に殺虫スプレーを持って立っていた。
 昇二は顔面に殺虫剤を吹きつけられ、床のタイルに裏返ってぴくぴく痙攣した。
「ついにゴキブリ野郎を仕留めたぞ! ざまぁみろ! いいか、お前のためを思ってやってるんだ!」
 昇二は、一年五組の教室で、まるで罪人のように手を後ろに回されて椅子に縛りつけられていた。机が三つ寄せてあり、サングラスの担任教師と昇二の父親と母親が向き合って座っていた。
 三者面談だった。三者面談に両親が揃ってやって来たのは、全校生徒の中で蓮正寺昇二の家だけだった。
「いい天気ですね」サングラスの担任が言った。
「そうですね」両親が声を揃えて応えた。
「息子さんの将来についてお話ししましょうか」
「そうですね」
「やはり進学ですか」
「そうですね」
 昇二は今すぐ窓から飛び降りたくなった。
「具体的にどちらの大学をお考えですか」
「いい大学です」母親が形而上学的な意見を述べた。
「学校に行きたくない」昇二はぼそぼそと言った。
「みんな行くんだから行くのが当たり前」点数をつけるとすれば零点の母親が言った。
「本人の意見も聞いてみましょう。昇二くんは自分の将来をどう考えているかな?」
「ぼくに未来はない」
「その口の利き方は何だ!」点数をつけるとすれば零点の父親が、鼻息荒く怒鳴った。
「まぁまぁ、お父さん。非常に斬新な考えですよ」
「お金の心配はしなくていいから」保護者とは名ばかりの母親が、金のことなど誰も話題にしてないのに恩着せがましく言った。
 昇二は、両親が言葉を発するたびに絶望に身を引き裂かれるような思いがした。
 父親も母親も、揃いも揃って独善的で、視野の狭い、薄っぺらな恥知らずだった。そのうえ、頑迷で横暴、不寛容で世間知らず、見栄っ張りで自己愛ばかり強く、義務と権利の区別もつかない、身勝手で硬直した排他主義者だった。思慮に欠け、愛情を履き違え、押しつけがましいくせに大事なことは何一つ教えない、思考停止して欺瞞に満ちた、どこまでも傍迷惑な愚か者だった。彼らはあまりにも凡庸で幼稚、怠惰で傲慢、陳腐で浅薄であり、己の無能を棚に上げにした、単細胞で時代錯誤の血迷った虐待者だった。おまけに、偏見に満ち、ユーモアの欠片もなく、欲得ずくで、致命的なまでに矛盾し、客観性を欠いた、体面がすべてで物事から何一つ学ばない、想像力の欠如した田舎者の俗物だった。
 昇二の考えでは、学校なんてものはもうなかった。あったとしてもそれは役目を終えていた。家族なんてものももうなかった。あったとしてもそれは役目を終えていた。少なくとも自分にとってはそうだった。昇二は、金輪際そのどちらとも関わることをやめにしたかった。
「先生にお任せできれば安心です」権威主義で他力本願の母親が言った。
「私なんかそんな」サングラスの担任は謙遜した。「お父さんも私と同業でしたね」
「少しは事情を分かっているつもりです」父親は虚勢を張った。
「力を合わせれば何とかなるでしょう。あとは本人次第です」
「学校に行きたくない」昇二はぼそぼそと言った。
「いい大学は、いいですから」いい大学に行ってない母親が言った。
「いい大学は、いい」いい大学に行ってない父親が言った。
「いい大学は、いいですね」いい大学に行ってないサングラスの担任が言った。
「いいって何が?」昇二は口を挟んだ。
「子供はそんなこと知らなくていいの」物事をごまかすだけの母親が言った。
「この道しかない!」馬鹿の一つ覚えしか言えない父親が言った。
「話はまとまりましたな」
 趣味で女子更衣室を盗撮しているサングラスの担任は、そう言って立ち上がった。
 父親も母親も立ちあがった。
 そのとき、昇二はこの三人がいつの間にか巨大な毒虫に変身していることに気がついた。
 恐ろしくも滑稽な正体だった。毒虫たちは、でっぷり太った樽のような胴体の上に、小さい頭がちんまりと乗っていた。鼻はつぶれ、そのすぐ上に鈍くてけち臭い二つの目がそれぞれあらぬ方を向いてついていた。額には欲深げなしわが何重にも刻まれ、意地汚なげな口許から垂れたよだれが節になった腹にべったりとまとわりついていた。
 何本もある脚はどれもまるで箸のように細く、短く、ブラシのような硬い毛がびっしりと生え、がに股だった。その脚が意味もなく小刻みに動いているせいで、体全体が落ち着きなく右に左に揺れていた。
 三匹の毒虫たちは、がさごそ動いて身を寄せ合うと、指先までびっしり太い毛が生えた手を突き上げて鬨の声をあげた。
「いい大学に行くぞ!」
「えい、えい、おー!」
 もう耐えられなかった。
 昇二は縛りつけられたまま立ち上がり、机をなぎ倒して窓に走っていくと、ためらうことなく飛び降りた。
 一年五組の教室は二階だった。昇二は、植え込みの脇に落ちて膝を強く打っただけだった。悶絶して転げ回ったが、あまりの痛みに声を出すこともできなかった。こんなに痛いなら、死んだ方がましだった。
「おい、メガネ!」
 上から嘲るような声が降ってきた。
 見ると校舎の窓という窓から生徒たちが顔を覗かせ、昇二を見下ろしてにたにた笑っていた。
「三者面談におやじまで来たのか!」
 誰かが言うと、みんなが一斉に笑った。
「一人じゃ何もできないのか?」
 笑いがどっと膨らんだ。
「こいつのおやじは高校の先公だぜ!」
 別の誰かが密告した。
 笑いと不快の混じった声があがった。
「しかも体育の教師!」
 失笑とブーイングが起きた。
「母親は専業主婦!」
 笑いの集中砲火が浴びせられた。
「息子は小説家になりたいんだと!」
 校舎がどかんと揺れた。爆笑に次ぐ爆笑だった。
 昇二は消えてなくなってしまいたかった。
 どこからともなく、素行のよくない生徒の一団が現れた。昇二は無理やり担ぎあげられると、他の生徒たちが囃し立てる中を旧体育館へと連れていかれた。そして、またしても例の錆びついたロッカーに閉じ込められた。
「出してくれ! 閉所恐怖症なんだ!」
 ドアの向こうの笑い声は、すぐに遠ざかって行った。
 昇二はパニックを起こしてドアを叩きまくった。体当たりをした。思ったように息ができず、脳みそが縮みあがったようになった。そして――。
 気を失った。
 遠くから声が聞こえてきた。
「……ゴー……。……ゴー・ゴー……。……しょうじ」
 どこかで聞いたような声だった。
 昇二はロッカーからぺっと吐き出された。床は埃だらけでひどく冷たかった。もう起きあがれなかった。二度と起きあがりたくなかった。
 うっすら目を開けると、ミニスカートから突き出た生足がずらりと並んでいるのが見えた。更衣室は101匹チアガールで満たされていた。
「しょうじ、ゲロッパ!」リーダー格のチアガールが言い、矢継ぎ早にカウントを取った。「ワン・ツー・スリー・フォー!」
 どこからともなく、チダッ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダ、ダッ、とバンドがリズムを刻むのが聴こえた。リーダー格のチアガールと他のチアガールたちが、コール&レスポンスで歌いながら踊りはじめた。
「ゲロッパ!」
「ゲロンアップ!」
「ゲロッパ!」
「ゲロンアップ!」
「ステイ・オン・ザ・シーン!」
「ゲロンアップ!」
「ライク・ア・セックスマシーン!」
「ゲロンアップ!」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
 昇二は腕を振りまわしてやめるように訴えた。おちおち倒れてもいられなかった。
 ところが、息を切らしながら顔をあげると、そこにはチアガールたちの影も形もなかった。昇二は、狐につままれたような思いでその場にへたり込んだ。
 外はまだわずかに明るさが残っていた。校舎の方はやけに静かで、もう誰も残っていないかのように感じられた。
 突然、これ以上無理だという思いが昇二の全身を貫いた。
 弱い炎で焼かれ続けるような毎日だった。もう終わりにしたかった。今すぐこの苦しみから解放されたかった。
「ここで何をしている」
 実は小説家の用務員だった。手に赤いポリタンクを持っていた。
「あの、別に」
 昇二は、ロッカーに閉じ込められたのだとは言えなかった。
 実は小説家の用務員は、ポリタンクを床に置いて軽く手を払うと、まるで海にでも臨むかのように悠然と狭い更衣室を見回した。
「ずいぶん前からこの建物を処分するように言われててね。建て直すのか別のことに活用するのか、その辺のことはよく知らないが」
「はぁ」
「それでようやく重い腰をあげたってわけだ。方法も任されてる。ガソリンで一発だ」
 実は小説家の用務員はポリタンクを指して言うと、手ぶりで爆発を示した。
「それって……」
「じゃ、あとは頼んだ」
「え?」
 実は小説家の用務員は、昇二の足元にライターを転がすと、更衣室から出ていくところを見た気もしないうちに消えてしまった。
 学校を燃やさねばならぬ。
 昇二は唐突に悟った。そうするより他にどうしようもなかった。
 ポリタンクのふたを開けて中身を撒きはじめると、更衣室はすぐにガソリンまみれになった。量は十分にあったので、床に垂らしながらフロアに出た。
 残りをそこら中にぶちまけると、昇二は空になった容器を投げ捨ててライターを取り出した。三回かちかちやったところで火がついた。ためらいはなかった。昇二は、ちょうどガソリンが途切れた辺りにそれを放った。
 フロアに落下するよりも前だった。オレンジ色の炎がぽっと生まれ、瞬く間にわっと膨れあがった。炎の絨毯が体育館のフロアに波のように広がり、先端が更衣室に向かって伸びていった。
 炎が更衣室の中に侵入すると、一瞬おいて中で爆発が起きた。揮発したガソリンが充満していたのだ。
 昇二は衝撃で吹き飛ばされ、床に後頭部を打ちつけた。目の前が暗くなった。
 次に目を開けたときには、炎は壁を焼いて屋根まで到達していた。体が重く、動けなかった。黒い煙に取り巻かれ、あっという間に視界が狭まった。
 旧体育館は校舎本館に密接していた。この勢いなら燃え移るに違いない。昇二はもうろうとした意識で考えた。何もかも燃えてしまえばいい。
 そのとき、煙の中から何者かが現れた。
「起きろ」
 二十三回留年の男だった。
 昇二は、何度か頬を叩かれてようやく正気を取り戻した。
「ここにいたらやばいぞ」
 昇二は二十三回留年の男に助け起こされると、そのままステージ裏に連れていかれた。
 そこには、どこから持ち込まれたのか分からないような家具や家電、大昔のものらしい文化祭の看板などが無造作に打ち捨てられていた。粗大ゴミを避けて奥へ進むと、突き当りのところに机があった。
 二十三回留年の男がそれをどけると、地下へおりる階段が現れた。
「これは?」
「いいからついてこい」
 地下には人がすれ違うこともできないほどの狭い通路が続いていた。いくつも脇道があり、複雑に入り組んでいるようだった。
 二十三回留年の男は、迷うことなくどんどん進んだ。昇二は、壁に手をつきながら必死でついていった。頭がずきずきと痛んだ。
「どこへ?」
「みんな待ってる」
 二十三回留年の男は、振り返りもせずに言った。
「みんなって?」
 二十三回留年の男は答えなかった。
 その後ろ姿を見て、昇二はふいに何かに気がついた。二十三回留年の男は体つきこそ昇二より一回り大きかったものの、背格好はどこか通じるものがあった。こうして見てみると、まるで自分自身を見ているような気さえするのだった。この男はもしかして――。
「また留年することになった」
 二十三回留年の男が振り返って言った。
「あなたは一体――」
「死ぬまで留年を繰り返すんだ。おれは永遠にここから出られない」
「どうして?」
 二十三回留年の男は少し考えるような表情をしたが、それ以上何も言わなかった。
 やがて、地上に出る階段にぶつかった。
 昇二は、二十三回留年の男について階段をあがった。
 楽園のような明るさだった。そこは新体育館で、旧体育館より三倍から四倍も広いフロアには温かい拍手が鳴り響いていた。
 全校生徒が揃っていた。教師たちもいた。101匹チアガールや実は小説家の用務員もいた。毒虫姿の父親と母親もいた。校舎裏の雑木林で首を吊っていた男もいたし、観光案内の市民ボランティア、図書委員、中学の同級生の田中もいた。
 全員が、昇二を温かい拍手で迎えていた。
「これは?」昇二は戸惑いを隠せなかった。
「表彰式だ。みんな、きみを待ってたんだ」
 笑顔で言ったのは、入学式で一度見たきりの校長だった。
「表彰式?」
「さあ、こっちへ」
 昇二はわけも分からないままステージに上がらせられた。校長は、マイクが備えてある演台の前に立つと、軽く手をあげて拍手をやめさせた。
「改めて紹介しましょう。一年五組の蓮正寺昇二くんです」
 生徒たちから歓声があがった。
 信じられない光景だった。新体育館は和やかな雰囲気で、誰一人として昇二に敵意を持つものはいなかった。それどころか、みんなが昇二を讃えていた。
「我々は、本日ここに彼を表彰したいと思います」
 校長は授賞理由を話しはじめた。
「蓮正寺くんは、人生に仕掛けられたありとあらゆる罠にかかって我々を楽しませてくれました。私たちは普通、最低限の義務だけをこなし、危険を避けて、どちらかと言えば自分勝手な楽しみのために、ときには平然と他人を踏みつけにして、のうのうと日々の生活を送っています。でも、彼はそうではない」
 聴衆は感心した様子でうなずいた。
「滑って転んでつまずいて。それが蓮正寺くんの生き方です」
 誰かが指笛を鳴らした。何人かの生徒が囃し立てた。
「彼は行きたくもない場所に無理やり行かされ、一緒にいたくもない人間たちと一緒になり、やりたくもないことを、やりたくもないやり方でやらされた。親からも教師からも、クラスのみんなからもバカにされ、まともに取り合われず、何一つ楽しいこともなかった。蓮正寺昇二くんは、生きていたくもないのに生きていた。そして、その七転八倒の姿によって我々を楽しませてくれた。これは誰にでもできることではありません」
 聴衆の中から自然と拍手が沸き起こった。
「本人から受賞の言葉をいただきましょう」
 校長は昇二を演台のところに招いた。
 昇二は、緊張に目を泳がせながらマイクに口を近づけた。
「あの、ありがとうございます。何の賞なのかよく分からないけど」
 生徒たちが笑った。
 昇二は、一つ呼吸を置いて続けた。
「学校を燃やしてごめんなさい。本当はみんながいるときにやれたらよかったんだけど。本当の本当の本当は、そうしたかったんです。いや、自分の家に火をつけるのでもよかった。多分、それが一番だったかもしれません。でも、御覧の通りの結果に」
 昇二は肩をすくめた。
「ここにいる皆さんは、ぼくをとことんいじめて追いつめた。ぼくは学校を燃やした。これはフェアな取引だと思います」
 誰もが深く納得した様子でうなずいた。
「どうしてこんなことになったのか、胸に手を当てて考えてもらえれば分かると思います。あの、他に取り立てて言うことはありません。まさか、こんな思いがけない歓迎を受けるなんて。思いきってやってよかった。見てください」
 昇二が促すと、聴衆たちは地下から上がってくる階段口のところを見た。いつの間にか、煙がもうもうと立ちのぼってきていた。
「それからあっちも」
 体育館の出入り口も煙に取り巻かれていた。
 会場はざわつき、みんなが昇二に注目した。
「ここも長くはもたないでしょう。みんな燃えて跡形もなくなります。それでいいんだと思います。最後に、こんな、何の賞かよく分からないけど、賞までいただいてしまって。まるで夢でも見てるような――」
 昇二は、渦巻く黒煙の中で夢を見ていた。
 彼の体は、燃え上がり溶けかかった床の上に横たえられていた。
 もう誰も、彼を不快な起こし方で起こしたりしないだろう。





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