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4月5日 天穂のサクナヒメ わざわざ手間を掛けさせるゲーム

 『天穂のサクナヒメ』ついに購入! このゲームが発売された当時、「米作り」がネット界隈が大賑わいだった。それから一周遅れどころではないのだけど、40%引きSALEの機会にやっとこさ購入。

 で、まだこのゲームをクリアしてないのだけど……。

 途中経過として思ったのは「わざわざやらせるゲーム」ってこと。

 このゲームではお馴染みの場面である「田植え」。
 すでにプレイ済みの人たちはよーく知っていると思うけど、この「田植え」が結構面倒くさい。まずXボタンで苗を掴み、Y長押しで苗を植える。自動で手元に苗をセット……とかやってくれない。キャラクターを動かしながら、Yボタンをポンポンと押していてもダメ。長押ししなくちゃ植えてくれない。おまけにカメラワークがカチッと動いてくれず、キャラクターもまっすぐ動けないので、なかなか苗を真っ直ぐに植えることができない。

 苗を植える前に畑に水を入れなければならないが、これも「自動」でやってくれるわけではない。私は一度、畑に水を入れずに苗を植えてしまったことがある。こういうところも、プレイヤー自身でわざわざやらねばならないところ。

 稲が育ち、収穫が終わったら次は脱穀。この場面もYボタンを押して、→、←ときちんと入力しないとうまく脱穀ができない。しかもこの脱穀をやっている時間がやたらと長い。収穫したぶんすべて脱穀しなければならない。

 脱穀が終わったら「籾摺り」。操作は↑↓と入力するだけなので簡単……ただし完了させるまでやたらと長い。収穫して脱穀したぶん、すべて籾摺り……ものすごく時間が掛かる。収穫量が多ければ多いほど、時間が掛かる。

 ついでに言うと、これらの作業をやっている間、ゲーム中の時間はリアルタイムに進行していく。この農作業のためにゲームプレイ中のワンシーズンしっかり消費するように作られている。そのぶん、メインであるアクションゲームが遊べなくなる……メインをお預けにされる、ということになってしまう。

 普通のゲームデザインとしては「アウト」なこの仕組み。一般的な商業的ゲームだったら、「こんな面倒くさいことをプレイヤーにやらせるのか?」とプロデューサーに突っ込まれて、省略化されそうな仕組み。普通のゲームだったらマイナス評価されていてもおかしくない。
 でも本作の場合、この面倒くさい作業が醍醐味。面倒くさいことを承知の上でわざわざやらせている。

 こちらの画面はSFC『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』。このゲームでは仕掛けを解くとき、仕掛けとなるレバーをAボタンで掴み、次に方向キーで「引く」ということをする。これも「わざわざやらせる」行動の一つといえるのだけど、この一手間のおかげで「レバーを掴んで引っ張っている」という実感が出ている。

 こちらは『スカイリム』。こちらの作品で「仕掛けを動かすとき」はどうするのかというと、画面中央に出ているカーソルを合わせてAボタン。それだけで全ての仕掛けが作動するようになっている。
 一見すると合理的に見えるが、この仕組みの何が問題かというと、「実感に乏しい」ということ。プレイヤーが手を加えて仕掛けを動かした……という感覚がスルッと抜けてしまう。
 『スカイリム』は基本的にカーソルを合わせてAボダンですべてが作動する仕組みになっているので、うっかりボタンを押すと街の中にある物を盗んだりしてしまう。物を盗むときも、どうしても実感に乏しい。Aボタンを押してしまうと、盗んでしまうわけだから。
 こういうところは合理性を重んじる西洋人らしいゲームの仕組みともいえる。しかし合理性がいきすぎて、なにをやっても「実感が乏しい」という弱点がつきまとっていた。
(ここからわかることは、「スカイリム」のゲーム的な核は「アクションアドベンチャー」ではない……ということ。どこが核なのかというと、膨大なサブストーリー。100時間やっても遊びきれないありとあらゆるサブストーリーがあって、その世界観に入り込んでいくのが楽しい……という作り方になっている)

 『アストラルチェイン』のQTEアクション。QTEアクションのほとんどは、「ミスしたら即ゲームオーバー」というつまらない仕組みだが、中にはQTEをさせることによって、「ただ見ているだけのムービー」から「プレイヤーに物語に介入している」という実感を与えることができる。『アストラルチェイン』のQTEアクションはそういう意味でうまく作られている方。

 わざわざ操作させる……ということの意味は、その動作をプレイヤーにさせている………という実感を与えるために必要だといえる。そのゲーム中の物語に参加させることである。
 しかし、すべてのアクションにキーを割り当てて、プレイヤーに操作を要求させていると、「ただ面倒くさいだけ」のゲームができあがる。そこで大事なのは「選択と集中」。プレイヤーにその場面においてなにを体験させたいのか。なにを体験させたいのか……でそのゲームのテーマが明確になる。
 『ゼルダの伝説』では「謎解き」がゲームの核なので、仕掛けをAボタンで掴ませて引く……ということをわざわざやらせている。
 どのゲームでもそれは一緒。わざわざやらせている……というところがそのゲームの命題の部分。アイテム蒐集が必要なゲームはわざわざプレイヤー自身にアイテム蒐集をさせるし、調合や調理が必要なゲームは、わざわざその場面をやらせる。
 『天穂のサクナヒメ』も同じことで、稲作が一大テーマで、稲作がいかに手間暇かかるものなのか……それをゲーム的に疑似体験させたいから、農作業にかかわるアクションをわざわざやらせる。しかもそのパートだけ異常なほど細かい。

 『天穂のサクナヒメ』の場合、不思議なところだけど、このゲームのメインテーマは「アクションゲーム」のはず。しかしアクションシーンのほうはむしろサクッと遊べるようになっている。難しい操作はあまり必要としない。そこそこの難易度はあるけど、こちらはサクッと痛快に遊べるように作られている。
 それを考えると、サブゲームであるはずの農業パートのほうがやたらと時間と手間暇かかるようなゲームデザインとなっている。

 一見するとゲームバランスを欠いているように感じられるこのゲーム。でもこのゲームの場合、「これが良いいんじゃあないですか」というしかない設計に仕上がっている。
 というのも主人公が「米の神」。より良質の米を捧げると強くなっていく……という神だ。その米を自ら作り出す……という不思議なシチュエーションだが、とにかくもその米を自分で作り出す。しかし「良い米」を作るのは非常に大変。手間暇もかかるし、知識、技術も必要となってくる。そういう一つ一つを学びながら米を作っていく……ということになる。

 もともと日本の主食である米は、天皇家に捧げるもの……として広まったもの。米は温暖な気候の農産物なので、日本の気候と必ずしも合致しているわけではない。その天皇家ははじめは九州・宮崎県を拠点として、後に近畿に移り、稲作を広げて行った。
 そこから日本の稲作が始まるのだけど、稲作は天皇家の領地の証でもあった。だからより多くの地域で稲作が営まれることが天皇家の領地が広まっていること、より品質の良い米を作ることが天皇家の権勢の現れでもあった。
 『天穂のサクナヒメ』は戦国時代日本を題材にしたファンタジーだけど、日本の神の物語をうまく引き継ぎ、変換して作られている。ファンタジーの構築方法としては非常にうまいやり方だ。

 『天穂のサクナヒメ』の場合、サブとメインがどこかの時点で入れ替わる……ような仕組みになっている。メインであるはずのアクションがサブになり、サブであるはずの農業がメインになっていく。とにかくも農業を簡単に済ませて欲しくない。そこでプレイヤーに引っ掛かって欲しい。農作業がいかに時間と手間がかかるか……それを実感させる作り方をあえてやっている。

 これはなかなかうまくいっている仕組みといえて、このゲームをやっていると稲作に対する不思議な「思い入れ」が生まれるようになってくる。田起からはじめて、苗を植えて育てて収穫して……。このプロセスを疑似体験させることによって、稲作の苦労、育っていく稲穂に対する特別な思い入れが生まれるようになってくる。
 しかもより上質な米を作り出すことが、キャラクターの強さにも反映されるようになってくる。メインのアクションゲームをより円滑に進めるためのサブ要素だけど、むしろ気持ちは稲作のほうに移っていくようになる。より良い肥料を作るために、各エリアを回って肥料になる素材を集め回るようになったり。次第にメインとサブが逆転していく、不思議な感覚に陥ってくる。いや、キャラクターを強くするための農業なのだから、サブはサブなのだけど、そのサブがメインと同じくらい存在感を持ってしまっている。

 このゲームの秀逸なところはやっぱり、ゲーム中でやっていることがすべて一つの目的のなかに連なっていくこと。
 普通の発想だと、「稲作をメインテーマにしよう」と考えると、次に出てくるのは「シミュレーションゲーム」のはず。そういう農業シミュレーションゲーム的なものは、過去のゲームの中にもあった。農業シミュレーションというか、『シムシティ』のような街を建造するゲームの中の一要素としてあった。こうしたゲームでは世界観は現実に接地しているし、農業はゲームの中の一つとして格納されている。俯瞰から見下ろすものであって、農業にどんな苦労があるのか……という細かいプロセスを疑似体験する要素なんてどこにもなかった。「マクロ的な視点」のゲームだ。すべてが命令したとおり自動で作動する仕組み……それはやはり「西洋人らしい合理性」に基づく発想のゲームだった。
 ところが『天穂のサクナヒメ』は稲作を軸に、キャラクターが作られ、世界観が作られ、物語が作られている。一つのテーマを軸に、ゲームの世界観の全て、プレイヤーがいかに介入するのか……というところまで考えられている。そのすべての要素がピタッとうまくはまっている。こういうゲームは唯一無二。前例がない。
 というか、今の大手ゲーム会社だったら絶対に却下のアイデア。インディーズゲームでなければ成立し得ないような作品だ。農業という地味過ぎるテーマを軸にキャラクターや世界観を作りましょう……なんて企画がどこでも通るとはとても思えない。それに、実はものすごく「非合理的」な設計。普通のゲーム会社のプロデューサーだったら、「そういうのはワンボタンでサクッと結果が出るようにしましょう」と提案するところだ。なにしろあまりにも面倒くさい。それにメインはアクションゲームと認識されるはずだから、稲作はそのアクションゲームの痛快さを疎外する要素だと判断されてしまう。そういう環境じゃない場所だからこそ、こんなゲームが生まれた。

 作中の名シーンといえばここ。「田植え歌」を歌いながら、稲を植えていく場面。
 ここもわざわざやらせている場面。というのも、歌のシーンがやたらと長い。フルコーラスで歌い終わるところまでえんえんシーンを見せている。映像作品だったら「観客が退屈なのではないか」と恐れて途中でスキップするところだ。

 いろんなところでわざと引っ掛かるように作られている。しかもその引っ掛かるところがやたらと泥臭い。「そこをやらせるのか」というところばかり。でもそれをやっているからこそ、作品のテーマが強く響くようになっている。

 こういう異端のゲームはインディーズゲームだからこそ。稲作という唯一無二すぎる体験ができるゲーム。
 私はこのゲームのおかげで、稲作がどういったプロセスで行われるのか、大雑把な概要を知ることができました。

つづき


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