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教室で疲れた先生へ。「全体」から離れるという対処法を。

こちらの記事もあわせてどうぞ。学校教員の疲れや悩みへの対策として書いたものです。


休みが待ち遠しい。やっと来た休日、ちょっと回復する。月曜日が来て「頑張らないとなあ」と思う。元気を出す。教室に入る。一時間目、二時間目。あのエネルギーはもう使い果たしていて、疲れている…

すぐ疲れる時、あります。終わる前に増える業務、突発的に入る対応、業務時間は全て学校と学年の仕事、思うように進まない教室、行事や学校全体での決まり事…


思わずため息をついて自己嫌悪、なんてこと僕はありました。教室にいるだけで息が上がっているような、目の前に子どもがいるのに遠くを見ているような。

なので僕は、同じ思いをしている方へは「そういうこと、あるよね」と言いたい。疲れを自覚していることは、むしろ健全かもしれません。

教員の働き方改革は聞かれますが、疲れは教室でも起きている。教室での過ごし方にも対処が必要なのだと思います。僕がラクになったのは、「全体」から離れるということ。



働き方だけでなく、教室での過ごし方も変えてみる

事務作業や会議、それらが働き方改革で少なくなること、切に望みます。

ただそれだと、教室にいる時間の「疲れ」は解消されない。

この記事で何回も出てきますが、教室の子ども達「全体」に接することが疲れの原因だと僕は思っています。

子ども達は一人ひとり。性格も能力も興味も違う。なのに「全体」としていっぺんに動かさないといけない重圧。

それが僕が思う、教室での疲れの原因。

教師という仕事上、「全体」を動かすことは不可欠です。でも「全体」という見方から少し距離をとることはできる。

だから時には「全体」を手放してみませんか。それが僕の提案です。


対処1:任せて観察する

学校の時間には、先生がリードしなくても済むものもある。

例えば練習問題、穴埋め、読み取りなど。子ども達に任せても(ザワザワはするでしょうが)何とかなること、実は沢山ある。答えがハッキリしていて考え甲斐のあるものが任せやすいです。

例えばパズル的な問題、ドリルのオマケ的ページ、ネットから引っ張ってきたおもしろ問題。「この時間は私からは教えないから、君たちでやってみて!」と任せてみると、結構ちゃんとやっているものです。

先生が苦しくなるのは、「全員」を気にしないといけないから。

今やっている学習が好きな子、嫌いな子、既に分かっていて次が欲しい子、その前のステップが必要な子…多くのバリエーションがあって、その全てを「先生=自分がなんとかしようとしている」つまり「コントロールしようとする」から苦しい。だから疲れる。

沢山のパターンが目の前にあったらそりゃ大変なんです。だから先生はすごいんです。

なんとか全体をコントロールしようとするのも一つの手。でも難しいに決まっていますよね。

だから「開き直ってコントロールしようとせず、任せてみる」は教師自身を守るためにも有効な策。一人ひとりの子が自分の能力や興味に応じて動く場面を生むので、結果的にうまくいくこともあります。

「私が何もかもやらなくても、子ども達だけで結構できるもんなんだな」と感じられると、先生の力が抜けるんですね。ラクになる。

それを実感するために「任せて観察する」。一コマ任せるのが怖ければ10分でも15分だけでもよいのです。「何とかしなきゃ」を手放す時間、本当に気がラクになりますよ。

子ども達だって分からないまま終わりたくないから、何とかしようとするものなのです。それは信じて大丈夫です。

課題を出したら「私の説明が無くても出来ちゃうと思うから、みんなだけでやってみてね!」と伝える。「15分後に答え合わせしよう」「助けが必要そうな人がいたらヒントをあげてね」も忘れずに。

子ども達に任せてみる。その間、先生は個別にヒントを出すでも、遠くから見守るでも、子ども達の話を聞くでも。

まずはここまで頑張って疲れたご自分がラクな方法でよいと思います。余裕があればオススメしたいのは、近くに寄って子ども達の声を聞いてみること。関係ない話をする子もいるでしょう(この時間はいいやと開き直って放っておきましょう。どうせオマケ時間なのです)。

でもちゃんと考えている声も聞こえるはず。遊びがちに思う気になるあの子も案外やっている。ふざけながら何だかんだやる。

こういう一面を知れる時間が大事なのだと思います。こういう時間が週に一コマでも15分でもあると先生自身がラクですし、「なんだかんだやるんだな」って子どもの見方のチューニングにもなる。疲れている方ほど、是非。


対処2:教師の服を脱いで無邪気にいっしょに遊ぶ

鬼ごっこでもおしゃべりでも、とにかく遊ぶ時間を取ってみる。中休みでもよいし、体育の初めや終わりの15分でも。「教師の服」を脱いで一対一の人間として接する。

無邪気に遊ぶ時間を一コマ45分とるのは勇気もいりますし、45分だと内容のデザインも必要になります。それは大変なので15分くらいがまずオススメです。

内容は鬼ごっことか、思い切り身体を動かせるものがよいと思います。大人の本気。スッキリしますよ。小憎らしいあの子を真剣に追いかけて無邪気に笑えたら色々晴れます。

あなたは疲れています。その時に「何をやりたい?」と子どもに聞くと意見が色々出てまた疲れます。

ですから「鬼ごっこいくよー!やりたい人~!」と始めちゃう(もしくは事前に数人と話して決めておく)。やりたくない子は迷惑をかけないなら休んでOK。やりたくなったら途中参加OK。たった15分ですから見学するだけでも支障はありません。

いっしょに遊ぶ時は「無邪気に」がポイントで、思い切り遊んじゃいましょう。見学の子、遠くに行こうとするヤンチャ君が気になるでしょうが、放っておいて今その時間は遊ぶことだけ。

他の子まで見てコントロールしようとすると楽しめませんから。もし遊びから外れて何かやらかした子がいたら遊びの後で個別対応です。それも短く淡々と一言だけ伝えて終わり。感情的になるともっと疲れます。

「全体を見る」「コントロールしようとする」というのが「教師の服」であり苦しくなる原因なので、この時ばかりは脱いでしまいます。

4月から一年間ずっとその重たい服を着てきて疲れたのですからたまには脱ぐ。先生を志望された方の多くは、「先生として」よりも「人と人として」接したい思いが強いのではないかと想像します。でもいつの間にか「先生として」の関わりばかりになってしまっているんですよね。

教師の服を脱ぐって大事で、そうして「人と人」としての触れ合いでしか感じられないもの、癒されないものがあると思います。疲れている先生ほど実はそれを欲しているし、うまい先生ほど教室で上手に服を脱ぎ着しているのかも。是非お試しを。

気に入ったら「任せて観察」と同じく、週一回でもこの時間を取る。我々は頑張っているのですから、たまにはよいのです。


対処3:全体への言葉は最小限にして個々と話す

繰り返しですが「全体に接すること」が教師を疲れさせるのだと思います。興味も理解度も家庭環境も違う子ども達が何人も同時にいて、その子たちを一緒くたに何とかコントロールしようとあの手この手を使う。それはやっぱり疲れます。

クラスの子ども達を「全体」として見て、こぼれない子も進み過ぎない子も出ないように自分の範疇に収めておこうとする。それはやっぱり無理がある。疲れるのは当然です。

こっちは一生懸命で、それが窮屈で外れたい子が当然いて、その子を「やりづらい子」だと思ってしまう。そういうメカニズム。

メカニズムなのです。一人ひとりの先生のせいではない。そういう気持ちにさせてしまうシステムなのです。ですから同じ思いの方が何人も出る。

先生ならば誰もが体験していると思いますが、中休みとかにふと個別で話すと癒されるというか「ああ、好い子だなあ」と感じること、ありますよね。

教師ではなく「人と人」として触れられた瞬間。疲れている時にはあれが必要です。雑談というか、気楽な話というか。ヒントを手渡そうとか、成長を手助けしようとかしなくて好い時間というか。

全体への指示は最小限にして個々と話す、というのは、授業の中に雑談的な時間を組み込むイメージです。

全体には「今はこれをやりましょう。時間は〇分です。終わったら○○です。どうぞ」とだけ伝えて子どもを動かす。大多数の子が動く流れを作る。「自分が教える」を手放し教室を廻って個々人と話す。

授業と関係のない「この前バスケの試合どうだった?」なんてことで好いのです。中休みのような「その子」に触れるおしゃべり。でも中休みだけだと全員と話すのは無理だから授業の中でちょこっとずつやってしまう。

授業とは、「全員が同じ部屋にいる時間」だとも言えます。その中だからこそ、全員と個別の話をする、が出来る。

「授業」ばかりだと関係性が固定化されますよね。「教師と生徒」を抜け出せませんし、教師だから自分が何とかしないと、となる。

けれど「人と人」の時にしか生まれない話や気持ちがあって、それが実はとても大事だったりする。疲れている先生方、ご自分を守り癒すためにも、廻り廻って子どものためにも、是非。


最終手段:辞めても何とかなると知っておくこと

「全体」として子どもと接する。それはとても疲れる、「教師」として逃れられないこと。でも和らげることは出来る。であればやってみるのがよいのだと思います。自分を守ることもしないと、続けられないですから。

それでも苦しいこともある。

ですから、最終手段として、僕のように辞めても何とかなると知っておくこと。

退職や転職を薦めるわけではなく、「仮にこの仕事を離れたとしても出来ることはある、生きてはいける」と知っていることが、あなたの安心になることを願って。

僕は、僕の可能性と進む道を知りたくて正規教員を辞め「複業教員」を始めました。自分のためです。

でもそんな僕が「元先生」の道を広げておくことは、今現場にいる先生方のためにもなるのではないか。そんな風にも思っています。


最後に余談ながら。

苦しいのに何が原因なのか見えず、モヤモヤすることもあります。そんな方といっしょに、こんなシートを使って今の仕事に対する気持ちを整理するワークもやっています。

コメントやDMいただければ、日程を調整いたします。

1st stepワーク - セッションシート_page-0001

「先生」という選択が後悔にならないように。

僕がお力になれることがありましたら、お声かけください。


追記:疲れる時もあるけれど、僕らはやっぱり頑張っているんだと言いたい。

ときどき疲れてしまうこともあるけれど、僕ら教員はすごく頑張っている。本当によくやっている。
あの頃をふり返って、我ながらそう思います。「疲れている」だけで終わらせたくない。だからこんな記事も書きました。

こんなことを書いている僕はいったいどんな人間なのか。長い自己紹介なのですが、よければご覧ください。


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