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大河「いだてん」の分析【第45話感想】女性スポーツ到達点までの歴史と、“自ら選びとる自立した女性たち”

いだてんの全話の感想と分析を書いているブログです。残り3話、今回は第45話『火の鳥』について書きとめます。

〜あらすじ〜
事務総長を解任されてしまった田畑(阿部サダヲ)だったが、決してあきらめることはなく、自宅に岩田(松坂桃李)や松澤(皆川猿時)ら組織委員を集めてひそかに開催準備をあやつり始める。田畑とたもとを分かつ形となった東京都知事・東 龍太郎(松重 豊)は、日本橋を覆う高速道路や渋滞の悪化など、開発への批判を一身に浴びていた。元ボート選手としてスポーツへの熱い思いを秘め、1940年でかなわなかった悲願のオリンピック開催に向けて奮闘するが──。

1、いだてんが描く、日本における“女性スポーツの起源”

いだてんが描いた日本近代史のテーマのひとつに「女性スポーツの起源」がある。ここ最近のいだてんでは戦争やら終戦やら開催国準備やら政治やら、書かないといけないものが多くて“女性スポーツ”については二の次になっていたが、今回の第45話はそれにケリをつけた回だったといえる。戦前は「女性がスポーツなんてやるものじゃない」という社会風習だったが、1964年のバレーボール日本代表の活躍が“女性スポーツ”のひとつの到達点となる。
せっかくこの当ブログは“いだてん全話の分析”をこれまで書きとめてきたので、過去の回からエピソードを引用しつつ、いだてんが描いてきた“女性スポーツの発展”について、ここでまとめておこうと思う。
過去回からターニングポイントを3つ挙げる。

①1921年

いだてんの中で“女性スポーツの起源”について描かれだしたのは1920年。金栗四三がアントワープオリンピックに惨敗して、その帰り道に立ち寄ったドイツで女性のスポーツ選手たちと出会う。イキイキとスポーツに興じる女性たちを見て四三は「日本人女性たちにもスポーツを広めたい」と考え、帰国後、女学校の教師となり普及活動を始めた。これが1921年の事。いだてんでは第21話からが女学校編だが、当ブログの過去スレッドを読み返すと「第22話の感想」に“この時代の女性像の歴史背景”などを書きとめていたので、そこから一部抜粋しよう。

難しいのは、大正時代には根幹的に“女性はおしとやかに”という文化背景があることである。
女学生の村田富江が、短距離走を走る際に(靴のサイズがうまく合わずに調整しようとして) 靴下を脱ぎすてて素足になり、走ってみせたことに批判が殺到。新聞沙汰にまでなる。ヌードになったわけでも、太ももを出したわけでもない。ひざから下を出しただけだというのに、だ。
「素足なんて出して走ったらお嫁にいけなくなる」といった考え方がある時代なので、カメラマンたちが群がってバシャバシャ撮影した。

1921年当時では「ひざから下を出しただけ」で事件だったのである。

②1928年

2つ目のターニングポイントは、1928年開催のアムステルダムオリンピック。ここで日本人初の女子オリンピアンである人見絹枝が活躍する。「第26話」の感想文から引用しよう。

第26話は、“人見絹枝物語”であった。
人見絹枝は、日本人女子で初めてのオリンピックメダリストとなるオリンピアン選手。
このアムステルダム五輪が、“女子競技が開催された初のオリンピック”でもある。
(中略)
選手たちは国を代表して国際大会オリンピックに参加する。「お国のために」というプレッシャーは、今の時代では計りかねるほどに重くのしかかったろうし、まさに言葉の意味そのままに“命懸け”が頭をよぎる。
女子選手はそれに加えて、「女がスポーツなんてやるものではない」という文化土壌の中、あえて初出場するのである。“行ってこい”と総意で送り出されてもいないのに、切り拓くのである。第1号事例がもしうまくいかなければ、その反対勢力(反対世論)の声はより力を増し、女子とスポーツの距離はさらに開いてしまうだろう。相当のプレッシャーである。
(中略)
100メートル走の予選で負けてしまった後、ロッカールームで人見絹枝が泣き叫びながら「男は負けても帰れるでしょう、でも女は帰れません、やっぱり女はだめだと笑われます」「女子スポーツの未来を私が閉ざしてしまう」と訴えたのである

③1936年

そして3つ目のターニングポイント。
1936年ベルリンオリンピックの女子水泳選手、前畑秀子。これは第36話だ。

前畑は、まだ幼くて、純粋で、水泳しか知らなくて、田舎者で、知り合いも友人も少ない。
気がついたらいつのまにかもてはやされていただけで、状況もまともには理解できていない。
前畑は、ただ、みんなが「金メダル」を求めているから、とりたい。
前回大会で「金メダル」を取り逃してとてもくやしいから、とりたい。
それだけなのだ。悩み事はそれだけ。

(中略)
前畑が号砲一発、スタートしてからゴールするまで、わずか3分3秒6。
この3分3秒6のあいだに、いくつもの場所での、いくつもの応援シーンが映された。
たくさんの「がんばれ」が矢継ぎ早に代わるがわる画面に映し出されたが、これらはほんの代表的な「がんばれ」だ。日本中が「前畑がんばれ!」と声をあげたという象徴だ。
きっと、政治家も、兵隊も。都会の住む人も、田舎に住む人も。若者も、老人も。すべて。
がんばれ、がんばれ、がんばれ。
「明日はみんなで泳ぐんや」と両親はほほえんで言った。それはもちろん、前畑秀子の心の声だ。前畑秀子の“願い”だ。


2、戦前と戦後での“大きな価値観変化”

この女性スポーツ発展の歴史には「4段階のステップ」があったと整理できる。

①「1921年の女学校」
“女性が運動やスポーツに興じる”などまったく認められない時代。膝から下の“素足”を出して走っただけで「お嫁にいけないカラダ」と呼ばれた。

②「1928年の人見絹枝」
女性で誰かがメダルをとることによって、“女性でもスポーツ選手として活躍できる(お国に貢献できる)”という立証ができれば「もっと堂々と女性もスポーツができるようになるはず」と責任感を背負って臨んだオリンピック。

③「1936年の前畑秀子」
この時代になってやっと男女に関わらず女性であっても“勝つ事だけに集中”してスポーツに取り組めた。
“国民のみんなのために”と期待に応える気持ちが、原動力でありプレッシャーでもあった。

④そして「1964年の東洋の魔女」
“自分のために”スポーツをしているんだと彼女たちは宣言した。自分が勝ちたいからバレーボールを続けている。

③までの戦前と、④の戦後を比べて最も大きな違いは、“選手が人格を持ち自立している事”だと思う。戦前でもワンステップずつ踏むにつれ女性の社会的立場を開拓していけてはいるが、最後まで「国のため」という思想は残っていた。しかし東洋の魔女は「自分のために勝つ」と明確に語った。そこには性差もなければ、政治も戦争も介入する余地はない。個人対個人の、チーム対チームの、スポーツとしての実力勝負だけがそこにある。

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3、“自ら選びとる”自立した女性たちの人生

男たちは、1960年代になってもまだ勘違いしていた。“物語の主人公は男”だと旧態然とした考えを残していた。明治や大正を生きてきた男たちの感覚が無自覚にそこにある。

大松監督は「選手たちの限られた青春を犠牲にしてしまい婚期を逃させた」と後悔している。田畑は「時間ができたし、家族水入らずで旅行にでも行こうか」と語る。大松も「あと2年も続けたら家庭は崩壊や」と泣く泣く引退を語る。

田畑の奥さん、菊江は「それは違いますよ」と大松を叱る。

「やるべきことを途中で投げ出した男が家に帰ってきても、家族はうれしくありません。」
「カラダだけ帰ってきてもダメ。心が留守じゃダメ。」

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昭和の女性たちは、自らの行動を自ら選択しているのである。男のために生きているつもりはない。
“家で待たされている”わけでも、“青春を犠牲にさせられている”わけでもなく、“自らが選びとった人生”なのである。

女性たちが挙げる声を聞き、大松監督も田畑も、自分たちの傲慢さと女性たちの強さに気づく。

その新たな女性像の姿は、はるか昔、女学校の教師となった“シマちゃん”が目指したビジョンに近いのかもしれない。40年の時を経て、シマちゃん先生、二階堂トクヨ、人見絹枝、前畑秀子たちがバトントスしてきた長い旅路の先に、それは、東京オリンピックの舞台で華ひらくのである。

(おわり)
※他の回の感想分析はこちら↓


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