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映画感想 新座頭市物語 笠間の血祭り

 今回視聴作品は1973年制作『新座頭市物語 笠間の血祭り』。シリーズ26作目で、この次の作品が完結作であるが、年表を見ると16年の空白期間が生じている。『座頭市』シリーズは1962年の第1作目から今作26作目までほぼ毎年公開されていたが、今作『笠間の血祭り』を最後の休眠期に入る。
 この空白期間に何があったかというと、一つには『座頭市』のテレビシリーズが始まる。このテレビシリーズ時代に勝新太郎は主演と演出を兼ね、相当無茶なスケジュールで撮影をし続けたために心身共に消耗しきって、しばらく『座頭市』から離れてしまうようになる。その後はしばらく別のテレビドラマや映画の出演に集中。1980年にようやく完結編の『座頭市』に戻ってくることになる。
 ただ、完結編『座頭市』はAmazon Prime Videoで配信されておらず、DVDも入所困難のため、『座頭市』シリーズをこれ以上追うことができず、『座頭市』シリーズの視聴はこれが最後ということになる。

 ではあらすじを見てみよう。

座頭市26笠間の血祭り  (2)

 旅暮らしを続ける座頭市は、朽ちかけた道標に気付き、触ってみる。するとそこに、「笠間」と書かれていた。
「久しぶりだなぁ……帰ってみようかな……」
 笠間は座頭市の生まれ故郷。20年ぶりに古里に帰ってみようか。そう思い、目的を定めるのだった。

座頭市26笠間の血祭り  (9)

 笠間に辿り着くと、人々が村の入り口に待ち構えていて、座頭市の手を引いて歓迎してくれるだった。しかしどうして? 村の人々はなぜ自分の帰郷を知ることができたのだろう。どうしてこんなふうに歓迎されたのだろう。
 座頭市は村人達に案内されて、旅籠の大広間へと連れてこられる。いったいどういうことなんだろう。ああ、大変なことになってしまった。そう思いながら、座頭市は大広間の上座に座る。
 すると、大広間に人々が入ってきて「あんまさん、なにやってんだ。そんなところに座っちゃダメだ」と閉め出されてしまう。

座頭市26笠間の血祭り  (17)

 歓迎されていたのは新兵衛という人だったらしく、新兵衛は旅の途中、籠の中から座頭市の姿を見かけ、あんまにちょうど良かろうと思って村人達に呼び止めておくようにと言われていただけだった。

座頭市26笠間の血祭り  (21)

 宿の炊事場で座頭市は食事をもらう。食事をしながら、やってきた新兵衛がどういう人なのか尋ねる。
 新兵衛はこの村の出身で、以前は門前町というところで商いをやっている人の息子だった。それが江戸に出て米問屋を始め、出世して戻ってきたという。米一俵と千両箱を携えての凱旋帰郷だった。
 座頭市は話を聞いて、ピンと思い当たる。
「新ちゃん、俺のこと、覚えてねえだろうな……」

座頭市26笠間の血祭り  (23)

 宿の炊事場で座頭市は食事をもらう。食事をしながら、やってきた新兵衛がどういう人なのか尋ねる。
 新兵衛はこの村の出身で、以前は門前町というところで商いをやっている人の息子だった。それが江戸に出て米問屋を始め、出世して戻ってきたという。米一俵と千両箱を携えての凱旋帰郷だった。
 座頭市は話を聞いて、ピンと思い当たる。
「新ちゃん、俺のこと、覚えてねえだろうな……」

座頭市26笠間の血祭り  (29)

 翌日、座頭市は宿を離れて、川田を目指す。昔よく歩いた道に入る。確かこのへんに地蔵が……しかし探ってみても地蔵がない。
 地蔵を探していると、「何か落としたんですか」と女が話しかけてきた。
 女と一緒にその辺りを探り、倒れて藪の中に紛れていた地蔵を見付け、元通りに起こす。
「どうしてここに、お地蔵さんがあることを知っていたんですか?」
「へえ、子供の頃、よくこの辺で遊んだものですから」
「じゃああんまさんは……市さん?」
 「おみよ」と名乗る女は、座頭市のことはおしげおばちゃんから聞いていた、自分もおしげおばちゃんのお乳で育ったと語る。しかしおしげおばちゃんは5年前に他界していた。

座頭市26笠間の血祭り  (34)

 おしげおばちゃんへの墓参りを済ませて、20年前に住んでいた家へ行く。そこはもう廃墟になっていて、流れ着いた悪童達も廃墟に入ってくるのだった。

 ここまでが前半30分。
 古里に戻ってくるが、何か様子がおかしい。偶然、昔よく遊んでいた新兵衛と会うことができたのだが、子供時代のことは何も覚えていないという。古里に自分を覚えている者が誰もおらず、座頭市は一人取り残されたような気分になる。
 しかし川田にやってくると、おしげおばちゃんを知っているというおみよが登場する。その場面、道に倒れた地蔵を起こすというシチュエーションは、「古里の記憶」を取り戻そうとする暗喩的な行動になっていて、そこにおみよが登場するという仕掛けを作っている。

座頭市26笠間の血祭り  (31)

 結局、座頭市を知っているのは、陶芸家の作兵衛だけ。古里の温もりはそこにほとんど残っていないのだった。
 座頭市を育てたというおしげおばちゃんも既にこの世を去っており、生家は不良達が占拠していて、座頭市はどうにも心休めることができないのだった。

 では次の30分を観ていきましょう。

座頭市26笠間の血祭り  (38)

 新兵衛は代官に500両の小判を差し出す。村人達は代官に対して毎年の年貢米が支払うことができず、その年貢米を支払えなかった負債が500両という大金になっていた。それを、新兵衛が立て替えたというわけだった。

座頭市26笠間の血祭り  (55)

 しかし、実は年貢米を量る箱が一斗(15㎏)のはずが一斗2升(19㎏)も入るようになっており、代官は農民に対して少し多く年貢を取っていた。代官はその多めに取った年貢米を、江戸で売って個人的に儲けるつもりだった。そこに不作が続き、農民達は飢えるし代官が要求する年貢を納めることができず、それで負債がどんどん溜まっていってしまった……というわけだった。

座頭市26笠間の血祭り  (53)

 それを、出世して凱旋した新兵衛が立て替えたわけだが、しかし新兵衛と代官はすでに裏で通じ合っていた。村人には「おとがめ金500両を立て替える」というパフォーマンスを見せて恩義を売っておいて、新兵衛の目的は村の山を所有し、開拓することだった。村の山には良質な御影石が大量に埋蔵しており、新兵衛はそれを江戸に運んで大儲けするつもりだった。

座頭市26笠間の血祭り  (56)

 村人達は間もなく裏の山で採掘が始まっていることに気付き、抗議に向かうが、人足達は村人達の抗議など関心がないし、岩五郎一家というヤクザがその場を取り仕切っていて追い出されてしまう。
 名主総代の庄兵衛は新兵衛のもとへ走り、直訴するが、新兵衛は最初からそれが目的だったし、御影石の採掘はお上から正式な許可を得てでのことで、庄兵衛にはなんの権限はない、と冷淡に告げるのだった。
 庄兵衛は騙されたことを知り、首を吊って自殺してしまう。
 一方の採石場では無理な労働が強いられ、仕事に参加した村人達に怪我人が出て、ついには死人もだす事態に陥っていた。

 ここまでが47分。新兵衛の正体が明らかになり、古里が破壊されていく様子が描かれていく。大量の死人を出し、いよいよ座頭市が動く……という展開までが描かれる。

座頭市26笠間の血祭り  (12)

 ところで映画の冒頭、「勝プロダクション」のクレジットが出てくるが、「大映」の名前が見当たらない。これはどういうことだろうか。
 大映は1971年に事実上の経営破綻した。かねてからの家庭用テレビの普及で映画が斜陽文化になっていたことに加えて、スター俳優達が映画会社を離れ、あるいはこの世を去り、後期のほんの数年であっという間に傾いていた。この時期に、五社協定にまつわる問題……俳優達を囲い込み、社長・永田雅一が気に入らない俳優達に出演させない、あるいは脇役は端役に格下げさせるなどの問題が起きていて、その問題で女優の自殺も起きていた。この問題はマスコミも報道するようになっていて、五社協定の弊害が映画界を蝕みはじめていた。しかもこの五社協定を提唱したのが、大映社長・永田雅一。大映に猛烈な逆風が吹き始めていた。
 日本映画はヒット作に恵まれず、似たようなシリーズ映画ばかりになっていて、その上にスター俳優達が映画界を去って行き、映画業界は冷え込んでいた。威勢の良いワンマン社長であった永田雅一は病気をするようになり、末期の頃、勝新太郎のもとへ「金かしてくれ……」と無心に行くこともあったそうだ。
 それが1971年にいよいよ経営破綻に至り、大映制作の映画は業界から姿を消す。大映の作品権利は現在では角川が管理運営している。そういう理由で、Amazon Prime Videoでは『座頭市』シリーズも大映時代のものは角川が管理し、「角川映画見放題プラン」で視聴できるようになっている。
 ただし、本作『笠間の血祭り』は大映映画ではないので、「角川映画見放題プラン」の対象外となっている。この辺りの事情はどうにもややこしい。

座頭市26笠間の血祭り  (8)

 1973年制作の『笠間の血祭り』はすでに親元大映から離れて、勝プロダクション単独の制作となっている。
 私は飛ばし飛ばしで観ているので、その間の作品にどんなグラデーションがあるのか確認していないが、『笠間の血祭り』を観てまず気になったのが、カメラが平坦さ。大映時代はもっと奥行き感のある撮り方をしていたはずだけど、『笠間の血祭り』は俳優と背景に組み合わせがひどく単調だし、のっぺりしている。セットの作り込みも弱いというか、ほとんどロケ撮影。あまり映画らしい構図になっていない。なんとなくテレビ映画みたいな画ばかりが出てくる。昔の作品よりも、安っぽくなっている。
 もしかしたら予算の問題もあるのかも知れないが、日本映画が全盛期だった頃の練度は、もう『笠間の血祭り』の時代には喪われてしまっていたのかも知れない。

座頭市26笠間の血祭り  (25)

 今回のお話は、座頭市自身のルーツに遡っていく。古里に戻るが、しかしそこに座頭市を知る人達がほとんどおらず、古里らしい温もりが得られないどころか、その同郷人の手によって土地が徹底的に破壊されていく様子が描かれていく。座頭市らしいテーマが描かれた作品だと言える。

座頭市26笠間の血祭り  (42)

 ただ、お話の展開も単調に感じられる。座頭市の幼馴染みである新兵衛がどうして冷酷な人間になってしまったのか。その掘り下げが充分ではなく、単純な「勧善懲悪の敵」として描かれてしまっている。人物描写にも奥行きが感じられない。古里を懐かしみたい座頭市と対をなす人物というのは読み取れるし、座頭市のことを知らないという言動には、「古里に対する思い」を呼び起こさないため……といった推測もできるのだが、観る側の「読み」に期待するだけではない何かしらの示唆が作品のほうにあって欲しかった。

座頭市26笠間の血祭り  (37)

 今作のもう一つのフックとして、たまたま笠間に流れ着いてきた不良達がいる。いったいどこで産まれたかもわからない、古里を持たない不良達だ。古里を喪おうとする座頭市と、そもそも古里を持っていない不良達……という対比も読み取れる。でもこの不良達との交流があまり充分ではなく、半ばまでは賞金に目がくらんで座頭市を罠に陥れようとするが、その後、なんとなく座頭市と協力するようになる。
 その展開がわからないというわけではないけど……もう少し展開を丁寧に作って欲しかった気がする。その前段階として、もう少し不良達と交流の場面を作って欲しかった。
(例えば陶芸家の作兵衛という人物がいるから、この作兵衛のもとでしばし半強制的に働くことになり、そこからやがて共同体意識が生まれる。そこに岩五郎一家が殴り込みにやってきて、座頭市と共に怒りを爆発させる……という展開もあり得たかと)

座頭市26笠間の血祭り  (73)

 映画は前半40分と後半40分というシンプルな切り分けられ方をしていて、後半40分が怒り狂った座頭市が大立ち回りを演じる一大アクションシークエンスとなっている。
 後半40分たっぷり使っての見せ場なのだけど……。倉の中の斬り合いのシーンは、「いったい何を撮っているんだ?」というくらい何も見えない。肝心のアクションが積み上がった俵の向こう側になっていて、描かれているのはヤクザ達の悲鳴だけ。
 今作では手や足が切り落とされ、大量の血が飛び散るのだけど、構図や立ち回りの美しさがないせいで、それらの惨殺描写がどこか浮いて見えてしまう。一番重要なものを欠いているせいで、安っぽいこけおどし描写になってしまっている。

座頭市26笠間の血祭り  (70)

 シーンの作りも引っ掛かりがある。座頭市は一度沼に落とされ、全身に泥が貼り付いた状態で、新兵衛が泊まる宿を訪ね、おみよを救い出すというシーンが描かれる。
 まず、ほんの数分前に、よく似たようなシーンがあったこと。新兵衛の宿を訪ねて、警告する場面があった。おみよを救い出すという動機があったのだが、似たような絵面のシーンが繰り返されるのは感心しない。  しかもその直後、座頭市を覆っていた全身の泥が消える。まるでシャワーでも浴びたようだ。泥を全身に被った姿はそれ自体、かなり迫力があったから、そのままの姿で描いて欲しかった気がする。

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 次に斬り合いのシーン。座頭市が米俵の中に隠れるシーンがあるのだが……無理がある。こんな描写は抽象度が高いはずの漫画でも成立しない。作劇の混乱になっている。何か観客の意表を突こう、ビックリさせようといことで生み出されたシーンというのは察することはできるのだが、あれはむしろ醒めてしまう。奇をてらいすぎると没入感を妨げる要因になる。注意したい。

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 『座頭市』シリーズが終盤に近付き、日本映画の衰退も背景に見えてきて、残念な作品になっている『笠間の血祭り』。ただ取り上げているテーマは良い。座頭市を故郷へ向かわせることによってそのルーツを掘り下げ、しかし破壊されつつある故郷を前にして、座頭市が一人戦い、守るのだけど、結果として座頭市は古里にいられなくなってしまう。村人達は座頭市に感謝はするものの、深く関わったら凶状持ちの座頭市の仲間と見なされてしまうから、感謝も告げられない。座頭市はたった一人、街道から外れて、去って行く……。
 「古里」というモチーフを出してきて、それを守ることによって人々は救われ、座頭市だけが大切なものを失ってしまう……という描き方は『座頭市』らしいヒロイズムをより強調している。座頭市のヒロイズムの正体は、人を守ることで、たった一人で業を背負ってしまうこと。誰からも感謝を受け付けず、情も受けない。これまでは旅先で訪ねた見知らぬ村の見知らぬ人を守るため……だったけど、今作は座頭市の古里。ということは、座頭市の原型的な精神がそこにあるのだといえる。それを守ることで喪ってしまうという描き方は、『座頭市』らしいヒロイズムの極地だ。
 そういった作品を26作目に持ってくるあたり、この作品がいよいよ終局へ向かっていく予感を感じさせる。実際この後にテレビシリーズ『座頭市』が入り、その次が完結編劇場版。そうした終わりに向けた導線が感じられる1本だった。


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