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ゲーム感想 天穂のサクナヒメ

 ゲームで米騒動!

 この作品はゲーム界隈で「令和の米騒動」と呼ばれるほどの話題になったからすでに知っている……という人の方が多かろう。
 『天穂のサクナヒメ』――2020年11月22日発売のインディーズゲームだ。それを3年遅れでやっと手に取った……というから私はどれだけ遅れているのやら。貧乏暮らしだから仕方ない。
 制作はインディーズゲーム制作グループである「えーでるわいす」。もともとは2011年に発売された『花咲か妖精フリージア』の続編として企画されたが、まもなくある程度の世界観の連なりを持ったまったくの新作として『天穂のサクナヒメ』が企画された。インディーズの制作グループであるため資金力がなかったものの、インディーズゲームイベントである『BitSummit』において作品が注目され、マーベラスUSAからの資金提供を受けられるようになった。
 その後はかなりの紆余曲折を経て、5年がかりで『天穂のサクナヒメ』は完成。当初の販売目標は3万本だった……というから損益分岐点は3万本という計算だったのだろう。ところが発売してみると「令和の米騒動」と称されるほどゲーム界隈で話題となり、パッケージ版は異例の50万本突破。発売から1年後には世界出荷数が100万本に達した。
 私のように数年遅れでやっとハマり出す……という人も間違いなくいるはずだから、この数字はまだまだ伸び続けているはずだ。
 発売後も話題が途切れることなく、小説版、漫画版が発表され、2022年11月12日にはオンラインライブも開催された。このライブというのが雅楽の専門家を招待してのものだったから、さぞ壮観だっただろう。……見たかった。
 ともかくも3年が経っても『サクナヒメ』にまつわるムーブメントはいまだに終わっていない。日本におけるインディーズ界の、最初にして最大の事件であったかもしれない。

異質な仕組みをいかにして合体させたのか?

 この作品に関する感想文はすでに先々月一度発表している。こちらはゲームの前半部分を遊んだ段階での感想文だった。

 こちらの感想文に書いたことだけど、なにが面白いのか……というと米作りに異様なほど手間を取らせること、だった。田んぼに苗を植えれば勝手に実るのではなく、まず田起から始めて田植え、草むしり、水の調整……などを経てようやく実り、収獲の後は脱穀という地味な作業が待ち受けている。
 米作りに関するだいたいすべてのプロセスをわざわざやらせる。やたらと時間がかかるし、作業的。この無駄としかいいようのない設計に笑えてしまった。おかげで私は漠然とでしか知らなかった「米作り」の全プロセスを知ることができた。ある意味で教育的に素晴らしい作品ともいえる。
 たったいま、私は「無駄としかいいようのない設計」と書いたけれども、この無駄なところがこのゲームの核となっている。ゲームとはなにを「核」に持ってくるかで設計の仕方は変わる。

 その1つ目の例として示したのがSFC『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』。このゲームでは仕掛けを解くとき、スイッチをAボタンで掴んだ後、「引く」という動作をして作動させている。合理的観点から見ると「無駄」と思えるような仕組みだ。しかしこのわざわざやっている一手間のおかげで、プレイヤーは「仕掛けを解いている」という実感が得られる。
 『ゼルダの伝説』シリーズは最新作まで、仕掛けを解くことにわざわざ一手間かけさせるように作ってある。それでこういう仕組み自体が『ゼルダ』シリーズの核だとわかる

 もう一つの例として示したのが『スカイリム』。こちらのゲームではカーソルを仕掛けに合わせて、Aボタンを押せばすべての仕掛けが作動する仕組みになっている。一見すると非常に合理的で無駄がないように感じられる。しかし実際やっていると、「仕掛けを解いている」という実感が得られない。ただ「映像が勝手に動いている」という印象だった。
 これはどういうことかというと、『スカイリム』のゲームとしての「核」が『ゼルダの伝説』のような謎解きアドベンチャーではないから。『スカイリム』のゲームとしての核はその世界観。数百時間遊んでも遊びきれないような広大なフィールドにサブストーリーが面白さのポイントになっている。一見するとビジュアルが似ているように思えるゲームでも、どこにゲームとしての核を持ってくるかで楽しみ方は違ってくる。

 こういうところから、「どこに手間をかけさせるか」でゲームの核がどこにあるかがわかってくる。ここがゲームの面白さを読み解くのに重要なポイントになる。
 そこで『天穂のサクナヒメ』の場合は稲作がゲームの中で一番手間かかるように作られている。下手するとアクションパートよりもこっちのほうが時間が掛かっているのでは……というほどに。
 ただ米作りははっきりいって楽しいものではない。地味で退屈な作業がえんえん……。田植えもただひたすらにYボタンを押すだけだし、収穫後は脱穀しなければならないのだが、同じキー操作をえんえんやらなければならない。米作りパートは実はさほど楽しくない。
 そこで本作はどんなアクロバティックが出てくるのかというと、米作りパートの横に痛快さに徹底したアクションパートがあること。主人公は「豊穣神」という設定にすれば、米作りという面倒なプロセスがゲーム的に強い連なりを持てるようになる。良い米を作ることができれば主人公がパワーアップしてアクションパートを快適に進めるようになる……と。つまり米作りはRPGにおけるレベル上げと一緒だ。ほんのちょっとした「設定」の捻りのおかげで、すべてのパートが連なっているように感じられる。実によくできた設計だ、といえる。
 本作における「米作り」ははっきりいって面倒。時間がリアルタイムで進むから、時期が来て「田起の季節になりました」「収穫の季節になりました」と表示が出たらアクションパートを中断してでも拠点に戻り、稲の面倒を見なければならない。こんな「変な設計」を変だと思わず受け止められるのは、「設定」のひねりが1つ入っているから。

 ここで取り上げたいゲームは『Splatoon』。『Splatoon』はジャンル分けすると「TPSシューティング」だが、よくあるゲーム設計とまるで違う。プレイヤーはインクを飛ばす。そのインクに潜ると「隠れる」「インクを回復」させることができる。そしてインクをより多く塗ったほうが勝利となる。
 しかし制作者の話を聞くと、ゲーム設計はできたけれども、そこにどんな「キャラクター」を載せるか……で試行錯誤したという。

 有名な話だけど、初期案はウサギだった。ウサギは体毛が白なので、インクを塗ったときに識別しやすい。長い耳があるので、どちらを向いているのかすぐにわかる。
 ところがウサギのキャラクターで遊んでみても、なんとなくしっくり来ない。他の人の意見を求めてもなんとなく「微妙だね」という反応。そもそもなんでウサギがインクを撃ち合って、インクの中に潜れるの……と逆に引っ掛かる。
 そこでさらに試行錯誤を重ねて出てきたキャラクターが「イカ」。イカに変えた途端、色んなものがピタリとハマった。イカならインクを撃っていても不思議はないし、インクに潜るのも(本当はかなり「変」ははずなのに)なぜかスッと納得できてしまう。内容は一緒なのに、イカのキャラクターにした途端「面白い!」と社内で言われるようにもなった。

 ゲームの「設定」がイカに大事か……というのはこういう話。世界観、キャラクター、ゲーム設計……この3要素がバチッとハマっていなければならない。1つズレていたら、ゲームとしては面白いんだけどなんとなく微妙……ということになる。
 話は『天穂のサクナヒメ』に戻ってくるけど、このゲーム、「稲作」に「アクションゲーム」を掛け合わせる……というかなり変なことをやっている。すでに仕上がった作品を見ているから「変なこと」という気がしないが、かなり変なゲームだ。どれくらい変かというと、ゲーム史40年の歴史の中で誰もやっていない。なぜなら誰もこの設計が成立すると思ってなかったからだ。
 でもこの2要素がカチッとハマっていて心地良く感じられるのは「稲作」と「アクションゲーム」のかすがいとして「豊穣神サクナヒメ」が出てきているから。このキャラ設計のおかげで明らかに「異物」同士の組み合わせにもかかわらず、パチッとハマっている。ゲームを設計するために、「物語」としての設定がいかに大事かがわかる。

リアリティの置きどころ キャラクターデザインと設定の作り込み

 この2つの「ヘンテコ」をうまく繋いでいるのがキャラクターデザイン。まずいって可愛い。これだけでかなりポイントが高い。かわいい・格好いい・美しいは商業的にいって重要なポイントだ。
 次の注目ポイントは「嘘」が多いこと。

 まずは主人公サクナヒメ。この見た目でバッチリ大人。「合法ロリ」である。そもそもサクナヒメは神様なので、見た目年齢は関係ない。どちらかといえば「精神年齢」のほうが重視されている。神様は生身の人間ではなく観念的存在だから、いかようにも表現できる。そこでこの見た目。
 この見た目で「大人」と言い張るが、情緒は子供そのもの。神様らしく尊大な振る舞いをするが、ちっとも威厳があるように見えず。どう見ても子供のサクナヒメが子供っぽいふるまいをする様子がただひたすらに可愛い。
 このちぐはぐした要素をうまくまとめるために、《抽象度》を思いっきり上げている。抽象度を上げると、明らかに相反する要素を1つのモチーフにまとめ上げることができる。抽象度を上げることの利点をうまく活かされている。

 次に田右衛門たち人間。彼らはもともとは山賊達に監禁されていて、その後脱出し、数日間山の中を彷徨っていたという……。ということは着ているものはもっとボロボロで、絶食もしていたはずだから痩せてなければならない。
 そういうリアリティはさておきとしてキャラクターを作っている。

 時代背景はおそらく「戦国時代」……こんな時代にあって、こんな長い髪をしていて、風車の髪飾りなんか付けている。こんな時代にこんな姿の娘はいないだろう。
 しかしそういうリアリティもいったん投げ捨てている。リアリティを無視した段階で、いかに「映えるキャラクター」であるか……が追求されている。

 それと同時に、別のところでリアリティが作られている。その1つの例が「言葉」。

 この作品の中には4つの言葉が入り乱れている。まずサクナヒメの言葉。次に田右衛門の言葉。ゆい&きんたの田舎言葉。そしてミルテの言葉。
 日本の歴史を遡ると、明治以前は地域ごとに言葉が違いすぎて、同じ日本語であるのに意思の疎通が難しかった……と言われる。未開民族の間では峠を越えると言語が変わる……と言われていているが、明治以前の日本はおそらくそういう感じだったのではないかと考えられる。日本語の方言があまりにもきつくて、英語の方が意思の疎通が確実にできる……そこで明治時代は何度か「日本語を排して英語を公用語にしよう」という意見が出たとか(その英語にも実は「方言」があることを当時の人々は知らなかった)。
 一般的な定義として、「方言」と「別言語」の違いは、7割ほどの意思疎通ができるかどうか、だという。それ以上に意思疎通ができない場合は別言語ということになる。昔の日本の方言はほとんど方言ではなく「別言語だった」というくらいに違っていたそうだ。
 1つの国としてまとまりをつくるためにそれではいかん……ということで考案されたのが「言文一致」だったのだが、それは別の話。
 本作の面白いところはキャラクターによって使われている言語が違っていて、その言葉遣いがかなりきっちりしていること。まずゆい&きんたの田舎言葉だけど、声優による声のトーンや文脈でだいたいわかるのだけど、時々本当に何を言っているのかわからない。現代のエンタメ作品としてだいぶ言葉を現代風にならしてあるのだけど、びっくりするほど昔使われていた田舎言葉が再現されている。よく調べたな……というくらい。

 次に田右衛門だが、もともとは田舎侍だったのだと思うが、しかし武士としての躾として「侍言葉」を身につけたようだ。
 実際には侍言葉と田舎言葉はまるっきりの別モノで、対話していても半分もコミュニケーションが取れなかった……というが、そこまでリアルにやってしまうと面倒なので、ここは嘘をついて対話可能ということにしている。

 3つ目がフォロモス教の布教のためにヤナトにやってきたというミルテの言葉。故郷はベンタニアという名前の国だけど……たぶんオランダだろう。ミルテは時々母国の言葉を使うが、翻訳機に放り込むとオランダ語と表示される(ただし、言葉によっては英語やドイツ語も出てくる)。
 日本語に不慣れな外国人が喋りそうな言葉……が3つ目に出てくる言語。

 最後のもう1つはサクナヒメだが、サクナヒメに限ってはかなり漫画的。一応、この時代の宮廷言葉っぽい雰囲気だが、言葉自体はデタラメ。そもそもサクナヒメは存在がかなりデタラメなので、言葉遣いもあえてデタラメ。リアルな武士言葉、田舎言葉がいるキャラクターの横で、デタラメな喋り方をするキャラクターがいる……というところでバランスを取っている。

 と、このようにキャラクターデザインにだいぶ嘘をついている。嘘を描くと、そのぶんどこかにリアリティを置かねばバランスが取れなくなる。この作品の場合、見た目、つまりビジュアル面ではなく、それぞれのキャラクターが使う言葉。言葉の中にリアリティを持ってきている。
 脚本を書くのは大変だっただろう。キャラクターが台詞を喋るたびに、言葉遣いの正しさを参照しなければならない。これは手間のかかる作業だったはずだ。
 昔の日本には様々な言葉があった。現代でも「標準語」と「方言」があるけれども、昔の方言はもっと強烈だった(太平洋戦争の時は方言がそのまま暗号に使われていた……という伝説があるくらい)。江戸の町の中でも「下町言葉」と「上方言葉」があって、この2つの言語は話しても微妙に意思の疎通ができないくらいに違っていたという。
 ただ意思疎通ができないくらい言葉が違う……ということにすると物語が成立しないので、そこは嘘をついて意思疎通ができるようになっている。その程度の嘘はあるけど、気にならない範囲だ。

 もちろん本作における「異様なディテール」といえば稲作。やはり「見た目」とは別のところでリアリティを持ってきている。こういうところで「とことん見た目重視」の西洋エンタメとの差異が現れてきている。

 ところでさっきからずっと食事シーンの画像ばかりが出てくるが、実際に食事中の対話が非常に多い。結局何パターンあったんだろうか……というほどに「食事中対話」が用意されている。
 「食べること」は本作におけるもう一つの肝。食材を作ったら当然、次に大事なことといえば食事。稲作という食材を作る場面をあんなに丁寧に作り込んでいるのに、食べるシーンがなかったらどこか車輪が片側しか付いていない……という印象になってしまう。作り手もそこを察したのか、食事シーンの対話が異様な数で用意されることになった。普通にゲームを遊んでいたら、ストーリーの終盤まで何かしらの対話がずーっとある……というくらいだ。
 メニューも異様なこだわりで、上の画像を見てもらいたい。「玉子焼き」だけで数パターンある。「玉子焼き(砂糖)」「玉子焼き(塩)」「玉子焼き(醤油)」「玉子焼き(出汁)」の4種類だ。玉子焼き1つでこれだけ用意されている。

 私が個人的に思っていることの1つに、「食べること」というのは作ることも含む……と考えている。
 とある海外のドキュメンタリーを見ていたのだが、そのレストランのオーナーは自分から地元の農家を尋ねていき、挽き立ての小麦を自ら触って「お、今年の小麦はいい調子だな」とか言ったりする。
 そんな具合で、レストランに出てくる料理はすべて地元の農家。徹底して地元主義を通している。ドキュメンタリーになるくらい評判のレストランなのだが、地元主義ゆえにチェーン店は1店もなし。
 私はこのドキュメンタリーに感心して、「食べることの全体性」ってそういうことだよな、と感じた。
 というのも、現代人は食べ物のほとんどどこかからか「買う」ようにしている。食材を買うにしてもどこかから買う。ある程度小金持ちになってくると、「ブランド」を気にするようにする。フランス産とかイタリア産とか……行ったことはないし、実はそれそのものの品質が良いかどうかなんて何もわからないけど、とにかく箔のつくブランドを中心に見ている。
(フランスの○○地方なんでどこかわからないし、そこがどんな環境かわからないし、そういったもので作られたものが本当に美味いのかどうかもわからない。でもそれがいかにも凄いもののように「フランス○○地方産」とでーんとアピールする。私は「だから?」という目で見ている)
 食材ばかりではなく、食べ物そのものをお金で買ってしまう。最終的に調理されたものをただ食べているだけ……確かに食べるという行為をやっているけど、その「全体像」は見えてこない。その末端をやっただけ。それはもはや「口に入れただけ」ではないか。
 食べるという行為の全体像は、その生産の場から最終的に調理される全プロセスのことではないのか。
 ……というのは言い過ぎだけど。でもそういう意味で、現代人は食べるという行為をずいぶん中途半端にやってしまっているな……という気がする。最終的に調理されたものをただ口に入れただけで、それでなんの良し悪しがわかるんだ……と思っている。

 それで『天穂のサクナヒメ』の良いところは、食材を作るところから丁寧に丁寧に積み上げて、最終的に食べるところまでゲームで表現している。キャラクターたちが食べる所作をちゃんとやるし、食事シーンの対話はめちゃくちゃな数で用意されている。
 さらにその後は排泄……もちろんそんなシーンはないが、排泄されたものを肥料として畑に撒く……というところまでやる。
 ただ稲作を丁寧にやりました……というだけではなく、最後まで完結させている。つまり「食べる」こと。食べるシーンを描き込むことで「稲作」というコンセプトが完成している。

 リアリティの在り方――という話をするとドラマの組み立て方もちょっと面白いことをしている。
 例えばシリアスな語りに入ると……なぜかギャグが入ってくる。この場面はココロワヒメが涙ながらに語っているシーンだが、その後ろでだんだん火の手が広がって……。
 こういうところは作り手の個性だとは思うが、これがちょうどいいバランス感覚になっている。このキャラクターの顔でシリアスなドラマを作ると重すぎる。ほどよく軽やかであったほうが良い。たぶん、そういうところは計算尽くではなく、もともとそういう作り手の個性だったのだと思うが、これがうまくハマっている。ほどよく笑いが入ることで、ドラマとして盛り上がりすぎなくなっている。

 その一方で、ドラマとして決めるときは決める。普段は「笑い」を横に置くから、ある瞬間、笑いを挟まずドラマを作ったとき、それがキャラクターにとって「真実」を語っているという気にさせてくれる。そういう瞬間だからこそ、真実としての重さが伝わってくる。
 なにごともバランスだが――それが非常にうまく行っている作品だ。

サクナヒメを構築する世界観 なにがヒントになっているのか?

 ここで少し世界観の背景にあるものを細かく見ていくとしよう。

 1年目の冬に必ず出てくるメニュー、「テクサリ団子」。
 テクサリ団子の詳細は不明だけど、台詞で「某の故郷では彼岸花と呼んでおりました」とある。ということは彼岸花から作った団子……ということだろう。
 しかし彼岸花は猛毒……とあるアニメが切っ掛けで知られるようになったが、事実ヤバいくらいの猛毒で、それゆえに「害獣対策」として田んぼの近くによく植える習慣があった。彼岸花がモグラやネズミの駆除をやってくれたわけである。
 この彼岸花を食べなければいけない……というのはよほどの時で、作物が実らなかった時は救荒食となっていた。
 現代でも田んぼの周囲では彼岸花が咲いている様子をよく見かける。本作でも収獲時になると彼岸花がぽつぽつと咲く様子を見ることができる。
 ではどうやって毒を抜くのか……というと「水さらし」。球根を叩き、砕き、すりつぶして水にさらす。これはかなり丁寧にやらないと、口に入れた途端、血を吐いて死んでしまう。それくらい危険な食材だから、普段は食べないし、食べるときには慎重に毒抜きされた。あくまでも「緊急時」の食べ物であった。

 御柱都を統治する偉大なるカムヒツキ様。
 最初にこのお方をお目にかかったとき、足元が「茎」みたいだなぁ……、という気がしていた。

「ヤナトの主神であるカムヒツキ様は、なんとこの2つの世を作られた創世樹そのものであらせられる。その御身は創世樹の枝先から直に繋がっておられ、すべての神の祖となったのじゃ」
 ということで、どうやら「茎みたいだな」ではなく、「本当に茎」だったのだ。人間ではなく、巨大な樹木が神として顕現した姿だから、あのように巨大……というわけだ。
 これは神話物語のビジュアル化として正しい。現代人は神話時代の物語を「人間の物語」に置き換えて、そこで現実的に捉えようとするが、どうやらかつて神々と呼ばれた者達、というのは生身の人間ではなく、「物」であったり「現象」であったり、あるいは「概念」そのもののことを指していたらしい。台風や火山も神様と呼んでいたもののことで、その神に対する接し方も現代と異なっていた。
 現代人は「神」といえば無条件に崇めるもの……と考えがちだが、昔はぜんぜんそんなことはなかった。神を軽んじることもあったし、その神とよばれた物を破壊しようという人もいた。というか、破壊可能なものだったら神と呼ばれているものでも平気で破壊した。
 アイヌ民族では熊は神であるが、一流の狩人になるために、腕試しとして熊と戦って殺したりもした。その後、熊の皮を祭壇に捧げ、うやうやしく魂を送る……という不思議な習慣があった。神様だから何でもありがたがる……ではなく、神様だからこそ殺す……という文化もあった。
 で、本作の場合、神々と呼ばれる人たちは教祖様とか現人神とかいう人間ではなく、すべて何かしらの物や現象を擬人化して表現されたものだった。

 ゲーム終盤、主人公達が拠点にしている峠に神々が招待される場面があるのだが……見ていると「物」にしか見えない神もいる。というか、まともに人間っぽい姿をしている神のほうが少ない。
 これが日本における本来の神様像。こういう風景を見て、「あ、正しいわ」と納得の描写だ。
 そもそもサクナヒメも見た目がぜんぜん神様っぽくないし、キンタなんてサクナヒメをぜんぜん神様扱いしない。ミルテはフォロモス教の信徒なので、いくらサクナヒメが神様だといっても、「自分たちの神様じゃない」といってそこまで尊重しない。元来神様ってそういうものなんだ。現代は一神教の概念が入ってきて、それがあまりにも世の中的に広まってしまったが、元来「カミ」と呼ばれていたものは、そういうものではない。もっと身近な存在だった。

「先代カムヒツキ様の、突然のご崩御じゃ」
 神様なのに死ぬんかーい!
 ……と思った人もいるだろうが、神様は本来死ぬ。それこそ、神によっては毎晩のごとく死んで、翌朝には復活してくる神様もいるくらい。
 カムヒツキ様が巨大な「樹木」そのものであるならば、当然いつか死ぬ。この場合「枯れる」が適切な表現だろう。しかし樹木であるから枯れた側から新しい芽が生まれる。それで永続的な存在となっている。
 「死なない神」といえばキリスト教の神くらいなもので、とある辺境の人々は「キリスト教の神は死なない」と話を聞いて、さぞ強力な神なのだろう……と思ったとか。現代はキリスト教のイメージがあまりにも強くなって「神様は偉大であるのが当たり前。神様は死なないのが当たり前」と思われているが、ぜんぜんそんなことはない。むしろキリスト教の神は宗教の中でもかなり異端だと思ったほうが良い。

 うつろい玉を手に入れるために、アブラムシが群がるとある枝先へと向かう……。ここもカムヒツキ様の一部。

 次に御柱都勢力と敵対関係にあるアシグモというキャラクターを見ていこう。彼は何者なのか?

 元ネタになったのはこれ。「土蜘蛛」である。
 土蜘蛛とはなんなのかというと、上古の日本において、大和王権に従わなかった地方の王たちのことを侮蔑を込めた表現として「土蜘蛛」と呼んでいた。
 関西に拠点を置いた大和王権は地方の王たちと戦い、地方の王たちは次第に東北へと逃れていくようになった。その彼らは「土蜘蛛」と呼ばれ、やがて「土蜘蛛」というモンスターとして物語の中で描かれるようになっていく。

 有名な作品で例を挙げると『もののけ姫』。主人公アシタカは蝦夷の民と呼ばれている。彼の祖先はかつて朝廷と戦い、敗北したために東北へと逃れ、その後このように隠れるような暮らしを営むことになった。
 そこに恐るべきタタリ神が襲撃してくるが、このタタリ神こそまさに「土蜘蛛」と呼ぶべき姿をしている。土蜘蛛と呼ばれたとある民族が、本物の土蜘蛛と戦う……という不思議な光景を『もののけ姫』は描いている。そこで、この場面は地方で起きていたかも知れない戦争の暗喩……ということがわかる。
 ここから『天穂のサクナヒメ』でアシグモたちがなぜカムヒツキ勢力に憎まれ、対立しているのか理由が見えてくる。アシグモ達はある時期までは「頂の世」にたくさんいて、ある程度の自治権を持って暮らしていたが、やがてカムヒツキ勢力が迫ってきて、追い払われたのだ。

 といっても、「アシグモ=土蜘蛛」ではなく、「グモ」という語感のみを拾って、オリジナルのキャラクターを作り上げている。
「『葦隠(アシグモ)』族という名もまた然り。都より差し向けられた手勢を葦に隠れながら迎え撃ったことから付けられた名に過ぎませぬ。タケリビ様がそのように呼び続けたために、当人達も自称するようになりましたが…」
 と作中では語られている。

 作中に、アシグモの眷属と思われる敵を倒すと、時々「狢(ムジナ)の葉」というアイテムを落としていく。狢が指し示すものには「アナグマ」「ハクビシン」「タヌキ」がある。どうも昔はこのあたりの獣をまとめて「狢」と呼んでいたようである。この辺りの獣は「化ける」能力を持っていたとされて、物語の中でよく人を騙してイタズラしていたようである。
 この中でアシグモとシルエットがもっとも近いのはハクビシンだろう。ハクビシンは昔、「変化」の能力で人を化かしていた……その伝承からイメージを膨らませて、土蜘蛛の伝承と合体させて生まれたものがアシグモであろう。
 ただ昔からあった伝承を拾って作っただけではなく、オリジナルで神話を展開している。きちんとした創造性を持った作品だということがわかってくる。

 謎めいているのがサクナヒメの母上であられるトヨハナ様。
 どうやら元々は人間、それも生け贄として捧げられていた女ようだ。しかし死の恐怖に耐えかねて逃亡し、その後なぜか「羽衣」を手に入れて、頂の世へと渡った。頂の世に出現したとき、「家」も一緒に……だったという。
 「羽衣」の元ネタになっているのは「羽衣伝説」だ。天女と羽衣伝説は日本各地に点在し語り継がれている物語で、民俗学者にも発祥がどこなのかさえわからない。羽衣伝説は日本だけではなく中国、朝鮮、ベトナム、インドネシア……とアジア一帯に伝承が広がっている。私は以前、アイルランドの民話について調べていたが、その時に羽衣伝説とほぼ同一のあらすじの民話を発見した。ただし、アイルランドでは「人魚の毛皮」であったが。それくらいに広範囲で語られている伝承であるが、起源は謎……という不思議な物語である。

 次に宿敵「大龍(オオミズチ)」とは何者か。台詞にはこうある。
「さて…大龍(オオミズチ)とはそもそも何ぞや。それは麓の世の「水害」を由来とする悪神である。これを鎮めるため、人の子らは毎年人柱を捧げておったそうじゃが…。ある年、人柱にされたはずの娘があろうことか、頂の世まで逃げてしまったのじゃ」
 その時の生け贄がトヨハナ様だった。
 ところがオオミズチは頂の世までトヨハナを追いかけてきてしまった。
 しかしおそらくオオミズチは現界にいたとき、ただの「水害」だっただろうと推測される。日本の神々とは、すでに書いたように「物」であったり「自然現象」であったり「概念」であることのほうが多かった。オオミズチも元々はただの「自然現象」だったのだろう。
 ところがトヨハナ様を追いかけて頂の世までやってきた。頂の世はあらゆるものが「神」になる世界である。人間界ではただの「物」だったり「自然現象」であったものが神になる。だからトヨハナ様も神になったし、田右衛門やきんたも神になっていった。
(ただし、「頂の世に行くことができれば」……という話。普通の人はそもそも頂の世を見付けることすらできない)
 それでどうしてオオミズチはトヨハナを追いかけてきたのか……それはトヨハナの宿命であったからだ。『ピーターパンの冒険』におけるフック船長は時計を飲み込んだワニに狙われ続けているが、時を刻むワニはいつかやってくる「死」の象徴だ。「ネバーランド」つまり永遠の国のなかにあって、フック船長は唯一死すべき者。その死から逃れ続けているから、時を刻むワニに狙われ続ける……という構図だった。
 それと同じようにトヨハナはいつか生け贄にならねばならぬ……その宿命を背負っている。ある意味、オオミズチがトヨハナを追いかけてきたのではなく、トヨハナがオオミズチを引き寄せたのだ……ともいえる。

 そのオオミズチははっきりいえばただの水害をもたらす存在……しかし頂の世へとやってきたことによって、別の何者かに変化したように感じられる。これはどういうことなのか?
 ヒントになるのが石丸。
 石丸の背景ストーリーについては本編中に深く掘り下げられない。ただ断片的に、どうにもならない理不尽に遭遇して、世間に対しどうしようもない恨みと憎しみを抱えてしまった男。自身が抱えた恨みや憎しみといったものを、自分でもどうしていいかわからなくなってしまった男。今風に言うと「無敵の人」だ。

「その性、邪にして悪に堕ちたる神を「鬼」とすれば…」
 生身の人間が頂の世へ到達すると、人間ならざる者となる……。善なる者は神となるが、それ以外は「鬼」となる。
 猛烈な怒りと恨みを抱えた石丸は「鬼」となっていった。

 この作品の中でもう一つ語られているテーマが「赦し」。
 ゲーム中に出てくる「鬼」たちはそれなりの知性を持っているが、理性や人情といった感性が一切ない。ただひたすらに怒りと恨みを抱えて、神にまつわる者を襲いかかってくる。
 ところがその鬼に赦しを与えると――実は怒りや恨みが解除されると鬼はただの動物に戻っていく。

 そんな石丸と対極にいる存在が田右衛門だ。
 田右衛門は武士でありながら人を斬ることができない。それどころか奴隷として売られようとしていたきんたやゆいやミルテを救い出して逃亡してしまう。しかし実は戦いになると、結構な腕前を持っている。実力はあるけど、人を殺すことができない……というのが田右衛門だ。
 本来、武士というものは非情でなければならない。なぜなら人を殺さねばならないから。武士としての精神教育は苛烈で、子供の頃から近くで戦があったら連れて行かれるし、処刑場に死体を見に連れて行かれたりもする。
 人間は本能的に死を忌避する。しかし武士となるとその死と向き合わなくてはならない。そういう人間になるためには、頭のネジを1本外しておかねばならない。
 それが戦乱の世になると、頭のネジは1本どころか10本くらい抜けていく。みんなおかしくなっていく。侍は気の触れた殺人マシーンになっていく。
 そういう時代の中で、田右衛門は「人を殺せない武士」となってしまう。田右衛門は人の死が怖いわけではない。この場面では石丸を押し倒している。力があるだけではなく、体術はしっかり身についている。ただ人間としての「情け」を消すことができなかったから、躊躇ってしまうのだ。

 頂の世は人間が神となる世界……。言い方を変えると、「人ならざる何か」になる世界でもある。恨みを背負った獣は鬼となるし、恨みを抱いたまま死んだ魂も鬼となる。猛烈な恨みを抱えた石丸は頂の世では鬼となってしまう。
 だがその狂気も最後には赦しによって解放され――。
 猛烈な怒りと恨みに対しては赦しが与えられなければならない。それがこの作品の裏で語られていたメッセージだ。

 そういうテーマだったとして見ると、気付くのがミルテというキャラクターの存在。フォロモス教とは「キリスト教」のことだが、キリスト教の大テーマといえば「罪と赦」。人間は罪深い存在だが、その罪に対し赦しを与えられるか……。「告解」とは罪人の告白を聞き、赦しを与えることである。  鬼たちの赦しが与えられる場面でミルテは登場してこないのだけど、フォロモス教信者を出してくるところで「赦し」というテーマに繋げよう……という意図があったのかも知れない。

 さてオオミズチを撃破したとき、「麓の世の怨嗟が」うんたらかんたら……と語り始める(ネタバレ防止のため、曖昧に表現している)。オオミズチがただの水害のシンボルから「大災害」のシンボルへと変化したのは、現界の怒りと恨みを吸い上げてしまったから。現界で何が起きていたのかというと戦国時代。理不尽に人が死に、誰かが誰かに対し猛烈な怒りを恨みを抱えて、なにもできないでいた時代だ。誰も信頼できない、誰も愛せない、誰からも赦しが得られない……。オオミズチは頂の世へやってきたことによって、現界で噴きあがる怒りや恨みを浴びて、大災害のシンボルへと変わっていった。オオミズチは「戦国時代」という時代の象徴へと変化していくことになった。

 それを討ち滅ぼし、封印するまでがこの物語の終着点であった。

 最後にこいつ。こいつは何だったのか?
(後半のネタバレなので、どういったシーンかあえて特定できないようにしておく)
 元ネタはこちら↓

 享和3(1803)年、常陸国に不思議な舟が迷い込んで来た。舟はこのようにお椀型で、ガラスの窓がついていたとされる。中に乗っていたのは20歳前後の女性だと思われるが、身長150センチ、赤毛で、肌は淡いピンク色、ビロード生地の一部が黄金に輝く不思議な腰巻きをまとっていた。
 滝沢馬琴が江戸の文人や好事家の集まりである「兎園会」でこの話を聞き、『兎園小説』の中で紹介している。その中に、当時の漁師達の細かな聞き取り調査による資料が載せられていたそうだ。謎めいた船は「虚舟」と名付けられる。
 この話を聞いて、「江戸時代の日本にUFOが!!」とUFO研究者達が興奮したが、いや、海難事故にあって遭難していた人でしょう。風貌に関する記録を見ると、どうやら日本人ではないらしい。いったいどこの国から流れ着いた人なのかわからない。
 もっと詳しく知りたい話だが、当時の日本は鎖国時代で、異国の人と交流すると斬首刑であった。そこで仕方なく、漁師達はこの遭難者を元の舟に乗せて、海に送り返してしまったそうだ。
 その後の記録がないから、海の藻屑となったのだろう……かわいそうに。

 本作に出てくる謎の何者かは、「虚舟=UFO説」を採用している。ただし「UFO=宇宙人」ではなく、かなり不思議な存在として描かれている。これが物語中のとある「謎」について解明してくれる存在になっている。それでやや不思議な光景が作られているが……しかし実際には江戸時代に目撃されたお話しが元ネタになっている。決して突飛な空想だけで作られたシーンではなく、ちゃんと元ネタがある。
 それにしても、「虚舟」なんてよく見付けてきたなぁ……。私は、たまたま『月刊ムー』を読んでたから知ってたけど。

終わりに

 長くなったが、感想文はここでおしまい。『サクナヒメ』の何が良かったか……というと稲作×アクションゲームという奇抜な組み合わせに、誰もが納得できる物語が導入されたこと。その物語の中で何が描かれたかというと、サクナヒメの成長

 物語の冒頭。御柱都を離れるとき、(見た目通り)子供そのもののようなダダをこねるサクナヒメ(かわいい)。

 物語の後半、サクナヒメは再び御柱都へとやってくるが、気になるのは日恵に残していった田右衛門達や田んぼのこと……。
 誰かを案じ、責任を持つようになっていく。

 そして最後には自身の宿命との対決……で物語が完結する。ごく普通の成長の物語が中心になっている。
 稲作×アクションゲーム……というただ奇抜さに走っただけではなく、その奇抜さをまとめるだけの骨のある物語が背景にある。だからこそこの奇抜さが情緒を持った物語として受け止められる。
 その世界観構築も良い。ただの和風ファンタジーはいくらでもある。しかし『天穂のサクナヒメ』の良いところは「なんとなく和風」ではなく、その背景に何があるか――そこを掘り起こしたうえで、独自の世界観として再構築している。世界観構築のための手間を惜しんでいない。きちんとした「骨」が入っているファンタジーだ。

 私はすでにラスボスを撃破して物語を完結まで進めたのだけど……実はまだこのゲームを続けている。クリア後ダンジョンである「天返宮」の攻略がまだ残っているからだ。
 ゲームクリア後は最大レベル値のキャップも外れたので、さらなる稲作の改良を進めることができる。このゲームにはまだまだ奥行きがある。
 こんなふうに2ヶ月ほど遊んでいるが……インディーズゲームとは思えないくらいのボリュームだ。普通に大手ゲームメーカーが作った物よりも遊び込める内容になっている(いっそこのゲーム以下のボリュームしかない大手のゲームってなんだ?)
 ゲームとしてのボリューム感が大きいだけではなく、さらに物語としての奥行きもしっかりある。インディーズの中の傑作ゲームであることは間違いない。私としても、今まで遊んだインディーズゲームの中でもベストな1本。世界100万本達成も納得の作品だ。
 大手ゲームメーカーの作ったゲームより長く、深く遊び込めるので、そういう意味である種の「革命」が起きたゲームだといえる。「革命」というのは旧体制を崩壊させることなので、インディーズが大手のゲームを確実に越えた……それが確認されたゲームであるから革命であるといえる。

 ただ小さな引っ掛かりどころもある作品で……。例えば犬や猫をこんなふうに触ることができるのだが、キャンセルをするといきなりパッと離れる。犬や猫もパッと素に戻る。ここにはワンクッション欲しかった。
 他にもアクションパートで、進行方向を入れて攻撃をすると、連続攻撃に繋がらない。しかし人間の生理として、前へ進んでいって敵に遭遇したら、前方向を押しながら攻撃ボタンを押すもの。そうすると連続攻撃ができない。
 わかりづらいところも多い。例えば「秘薬」。秘薬はステータスの永続アップ効果のある食事なのだけど……私がそのことに気付いたのはごく最近。だって、ゲーム中に「永続アップ」とは書かれてないんだもの……。
 ゲームを進めていきやがて敵が強くなってくると「レベル上げ」ということになるが、このゲームにおけるレベル上げは「稲作」。次の収獲がくるまでレベルが上がらない。その時がくるまで、えんえんステージを周回してアイテム蒐集……というととになる。ここでゲームの展開がややもたつく。そういうゲームだから仕方ない……というのはわかるが。
 こういう小さな引っ掛かりどころがたくさんあるゲーム……もちろん小さなものだから目をつむることもできるのだけど。逆に言えば、引っ掛かりどころはそういう小さなところしかない。それだけに完成されている……とも言える作品だ。


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