映画感想 座頭市と用心棒
今回視聴映画は『座頭市と用心棒』。1970年に公開された「座頭市」シリーズ20作目で、ゲスト俳優には三船敏郎。しかも、黒澤明監督『用心棒』のキャラクターがほぼそのままの形で登場する。これは今で言うと『ゴジラVSコング』のような組み合わせで、その第一報が出た後から、映画ファンも業界の誰もが話題にする作品となり、実際に『座頭市と用心棒』の興行記録はシリーズでもっとも高い稼ぎ(配給収入2億8000万円)をもたらした。
今作『座頭市と用心棒』冒頭のクレジットを見ると「大映」に続いて「勝プロダクション」の名前が入っている。この経緯から説明しよう。
その当時、映画業界には東映・東宝・大映・松竹・日活の大手5社による「5社協定」という取り決めがあり、俳優とスタッフの専属性が決められていた。俳優もスタッフも、会社の枠を越えて別会社の作品に出演したり、仕事を受け付けることができなかった。
しかも映画界は同じ制作スタッフによるシリーズ映画を年に何本も回すという体制で映画を作っており、マンネリに陥っていた。勝新太郎の場合だと、『座頭市』『悪名』『兵隊やくざ』という人気シリーズを3本も抱えており、それが毎年2~3本ペースで制作していた。すると勝新太郎はこのスケジュールをこなすために、頭を丸くして『座頭市』、少し伸びてきたら五分刈りにして『兵隊やくざ』、もう少し伸びてきたら角刈りにして『悪名』、次に丸刈りにして『座頭市』……と同じような映画に出演するために、このローテーションを繰り返すだけになっていた。
「オレの役作りは髪を長くしたり短くしたりするだけなのか」
俳優側にもストレスは溜まっていた。
この上に家庭用テレビが普及しはじめた頃で、映画の観客はどんどん減っていっていた。映画が潤っていたときは、不満があっても仕方がないと受け入れていたが、映画が売れなくなっていた上に似たような映画作りばかり、という状況は俳優もスタッフも不満に感じていた。
そこで俳優達が映画会社から離れ、独立して会社を興すというムーブメントが業界内で起きていた。三船敏郎や石原裕次郎、中村錦之助といった俳優達が自分の名前を冠にして、「三船プロダクション」や「石原プロダクション」といった会社を作る。そうすると、俳優達は5社協定に縛られず、自分の判断で様々な映画会社の映画に出演ができるし、今までにない企画にも挑戦できるようにになった。
勝新太郎はこのムーブメントに狂喜し、「すぐに自分も」と会社を作ろうと考えた。そこで大映社長・永田雅一に相談すると、独立は認めるが、その後も大映の撮影所で映画を作るのはどうだ、と提案される。独立したからといって、ただちに自分の撮影所を所有して映画が作れるわけではないし、馴染み深い大映の撮影所をこれからも使えるなら……ということで勝新太郎は了承する。永田雅一にしてみれば、独立は認めるが、結果的にその後も勝新太郎を囲い込めるので、お互いにとってお得な条件だった。
そういったわけで、映画の冒頭に、「大映」と「勝プロダクション」の名前が続けざまに出てくるわけである。
ところが、勝プロダクションの経営は最初から思わしくなかった。「これからは自由な立場で映画が作れる」と思ったが、だからといって映画がヒットするかどうかは別問題。映画制作の1本目2本目はどちらも失敗。3作目でヒットが出たが、前の2本の負債を回収するほどでもない。4作目は確実にヒットさせなければならない……というプレッシャーがあった。
そこで次なる『座頭市』はゲスト俳優に三船敏郎を招聘。しかも、黒澤明監督の大ヒット作『用心棒』のあのキャラクターがほぼそのまま登場させる。さらに監督には東宝から大ベテランの岡本喜八が招聘された。東宝の監督を招聘できたのも、独立による成果である。
この座組で映画制作がスタートするのだが……しかしそこはトラブルの連続だった。
座頭市は何者かに狙われていた。辺りには逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子供の声が聞こえる。座頭市は自分を狙って襲いかかって来る何者を、次々と斬り伏せていく。
荒事を終えて、座頭市は愕然と座り込む。
「ああ、地獄にゃ飽きた。体んなかを風が音を立てて抜けて行きやがる。雨は嫌だ。風も……。そよ風。せせらぎ。梅の匂い……。そんな夢みてぇな場所があったっけ。2年……いや、3年になるかな」
座頭市は修羅の日々にすっかりくたびれて、いつか見たあの穏やかな村を再び訪ねたいと思い、そこを目指すのだった
間もなくその村へとやってくる。期待通りの梅の匂い。せせらぎが聞こえて、穏やかなそよ風が吹き付けてくる。ああ、3年前と変わってない。いいところだな……。
しかし何か様子がおかしい。目の見えない座頭市には気付かない。せせらぎの下には死体が転がっているし、村の入り口には大量の地蔵が並んでいる。村に入っていくと、村の人々は来訪者に警戒の目を向けてくる。風や匂いは同じなのに、何かがおかしい。
この村には温泉があったはずだ。穏やかで静かな温泉が。
行ってみるが、しかしそこは女達の下品な笑い声がいつも聞こえてきてやたらと騒々しい。背中に彫り物を一杯入れたヤクザだらけになっていた。
温泉から上がって、あんまに体を揉ませながら……いや、あんまの体を揉みながら、事情を聞く。村の村長だった兵六爺さんはすでにその立場を追われて、日がな一日中地蔵を彫り続けるようになっていた。その代わりに村を束ねているのは小仏一家の親分、政五郎だった。
その夜、座頭市はあんまと一緒に歩いていたが、そこを突如何者かが襲う。刺客の攻撃は激しく、あんまが殺される。
それに続いて現れたのは、小仏一家の用心棒・佐々大作だった。座頭市はいつの間にか懸賞金100両の値が首に付いていた。佐々は座頭市に斬りかかるが、座頭市は佐々の鞘を掴み、振り上げる刀を鞘の中へと収めてしまう。その曲芸的な技に感心した佐々は、「気に入った!」と一杯やるからついてこいと誘う。
すぐ側にある酒屋に入ると、そこに看板娘の梅乃がいた。座頭市はすぐに3年前に会ったあの人だと気付くが、梅乃は座頭市のことなんか知らないと言う。
座頭市はしばらく佐々大作とともに酒を飲みながら語り合う。村はヤクザだらけになって荒廃していた。ヤクザの影響で役人も町人もみんな悪党に変わっていた。梅乃はその中で生き抜くために、体を売って過ごしていた。
とそこに、番屋の役人達が殺到してくる。座頭市の凶状がこんな村まで回ってきているのだという。座頭市は役人達に連れて行かれる。
座頭市は一晩牢屋の中で過ごすが、間もなく釈放される。何者かが手を回してくれたらしい。ただし、座頭市はただちに村の外へと追い出されてしまう。
村の入り口までやってくると、そこにいたのはかつての村長・兵六爺さんだった。兵六爺さんはどうして村がこうなったかを語る。
2年前、地域一帯をひどい干ばつが襲った。地域の人々はねずみやモグラを喰って凌がねばならないほどの飢餓状態に陥ってしまった。そんななか、この村にだけは蓄えが残っていて、どうにか冬を越せそうだった。
すると、蓄えがあることを知った周辺の人々が、この村を目指してやってくる。兵六爺さんは村を守るために、ヤクザの小仏一家を村に招き入れた。すると小仏一家は村に押し寄せてくる痩せた人々を、片っ端から斬り殺してしまった。
それからは村は小仏一家が支配するようになってしまった。兵六爺さんは村長の立場を奪われ、村の入り口で斬り殺されていった人々を慰霊するために、地蔵を彫り続けるのだった……。
以上が前半30分ほどのあらすじ。
ここまでで村で起きているできごとの前段階がわかってくる。ただ、このお話はこれで終わりではなく、次の30分、その次の30分と次々とフェーズが変わってしまい、前半のお話が何度かひっくり返されてしまう。それを追いかけていかないと、なかなか読むのが難しいストーリーになっている。
と、その話をする前に、撮影中に起きたトラブル話をしよう。
三船敏郎が大映スタジオにやってきて映画を撮る! 大映・永田雅一社長も舞い上がって、映画撮影には大映最強の座組を提案した。脚本は橋本忍、撮影は宮川一夫。かつてヴェネチアでグランプリを取った『羅生門』の座組である。
それでは監督は誰にしよう? 三船敏郎は監督と揉めることで知られる俳優だ。三船敏郎が納得し、かつ実力もあって名もある監督……ということで岡本喜八が招聘された。
ところが岡本喜八は現場にやってくると、すでにできあがっていた脚本が気に入らないと没にしてしまう。仕方なく橋本忍には引いてもらって、新たに吉田哲朗を立てて、岡本喜八が納得するよう脚本を練り直すことにした。
今度は三船敏郎が不満の声を上げた。三船も自身のプロダクションを経営しており、その映画(『新撰組』)を正月に公開する予定だった。『座頭市と用心棒』は公開時期が被ってしまっているし、しかもこちらにはあの大ヒット映画『用心棒』の名前が入っているから、どうやっても話題がそっちに持って行かれる。三船敏郎は「これは営業妨害ですよ」と不満タラタラだった。そういったわけで、『座頭市と用心棒』は1月後半まで公開時期をずらすことにした。
撮影が開始されると、またトラブルが起きてしまった。撮影初日、撮影開始時刻9時に岡本喜八と三船敏郎がやってくるが、しかし撮影所には誰も来ていない。1時間も待って、ようやく大映スタッフがやってきた。これは大映と東宝で習慣の違いがあり、大映では「9時開始」といえば「9時から準備開始」のことであり、東宝では「9時から撮影開始」ということだった。このすれ違いで、岡本喜八と三船敏郎は1時間待たされることになってしまったのである。
これで岡本監督が激怒。勝新太郎は頭を下げて、翌日から東宝式のやりかたで撮影を進めることになった。スタッフには1時間分の残業代を支払うことで解決した。
撮影が始まると、次のトラブルは宮川一夫だった。宮川一夫は数々の巨匠と組んできた凄腕カメラマンだが、監督の言うままに撮る監督ではなく、自分の独創性をその中に入れたいカメラマンだった。
するとまた岡本喜八が激怒。「監督の言うことを聞かんカメラマンはいらん!」と宮川一夫を外すように要求する。勝新太郎は宮川一夫に頭を下げて、岡本喜八の言うことを聞くようにと懇願するのだった。
そうしたトラブルだらけの撮影を乗り越えての映画制作で、映画は評判も良く、シリーズ最高の興行成績を上げ、勝プロダクションの経営も立ち直ったけけど、勝新太郎はひたすら頭を下げての撮影だったのでなんともやりきれない後味を後に残すのだった……。
次にお話を見ていこう。『座頭市と用心棒』のストーリーだけど、私も1回目の視聴の時、よくわからなかった。「これはどういうことだ?」と何度も引っ掛かってお話について行けない。2回目の視聴の時にようやく色んなことがわかってきて、腑に落ちるようになってきた。そこで、この作品は楽しめるようになるまで、ちょっと時間の掛かるタイプの映画だとわかった。
ストーリーだが『座頭市と用心棒』というだけあって、『用心棒』の元ネタとなったダシール・ハメットの『血の収穫』が元ネタになっている。村に悪の勢力が二つあり、知恵を懲らしてその勢力をぶつけ合わせ、最終的に双方自滅させるというストーリーだ。『座頭市と用心棒』も基本的にはこの構造で、座頭市と佐々大作が共謀して二つの勢力を自滅させるという展開となっている。
問題なのが、お話をややこしくしている、「金」と「隠密」の存在。
生糸問屋エボシ屋の長・弥助と、ヤクザの小仏一家の長・政五郎は親子である。しかし弥助と政五郎は10年前に絶縁している関係にあり、弥助が寵愛しているのは政五郎の弟・三右エ門だった。三右エ門は京で医術を学び、やがて有力貴族である後藤家の婿に入った男である。
後藤家は小判の鋳造を一手に引き受けていた名門だが、小判1枚あたりの金の含有量を少しずつごまかしていた。
↑生糸問屋エボシ屋の長・弥助。小判を鋳造するときの金を少しずつちょろまかして、村に集めていた。
後藤家がちょろまかした金は、少しずつ弥助のところに集められ、どこかに隠しているらしい……。でもその隠し場所は、寵愛する息子である三右エ門にも告げていなかった。それで三右エ門は、本当に金を自分に託してくれるのか、疑心暗鬼になっていた。
この後藤家による不正は、村の役人、村長兵六爺さん、八州廻り取締役全員が協力しあって隠していた。まず八州廻りが金を箱に詰めてエボシ屋の元へ運び、エボシ屋は兵六爺さんのところへ運び、その金は地蔵の中に隠される。全員が協力し、金のありかをお互いに明かさないようにする関係になっていた。
↑ 用心棒こと佐々大作。実は隠密。ヤクザの用心棒をカモフラージュにして、村の内部調査をしていた。
この不正に対し、やがて大目付も勘づくようになっていて、密かに内部調査を始めていた。そこで送り込まれた隠密が用心棒こと佐々大作だった。佐々大作は隠密である身分を隠し、小仏一家に用心棒として潜入し、金の隠し場所を探っていた。
↑ニセあんま。実は超重要人物。彼がエボシ屋に潜入調査をしていた隠密だった。
隠密にはさらに隠密が付く。その隠密が誰なのかというと、映画前半に出てきていたニセあんま。ここがわかりにくいところ。
映画前半、座頭市とニセあんまと歩いているところ、突如刺客に狙われるが、あれはニセあんまを狙った暗殺。ニセあんまは「あんま」と言いつつやたらと身軽だったし、杖に見せかけた仕込み刀を持っていたのはそのため。ニセあんまを狙ったのはエボシ屋だが、「あいつが大目付が送り込んだ隠密だ」と通報したのは佐々大作。
(私も最初観たとき、「なんであのあんまはやたら身軽で仕込み刀なんて持っているんだ?」と疑問だった。もう一度見返すと、彼が潜入調査中の隠密だとわかってくる)
それから間もなく、映画後半に向けて、もう一人の隠密が現れる。それが九頭竜。エボシ屋に雇われた用心棒……ということだが、実は正体は隠密。九頭竜はエボシ屋に従い、八州廻りや番屋の役人を次々と粛正していく。生かしていると、いつか事件が明るみにでてしまうからだ。
↑エボシ屋に雇われた用心棒・九頭竜。正体は3人目の隠密。しかし彼は幕府の任務に興味はなく、目的は金の持ち逃げ。
次にそれぞれの目的だけど、まず佐々大作は惚れた女・梅乃を解放するために、金が欲しい。佐々大作がやたらと金にがめつい性格として描かれているのは、そのため。
九頭竜はエボシ屋と政府の任務を遂行しているように見せかけて、金の持ち逃げを画策している。
小仏政五郎は見たまんま金が欲しい。弟の三右ェ門も同じだが金のありかがわからず、しかも大目付に目を付けられるようになって、すぐにでも金を得て逃げ出したくて、父親を斬ってしまう。それを九頭竜が煽って、差し向けている。
最終的には、全員がどこかに隠しているらしい金を巡って、全面戦争に陥っていく……というのが今作のストーリーだ。
↑座頭市と用心棒。「化け物「けだもの」と呼び合う仲だが、それぞれの目的のために共謀をはじめる。
映画最初のフェーズでヤクザの政五郎一家が村にやってくるのだけど、なぜ政五郎が村に居着いてしまったのか。佐々大作が何を目的として政五郎の用心棒を続けているのか。第2、第3のフェーズが進むたびに少しずつ見え方が変わっていくが、それも最終的には「金のありか」というところで収束するような構成になっている。
でも、これが見ていてもマァわかりづらい。よくよく確かめてみると、映画中で全部説明されているし、すべての設定が映画中できちんと収まっているし、実は無駄のない構造なのだけど、ただし初見ですぐにわかるように作られていない(特にニセあんまの件はわかりづらい!)。登場人物が多く、それぞれの台詞が何を示しているのかわかりづらい作りだから、お話の進行を見失いがちになってしまう。ここがわかるようになると、俄然映画が面白くなるのだが、楽しめるようになるまでちょっと時間が掛かるのが難点だ。
Amazonの感想を見ると、やっぱり「よくわからない」という意見がそれなりにあった。「わからなかった」という人達は、強がらず解説してくれているブログなりを読んでから、もう一回視聴しよう。これは私も初見ではわからなかった。
↑やたらと金にがめつい佐々大作。それは梅乃の借金を清算し、解放させたかったから。
で、ストーリーがきちんとわかってくると、映画が面白くなってくるはずだ。前半部分はコミカルに描かれていて、それを中盤を越えて映画のトーンは重く、最後の金を前にしたところで地獄絵図に変わっていく。そこまでの転換が実にうまい。すべてを計算ずくでシーン設計ができていることがわかってくる。
映画の前半に、あの村は桃源郷のようだ……という前置きをしておいて、しかし実際に行ってみると荒廃した様子で、しかもその荒廃がどんどん進んで、最後には映画冒頭に描かれたような修羅に変換されていく。ここで映画冒頭とラストが繋がる構成だ。
結局どこも、平和に見えるガワを一つ剥いたら、そこにあるのは修羅。楽園なんてどこにもありはしない。あったとしても、ほんの一押しで崩壊する。そんな不条理を前にして、諦念を抱えて座頭市は去って行く……というこれが作品の大きなテーマとなっている。それを映像として物語としてきっちり表現されている。その凄みは素晴らしい。
↑最終的に全面戦争に突入し、人間の欲望をあぶり出す構成になっていく。そして、ほぼ全員が死ぬ修羅の世界が展開される。
ただ変な引っ掛かりがあって、まずアクションがいまいちよくわかりづらい。殺陣のカット割りが細かく、肝心の刀がフレーム外になっていて、動きが見えない。せっかく三船敏郎という希代の侍俳優が出ているのに、殺陣がどれもカット割りで細切れにされてしまっている。
座頭市の殺陣もわかりづらいし、今作はちょと疑問に感じる場面もある。前半、座頭市が石をひろい、役人達と戦う場面があるが、そこは座頭市らしからぬ間抜けな立ち回り。コミカルなシーンを強調したかったのだと思うが、余計な一場面に感じられた。
座頭市と用心棒のバトルシーンはクライマックスに用意されているのだが、ここもカット割りが細かすぎて、何が起きているのかわからない。もともと超スピードで動き回れる二人で、しかもカット割りを細かくしてしまうと、もはや何がなんだかわからない。
もう一つの引っ掛かりは編集で、なんだか妙なリズムでシーンがブツ切りにされてしまっている。牢屋での座頭市と余吾の対話シーンも、急に途切れたようになって、佐々大作と梅乃のシーンへと入っていく。佐々大作と梅乃のシーンが終わると、また座頭市と余吾のシーンへ戻っていく。
他にも、変なタイミングで編集がブツ切りになっているように感じられるシーンがいくつかあって、シーンがブツ切りに感じられるとどうしても気持ちもブツ切りになるような気がして、気持ちよくない。それに梅乃の登場シーンは毎回同じメロディが流れて、「またこの曲か」という気分になってしまう。
『座頭市と用心棒』は初見ですぐに面白さがわかるというタイプの作品ではなく、後になってじわじわと面白味がわかってくるタイプの作品だ。噛めば味が出てくるタイプの娯楽映画だ。それに、テーマもしっかりしている。
たしかに普通の娯楽映画だと思って観ると、前半のコミカルさに対して妙に複雑。取っつきやすさはあるのに、何となく難解な感じがする。それはこの作品が、見た目以上に作り込まれた作品だからだ。その内面を分解し、読み解くのに、観る側も少し頑張らなくてはならない……そういうタイプの映画だ。
それがわかってくると、実は挑戦的な娯楽映画だとわかってくるし、最後には描かれているものに感動できる作りにもなっている。ただ、そこまでがちょっと難しい……というのが難点の作品だけども。
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