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映画感想 インシディアス 最後の鍵

 『インシディアス』シリーズを見始めた切っ掛けは、最初に情報を見たとき、『序章』と『第1章』で完結していますよ……という話を見かけたから。Netflixで検索をかけたとき、確かにその時は『序章』と『第1章』しかなかったので、「あ、2本だけなのね。じゃあ見ようか」……みたいな始まり方だった。でも改めて検索してみると、『インシディアス』って4本もあるじゃあないか! 気付いたときにはもう見始めていたので、全部見ることにしたけどね。

 そんなわけで『インシディアス』シリーズ第4作目。『インシディアス 最後の鍵』はシリーズ4作目。時系列的には『序章』と『第1章』の間に入ってくる。位置づけとしては『序章2』と呼ぶべき内容になっている。後で建て増し的に「あの作品の前のお話し」と作り足していくパターンなので、だんだん時系列がゴチャゴチャになっていく。
 4作目はランバート一家のお話から離れて、エリーズ・レイニアが主人公で、あのお婆ちゃんのパーソナルな部分がメインテーマとなっている。シリーズ的にはエリーズ・レイニアは人気キャラにもかかわらず、うっかり第1作目で殺しちゃったので、それで仕方なく「第1作目の前のお話し」……というちょっと面倒な作りになっている(1作目の頃はまさかエリーズが一番人気になるとは思ってなかったんだろう)。
 製作はみんな大好きブラムハウス・プロダクション。監督はアダム・ロビテル。アダム・ロビテルの活動は俳優・プロデューサー・脚本家と多岐にわたり、2014年『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』というホラー映画で映画監督デビューした。本作はアダム・ロビテルにとって監督2作目である。
 アダム・ロビテルに関するちょっとユニークなエピソードとして(Wikipediaに書いてあるのだが)、ロビテルは同性愛者なので、『X-MEN』の撮影中、ブライアン・シンガー監督とデートをした……という。本当かしら?
 制作費は1000万ドル。『第2章』は制作費500万ドルだったから予算は2倍。『序章』と同じ予算。それに対して世界収入は1億6600万ドル。公開初週に2958万ドルを稼いだので、1週間で余裕の黒字を出した作品だ。
 日本での劇場公開はなく、パッケージ販売と配信のみとなった。
 しかし評価は低く、映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば批評家支持率32%。平均点は5.1。シリーズ最低を争う低評価だ。
 確かに実際見てみると……いや、悪くはないのだけど、特別「ここが良い」というポイントもない。なんとも言いがたい作品というのも確か。そこも見ていくとしよう。

 いつものように前半のストーリーを見ていこう。


 1953年。ニューメキシコ州ファイブキース。州立デューベンド刑務所。その中に建てられた一軒の家。そこがエリーズが幼少期を過ごした家だった。
 父は刑務所に勤める実直な看守。真面目だが融通の利かない、強権的な父親だった。その父に対して、聖母のように優しい母。やんちゃな弟。そして幽霊の姿と声を感じることのできるエリーズという一家だった。
 しかし父は「オカルト」などといういい加減なものは絶対に信じない。エリーズが幽霊の姿を見たり、声を聞いたりするたびに、厳しい体罰を下すのだった。
 母・オードリーはエリーズに言う。
「あなたには特別な才能があるわ。でもそれを怖がる人もいる。パパもそう。理解できないのよ。だからあなたの才能のことは秘密よ」
 そんなある夜、眠ろうとしたところに不穏な気配が現れる。部屋の中に何かいる。少年の霊……いや、悪魔だ!
 弟のクリスチャンにも悪魔の姿が見えて、クリスチャンは恐怖のあまりに悲鳴を上げてしまう。
 それを聞いた父は、「またやったな!」と部屋に飛び込んできて、エリーズを掴み上げる。
「俺は罰を与えるプロだ。家では俺に従え! 従わないやつは地下室だ!」
 と父はエリーズを地下室に閉じ込めてしまう。
 エリーズが真っ暗闇の中で怯えていると、地下室の奥から声がした。
「怖くないよ。ここを開けて。鍵はすぐそこにあるから。鍵を開けてくれたら、部屋を明るくしてあげるよ」
 エリーズは言われたまま地下室の奥にあった謎の扉を開けてしまう。するとその向こうから、恐ろしい悪魔が姿を現すのだった。
 その瞬間、家全体が震えた。その地震にオードリーはハッとして地下へと下りていく。しかしそこに悪魔が襲いかかり、オードリーは殺されてしまう。その現場に駆けつけた父は……。

 それから数十年後。あの時の体験は未だにエリーズにとってのトラウマだった。
 エリーズはスペックス&タッカーとコンビを組んで「心霊捜索班(ゴーストハンター)として活動していたのだが、そこに1本の電話がかかってくる。
 「家で困ったことが起きたんだ」――しかしエリーズはその住所を聞いて、依頼を断ってしまう。なぜならその住所は、エリーズの生家。母が死んだあの家だった。


 ここから一度依頼を断ったエリーズが、自分のトラウマと向き合うためにやはりニューメキシコ行きを決めるまでが前半の22分。
 依頼を一度断るのは、ジョセフ・キャンベルの言うところの「冒険の召命」。物語の主人公は依頼を受けた後、必ず一度断る――という神話や民話の時代から繰り返される黄金パターン。なぜ冒険の依頼を断るのか、というと「なぜ自分がその依頼を受けるのか?」、その理由を改めて探るためである。エリーズの場合、過去のトラウマがあったから依頼を断るが、しかし「やはりトラウマと向き合うべきだ」と思い直し、依頼を受ける。この心理的変遷を描くために、依頼を一度断っている。

 冒頭はエリーズの少女時代のお話し。ここのエピソードがプロローグとして16分もある……というのが、まずちょっと長いな、という気がしたけど。
 映画の始まりが重そうな鉄扉が開かれ、「郡検視官」と書かれた公用車が横切っていって、そこからカメラが上へPANして「レイニア家」が出てくる流れになってくる。
 夜、家の照明がちらついたとき、弟・クリスチャンが「誰かが電気椅子で死刑になったんだ!」と声を上げる。刑務所内に家があって、一家で住んでいる……というかなり不思議な立地。この時代にはそんなのがあったのかな? 「家が刑務所敷地内」という設定が、エリーズの精神的トラウマとちょっと絡んできている(エリーズの精神は監獄のようなところに閉じ込められている……という比喩表現と関連している)。
 刑務所敷地内の家でエリーズは生まれ、幼い頃から霊視ができたので、日常的に死者の姿が見えてしまっていた。
 しかし、父親はそういうのを一切信用しない。この時代のお父さんだから、家にいるときはずーっとテレビにかじりついている。「趣味:テレビ」というこの時代の典型的な親父。でも見ている番組がえんえん政治番組。お堅い政治番組ばっかり見ているような父親で、オカルトとかそういう胡散臭いものを一切信じないし、嫌悪すらしている。そこに、こともあろうか娘が「幽霊が見える」と言い始めるので、父親は娘に対して異様に冷たい。容赦なく殴るし、地下室に閉じ込めるし、今の感覚でいうと「虐待」としかいいようのない「教育」を施していた(ああいう「教育」、私の時代まではまだあったんだけど……)。テレビばっかり見ているオッサンはろくでもない……というのは昔も今も、だ(今はネットだけどね)。
 それに対して、母親のオードリーは娘の“才能”に対して全面的に信じて、優しく接する。
 この「悪魔のような父親」と「天使のような母親」というのが、後々、そのまんまの意味で物語に反映されていく。悪魔のような父親は本当に悪魔に取り憑かれていたし、天使のような母親は実は本当に天使の属性で、最終的にエリーズの窮地を救ってくれる。

 というプロローグが16分……。
 どうしてこうも長くなってしまったのか、というとホラーだから。前回の感想文の時にも書いたけど、「物語」と「ドラマ」は定義が違う。ホラー映画の場合、物語進行と「ホラー描写」は別モノ。ホラー描写が入ると、物語進行は停滞してしまう。
 冒頭からエリーズの子供部屋に幽霊が現れて、ホラー描写が始まるのだが、このおかげでプロローグが冗長になってしまっている。これが困った話で、通常のドラマ作だと、こういう場面はサクッと流れていくところ。ホラー映画はホラー描写を入れないといけない。すると物語が停滞する。
 それに、お話しがちょっと薄く見えてしまう。というのも、「ある一晩の出来事」に集約されてしまっているから。オカルト嫌いの父親。エリーズの才能を認めるけど「内緒にしよう」と言う母親。それと同じ日に悪魔が出現して母が死亡する……というエピソードまでが描かれる。エリーズが幽霊を見ることができるために日常的にどんな苦労があったか、そのエピソードが描かれていない。エリーズの苦悩は、父親のみしか対応してない。もっと色んな描写を入れて、掘り下げても良かったんじゃない?

 続きのお話しを見ていこう。


 エリーズは1人でニューメキシコへ行くつもりだったが、結局スペックス&タッカーも一緒に行くことになる。
 ニューメキシコの、現在はテッド・ガルザが家主となっているその家。そこはまさしくエリーズが幼少期を過ごした家だった。
 エリーズはよく幽霊の気配がする、という子供部屋から探索を開始する。まだ昼だというのに、カーテンを引くと、誰もいないその部屋に気配が現れる。エリーズはベッドの下に笛を発見する。それは幼少期の弟が、母から与えられたものだった。
 エリーズは幽霊の気配を追って部屋の外へ出て行く。そこで幽霊に襲われ、笛を奪われてしまう。

 エリーズは16歳の時の出来事を思い出す。
 その日もエリーズは弟とともに、父の命令で廊下の雑巾がけをやっていた。母が早くに死んだので、家事もすべてエリーズと弟がやることになっていた。
 すると廊下の向こうで気配がした。エリーズが奥の部屋を覗き込むと、女の亡霊が立っていた。
 エリーズが女の亡霊に話しかけようとすると、父が現れ、「幽霊を見た」というエリーズに対して暴力的な「教育」を施そうとする。
 しかしたまりかねたエリーズは、そのまま家出をしてしまう……。

 仕事が一段落して街のカフェへ行くと、エリーズはふと隣に座った2人の女性に惹きつけられる。母によく似ている……。そう思って話しかけていると、女性の父親がやってきた。その父親はクリスチャン――エリーズの弟だった。
 クリスチャンは「悪魔のような父親」のもとに自分を残して家を出て行った姉を毛嫌いしていた。長い年月はその溝を埋めるどころか、むしろ深めてしまっていた。

 夜。再びガルザ家へ行き、エリーズはスペックス&タッカーとともに幽霊の気配を探る。
 幽霊の気配をずーっと探っているうちに、地下室へと入っていく。その地下の扉を開けると、首輪に繋がれた女性が現れた。その女性は幽霊じゃない。地下室に監禁されている女性だった。
 ガルザは女を誘拐し、監禁していたのだった。モニターで監視していたタッカーが現場にやってきて、ガルザと遭遇し、格闘の末殺してしまうのだった……。


 ここまでで55分。前半パートが完了し、ここから後半パートへと入っていく。

 中盤の展開で、シリーズにない展開をやっている。「幽霊だと思ったら生身の女性だった」……映画的に見れば、幽霊も生身も同じように見える、というところからきた逆転の手法だ。さらに今作はもっとも恐ろしい存在が幽霊ではなく、生身の人間……というのがオチになっている。依頼人だったガルザが女性を監禁していたやばい奴で、幽霊は監禁されている女性を救おうとエリーズにメッセージを送っていた……という構図だ。
 この展開はかなり面白いと思ったのだけど、すると問題は何かというと、幽霊が怖い存在ではなくなってしまう。これ以降も幽霊は出てくるのだけど、「幽霊は味方」という前提を置いてしまうと、ホラー演出が入っても怖くなくなってしまう。
 これは不思議なところで幽霊でも怪物でも、一度「味方です」という前提を置いてしまうと、もう何をされても怖くなくなってしまう。手品をやっている人はわかるけど、人間は「前提」となるものを置くと勝手に思い込んでしまう「癖」のようなものがある。この作品の場合は、「幽霊は味方」という前提を置いてしまったために、途中から怖くなくなってしまう。

 そこで幽霊のさらに上位存在として「悪魔」が登場する。日本の怪談だと「幽霊」で止まるのだけど、西洋の怪談は幽霊の上位存在として「悪魔」が登場する。悪霊は幽霊であるから、人を呪い殺すにしても背景ストーリーがなければならない。しかし悪魔は由来を持たず、ただ意味もなく人間に対して悪意を向けてくれる。そういう存在が幽霊以上に恐ろしい存在としてエリーズに迫ってくるのだけど……。
 ここからの展開があまり怖くない。不思議なくらい。いや、演出はすごく頑張っているんだけど、どこか拍子抜けというか……。似たような映像は過去、一杯見てきたから、もう今さら驚くような要素はどこにもないというか……。
 人間の想像力というのは、人間が思った以上にたいしたことがない。どんなに優れたクリエイターであっても、「神様のような凄い存在を描こう!」と思ってもイメージができない。イメージできるものは、所詮、現実にあるようなものになってしまう(という以前に、イメージもできないからこそ神様、なのだが)。
 この作品の場合も、とにかくも何か恐ろしいもの! ……と頑張ってデザインして画面に描き起こしているのだけど、でもどこかで見たような……という感じになってしまう。人間が想像できるようなものは、どんなに恐ろしく描いても、それ以上の恐怖をかき立てることはない。
 それに、本作の「鍵の悪魔」は、あまりにもはっきりと姿を現すから、より怖さを感じない。恐ろしい何かがいる! ……と思っても、姿を確認できると、人はその対象に怖さを感じなくなってしまうものなのだ。
 鍵の悪魔は姿を出し過ぎ。人間がもっとも恐れるのは、自分の想像力なのだから、そっちを刺激するように描けばいいのに。

 まとめとして……。
 作品のテーマも恐怖演出にしても、わりと良い。作品のテーマはエリーズのトラウマを掘り下げていき、実はそこに悪魔が絡んでいて、それを撃退することでエリーズはトラウマを乗り越えていく。理不尽なまでに暴力的な父親も、実は悪魔に取り憑かれていて、暴力や高圧的な態度も本意でなかったことを知り、父を許すようにもなっていく。そこに家族のドラマがあり、最終的にはバラバラだった家族が再び結束を取り戻すまでを描いている。
 こうまとめると、なかなか良いドラマだ……という気がするのだけど、作品の中でどうしてもそれがメッセージとして強く感じられない。
 問題点はホラーゆえだから。前回もお話ししたけれど、ホラー映画におけるホラー演出というのは、アクション映画におけるアクション演出と性質は同じもの。映画におけるエンタメ的見せ場だけど、その間、物語進行は停滞する。アクション映画のアクションシーンはスパッと痛快に見せられるけど、ホラー映画は時間をかけてじわじわと「怖い」という感情をかき立てなければならない。これがどうしても展開が緩慢になりがちになってしまう。どうしてもドラマとしての展開が薄くなってしまう。
 見ているともっともっと家族のドラマを軸に、しっかり見せていけば良いんじゃないか……という感じはあった。でもホラーであるから、どうしてもホラー演出に時間を取られていく。すると物語全体が薄くなってしまう。そこでどうしても惜しいなぁという感じになっていく。
 映画を観ていて、よくわからないところもあるよね。弟・クリスチャンがどうして笛にこだわるのか。どうして母親・オードリーが天使になっていたのか。母親が天使になっていたのは、エリーズとクリスチャンがそう願ったから。父親を悪魔のように感じていて、その父親から守ってくれる存在。しかし早くに死去してしまったために、2人の子供の間で理想化していった(弟が笛を大事にしていたのは、笛が理想の母親のシンボルだったから)。ゆえに、2人の意識の世界で天使として登場した……というのが普通の解釈だと思うのだが、映画を観ているだけではまあわからん。
 鍵の悪魔にしても、シリーズ全体に出てきた「赤い扉」と関連を持った存在らしい……という話だけど、うまく掘り下げられていない感じもあった。シリーズ全体を貫く「謎」が解明される文字通り「鍵」となるエピソードであったはずなのだけど……結局なんなん? って感じ。
 あと最後に第1作目とリンクする場面があったけど、あれは蛇足。あれだとダルトンがエリーズの姿を見て悲鳴を上げた……ということになってしまう。
 第1作目には確かに回収されていないホラー描写があるのだけど、それはルネが屋根裏部屋へ行くシーン。あっちをピックアップすれば良かったのに。
 よくよく考えてみれば良いところはあるのだけど、物語がうまく掘り下げられていない。そこでなんとなく拍子抜けな感じになってしまう。もうちょっとじっくり描き込めば化けたんじゃないか……そういう惜しさがある。

 さて、『インシディアス』シリーズ4作を見終えて、『最後の鍵』で完結……と思っていたのだけど、実は2023年に続編公開予定で、すでに撮影が進んでいるとか。続くのか……。
 評価は最新作が出るたびに落ち気味だけど、しかし毎回きっちり予算以上の利益を上げていく。映画会社としては経営のためにもシリーズを続けなければならないのだ。そこで変なマンネリ映画にならなければいいんだけどな……。


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