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映画感想 スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース

 アメリカのアニメーター達の意地!

 マイルス・スパイダーマンがニューヨークへ戻ってきた! 2018年に第91回アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞した『スパイダーマン:スパイダーバース』の続編。2023年に劇場公開された本作は、アメリカが制作したアニメーション史上最長の140分。制作費は1億ドルに対し、現在のところ6億ドルを稼ぎ出している。まだ劇場公開が終了していない国もあるはずなので、この記録はまだまだ伸びるはずだし、これからホームエンタメでも収益を伸ばしていくはずだ。
 監督は前作から交代し、ホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、シャスティン・K・トンプソンという3人体制。あまり聞き慣れない人たちなので、一人一人紹介しよう。
 ホアキン・ドス・サントスはポルトガル系アメリカ人。アニメーターであり監督。『アバター 伝説の少年アン』『スーパーマン/シャザム!:リターン・オブ・ブラックアダム』などで監督を勤めた。
 ケンプ・パワーズは脚本家。テレビシリーズ『スタートレック:ディスカバリー』の脚本を務めた後、ピクサーで『ソウルフル・ワールド』をベテランのピート・ドクターとともに共同監督を務めた。そこから前作『スパイダーバース』の監督を務め(クレジットは無し)、本作も監督を引き受けることとなった。
 ジャスティン・K・トンプソンだけ来歴に関する情報が少なく、よくわからない。前作ではプロダクションデザイナーを勤め、本作で監督に格上げになったそうだ。
 2024年アカデミー賞にもノミネートされるが、あまりにも強力すぎるライバルが出現したために受賞を逃してしまう。これについては後ほど深掘りしよう。
 前作の戦いから1年……成長したはずのスパイダーマンがいまだに抱えている葛藤とは何か? ヒーローゆえの宿命と孤独に“スポット”を当てた作品となっている。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 今回は説明のやり方を変えよう。ぜんぜん違う感じに。
 あたしはグウェン・ステイシー。放射性の蜘蛛にかまれて、スパイダーウーマンになった。ずっと一人きりのスパイダーウーマンだった。
 でも違った。違う世界で、私と同じようにスパイダーマンをやっている少年と会った。それがマイルス・モラレス。
 仲間だ。初めての仲間。でも別れなくちゃいけなかった。違う世界だから。会うはずのない彼と私。
 ずっとバンドに入りたかった。仲間が欲しかった。でも私に合うバンドは見つからなかった。スパイダーやっていると、最後にはソロ活動になる。
 マイルスに会う前にはピーターがいた。ピーター・パーカー。一番の友達。一緒に育った。
 でもある時、トカゲ男が現れた。鮮やかに倒してやったけど――正体はピーター・パーカーだった。
「特別になりたくて……君みたいに。グウェン」
 ピーターはそう言って、空を渡った。
 あれからずっと友達ができなかった。彼――マイルスに会うまでは。でもマイルスもいない。あいつのいる世界には行けない。
 事件だ。美術館にでっかい翼を持ったイカレたじいさんが現れたって。スパイダーウーマンの出番だ。
 私は美術館に行き、イカレたじいさん=バルチャーと戦った。バルチャーもこの時代のやつじゃなかった。15世紀? タイムリープだ。イカしてるね。でも、あっちの世界に帰ってもらうよ。
 そんな戦いに、変な奴が現れた。ミゲルって……スパイダーマン? 別の次元から来たって。わーお……驚かないよ。
 おっともう一人来た。またスパイダーウーマン……こっちはかっこいい。この人の養子になりたい。
 3人のスパイダーマンでどうにかバルチャーをやっつけたけれど……最悪だ。警察に追い詰められた。ただの警官だったら良いけど……パパだ。
 私はマスクを脱いで、正体を明かした。パパ、私だよ。なんで言えなかったかわかるでしょ。
 でもパパは……私の味方になってくれなかった。もうこの世界にいられない。二人のスパイダーマンと一緒に行くよ。あっちの世界に。もうこの世界には戻らない。


 はい、ここまでで前半20分。まだ本編に入る前のプロローグだけど、長い! この後、やっとマイルス・モラレスの物語がはじまる。本編が始まる前に、短編アニメを1本見終えた……みたいな気分になってしまう。
 ただその短編アニメが極上のクオリティ。とりあえず、画を見てみよう。

 オープニングシーンの一つ。グウェンがドラムを叩いている瞬間。見ての通り水彩画のように作られているけど、恐ろしいことに3D。イメージボードではなく、これが本編。この絵のまんまのものが3DCGで動く……というトンデモない表現をやっている。
 本作『アクロス・スパイダーマン』の大テーマはこれ。今までアートアニメでしか作れなかった表現を、いかにシステム化して商業アニメの中で描けるか。

 背景は意図的にぼかしたり滲ませたり。周りにいる人物も水彩画のようにぼやけている。メインとなっているキャラクターにも、もちろん滲みが出ている。これも実は3Dで、この絵のまんま3Dで動く。今までいろんなアニメを見ていたけれど、椅子から飛び上がるくらいに驚いた。凄い作品だ。

 アニメは大雑把にいって、商業アニメとアートアニメに分けられる。商業アニメは予算が決められていて、大人数で、効率よく作らねばならない。だからシステマチックに制作現場が構築されるし、最終的に作られる画面もシステム上“仕方なく出てきた画面”でしかない。
 一方、アートアニメは個人の采配で好きなように作れる。好きなようにイメージを作り出すことができるが、ただしその画面イメージを大人数で共有しづらい。そういった作品にはなかなか予算が付きづらい。作り手の腕前が良ければ極上の作品ができるけれども、なかなか商業的に成功しづらい。
 『アクロス・スパイダーマン』はもちろん商業アニメで、内容もエンタメ一色だけど、外面はアートアニメ。今までアートアニメでしかできなかった表現を、いかに集団制作のシステムに落とし込み、再現できるか。その見事な集大成である。

 こちらの場面。街の中を歩いて行くグウェン。群衆の中、人とすれ違った瞬間、スパイダーウーマンに入れ替わり、またグウェンに入れ替わったと思ったら背景が電車に入れ替わっている。これを1カットで表現している。もちろんグウェンが孤独なスパイダーウーマンということの表現だが、それを1カットの絵画の中で表現している。

 父親との対話シーン。やはり水彩画ふうで、背景もキャラクターも色が滲んでいる。もちろんイメージボードではなく、これが3Dとなって動いて芝居もする。
 非日常の側にいるグウェンと、現実世界に留まる父親を、コントラストではなく、色彩差のみで表現されている。絵画として見ても、見事なワンシーンだ。

 父親に抱きつくグウェン。父親の温もりに触れた……という表現で、赤と青が混じった、暖色系の色がじわっと広がっている。これも従来のアニメ表現ではまずできなかったこと。

 平穏な時間は続かない。別の次元から変な奴が迷い込んできた。バルチャーはトム・ホランド主演の『スパイダーマン:ホームカミング』にも出てきたが、そいつとは違うバージョンで、グウェンのいる世界線とも別の世界から来た……という設定だから、グウェンのいる世界のバルチャーとも違う。(グウェンのいる世界線には別のバルチャーがいる?)
 15世紀ルネサンス時代から現代に迷い込んできた……という設定で、当時のペン画ふうに表現されている。こういう表現ありきで設定が作られた……というキャラクターだ。
 こういう表現を作るとしたら、1カットごとに、ではなく1フレームごとに線を書き起こさねばどうにもならない。キャラクター自体は3Dだが、貼り込んでいるテクスチャーを1フレームごとに絵を作っていったんじゃないかと……。ぜんぜん制作方法がシステム化されていない。とんでもない労作のキャラクターだ。

 グウェンが追い詰められたそこに、異次元から別のスパイダーマン:ミゲル・オハラがやってきた! 登場シーンはまた違う絵画スタイル。ここだけコンテ画ふうに作られている。やはり3Dでキャラクターが動くので、画面のスタイルごとキャラクターに貼り込むテクスチャーを変えちゃっている。どうやって作ったのか予想はできるけれども、恐ろしく手間暇かかる仕事を1カットごとにやっている。

 そのミゲル・オハラ紹介シーン。ラフで描いた勢いのある線を、そのまま仕上げまで残している……というスタイルだ。

 なんとアニメ本編でも、ラフでザッと描いた線を残しちゃってる。どうしてこんな生っぽい線を3Dで表現できたんだろう……?

 またまた別のスパイダーウーマン登場。登場シーンはやはり絵画スタイルが変わる。今度は蛍光色のあるペン画を、上からラフに載せたかのような絵になっている。

 ここがちょっと面白いカット。最初は全面が水彩画ふうに滲んでいるけれど、カメラがすーっと寄っていくと次第にキャラクターの輪郭線がくっきりしていく……というカット。実写で言うところの「ピント送り」なのだけど、それを水彩画ふうに表現されているので、カメラのピントが合うかわりに「滲んだ水彩画の絵が次第にくっきりしていく」という表現がとられている。

 バルチャーとの事件が終結して、グウェンが父親に追い詰められるシーン。部屋で父と娘と向かい合っているシーンと対比になっている。色彩構成もほぼ一緒に作られている。
 ここから連続で画面を見てみよう。

 緊張感のある真っ赤な画面。

 スパイダーウーマンの正体が娘だった! その衝撃が表現された場面。キャラクターの表情だけではなく、背景もぐちゃぐちゃに崩れて「動揺」が表現されている。

 ショックのあまり、思考停止に陥ってしまう父親。背景が冷めた青色になっている。父親は完全に思考停止してしまい、機械的に「警察官としての仕事」をこなそうとする。

 説得しようとする娘のグウェン。もう画面を見るだけで二人の距離が離れていっているのがわかる。父親なんか、もう足元描かれてないし。台詞を載せなくても、何が起きているのかわかる場面。

 父親からの信頼を失って、完全に孤独に陥ったグウェン。放っておくわけにはいかず、ミゲル・オハラもジェシカ・ドリュー(スパイダーウーマン)はグウェンを連れて行くことに。
 画面に描かれている3人は水彩画ふうに描かれているけど、ゲートがコンテ画ふうに描かれている。違う絵画技法が混在している、この作品らしい表現方法だ。

 ここまででやっと20分。この時点で、上質な短編アートアニメを見てきた……それだけの満足感があるが、まだプロローグ。本編はここから。

 はい、ここから本編ですよ。この作品における、一番ノーマルな表現が出てくるのだが(といっても前半60分まで)、それでもこの表現。アクリルガッシュふうのこってり絵の具を載せた画面が出てくるのだが、もちろん3D。めちゃくちゃに動く。

 最初のバトルシーンはコンビニ。
 コンビニ!
 ProductionIGの犬好き監督が謎の執念を燃やすコンビニだ。コンビニを描写する……ということは実写とアニメでは意味がだいぶ違ってくる。実写であれば、単にそれっぽい商品を羅列すればいい話だが、アニメはすべて絵で描かなければならない。それがやはり大変で、『イノセンス』というアニメでもコンビニでの乱闘シーンが描かれたけど、作画は死ぬほど大変だったとか……。CGアニメだったらその都度書き起こす手間は省けるものの、とにかく物が一杯! アクション描くにしては狭い! そういう制約の中、バトルシーンを描くのはめちゃくちゃ大変。大変なのに、その大変さはアニメの制作をやっている人でしか伝わらない!

 狭い! 物だらけ! 作画の手間を考えると、悪夢ような場面。

 外に飛び出してさらにバトルシーンが続く。どの絵を使おうか悩むくらい、シーンが次から次へとノンストップで遷移する。
 このバトルシーンは、基本的には日本で言うところの「付けPAN」をさらに進化させたもので、『進撃の巨人』で開拓された手法。それを徹底的に複雑にしたのがこの場面。キャラクターと一緒に風景がグリグリ動くだけではなく、スポットの能力で次々と場面が変化していく。とにかくも難易度のやたらと高いカットが次から次へと出てくる。

 少しストーリー面に触れておきましょう。マイルスの両親が学校にやってきて、三者面談なのだけど……しかしマイルスが「スパイダーマンの活動」があるために遅刻! 本人不在で面談が始まってしまう。
 先生は真っ白な紙を見せて「これが今の息子さん」と言う。要するに何にもない。真っ白。マイルスの物語はまだ始まってもいない。

 ようやくマイルスがやってきて、マイルスは自分が行きたい大学について語り始める。それを聞いて先生は「それが物語よ!」と言う。これは「先生に対して」ではなく、「観客に対して」でもある。やっとマイルスは、観客に対して自分を話し始めた。マイルスという人間がようやく見え始めた。つまり、これはマイルスが自分自身と向き合う物語だ。でもマイルスはすべてを語っていない……と指摘されてしまう。

 スポットとの戦いを終えて、スパイダーマンと父親ジェファーソンが語り合う。場所は第1作目で大事件があったあの研究施設。今でもここは復旧のめどが立たない状態になっている。マイルスにとって、この映画にとって、事件の始まりの場所。「ゼロ」の状態を示している。
 事件現場がビニールで覆われているが、「海」っぽく見せて、海を前に親子が語り合っている……というふうに見せている。ただ、どっちにしても嘘だが。

 ちょっと表現で気になったのが服の質感。妙にのっぺりしすぎている。このシーンでなくても、服の質感はのっぺりしている。服の質感をどうしようか、ということが決めきれなかったふうに見えてしまう。

 お父さんであるジェファーソンの警部昇進を祝うパーティ。

 そのパーティに遅刻してくるマイルス。両親に怒られながら、群衆の中を移動する。ハンディカムで撮影したふうに描かれた場面。実写だったらなんてことはないが、アニメでやると難易度がやたらと高い。『スカイ・クロラ』という作品でちょっと挑戦されていたが、これだけの長回しで、しかもこれだけの群衆の中を演技をしながら歩く……というのはなかなか例を見ない。

 両親と向き合っているマイルス。
 ここは背景に注目。ニューヨークのビル群が見えている。実写でやると、建物がこんなふうにニョキニョキ生えているようには見えない。アニメならではの誇張表現。注意深く見てみると、マイルスを描く時、必ずこんな感じのビル群を背にしている……ということに気付く。ニューヨークにとっての「親愛なる隣人」としての人格を見せている。もう少し後のシーンで、グウェンがニューヨークの町並みを見て「さよなら、マイルス」と言うシーンがあるので、やはりこの街そのものがマイルスにとってのホームという見立てだ。

 一方、両親を描く時はこう。建物の背が低く、空が見えている。都会の中だけど、下町っぽい風景。両親が背にしている、穏やかな「古里」がイメージされている。スパイダーマンのいる世界と対比されている。

 ベッドでふてくされて寝ていると、天井のポータルが開き、グウェンが現れる。これ、前作『スパイダバース』のラストシーン。前作と繋がる場面として描かれている。

 2人のスパイダーマンによる、要するに「デートシーン」なのだけど、やっぱり作画が大変。ありきたりなデートシーンをどう魅せるか。一瞬でも退屈させないよう、がっつり描いている。

 正位置にいるマイルスに対し、反転した場所に座っているグウェン。こう座っているのは構図としての面白さを狙って……ということもあるが、2人の立場を現している。普通の人々とは違う世界に入り込んでしまっている2人。確かにこのニューヨークにいて、「親愛なる隣人」なんて呼ばれているけど、どこか違う世界にいる。どこか孤独。

 2人で逆さまのニューヨークを眺める。この世界に2人しかいないスパイダーマン。スパイダーマンでしか座れない場所で、肩を寄せ合う。心を許せるのは、同じスパイダーマンしかいない。

 そろそろ解説も終わりだけど、ちょっとおまけ。移動シーンの背景の描き方。こういうスピード感のある場面では背景もブレた描き方をする。通常のアニメでは、「実写で撮影したようなブレ方」を描くものだけど、この作品の場合は、マーカーでザッとこすったような描き方をしている。あえて手書きっぽさを押し出した描き方。

 連続描写で見てみよう。

 蜘蛛の糸を伸ばして……

 スイング! カメラの前を横切る。背景もマーカーでこすったような画面になっている。

 飛び去っていくスパイダーマンを捕らえて、画面が止まる。

 ここまでの紹介でもまだ前半。まだ始まったばかり。この先、まだまだ面白くなる。
 注目のポイントは、妥協しているシーンが1カットもないこと。「捨てカット」がない。全編「勝負カット」。妥協したぬるいシーンなんてほとんどなく、作画難易度の高いシーンにどんどん挑戦している。全てのシーンをコマ送りで見たいくらいだ。

 こんなスパイダーマンも登場する。なんと「コラージュアニメ」ふう。やはり通常の商業アニメではできなかった表現、アートアニメ的な表現を採り入れている。こういうキャラクターを作るためには、カットごとに絵を書き起こすしかないはずだが……。

 一番のお楽しみは、やはりここかも……。

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