見出し画像

映画感想 ブレット・トレイン

 この作品をご覧になるときは、シートベルトを締めて、IQを充分に下げたうえでお楽しみください。

 映画界隈で一時話題となっていた作品『ブレット・トレイン』。原作は伊坂幸太郎の小説『マリアビートル』であるが、この作品になにか妙な魔改造が施され、トンチキ映画『ブレット・トレイン』が生み出されることになる。タイトルの『ブレット・トレイン』は狭義の意味で日本の新幹線のことを指している。
 監督のデヴィッド・リーチは、2014年チャド・スタエルスキとともに『ジョン・ウィック』で監督デビュー。それ以降も『アトミック・ブロンド』、『デッドプール2』のようなアクション大作を手がける。主演はご存じブラッド・ピット。日本からは真田広之、福原かれんといった俳優が出演している。
 劇場公開は2022年。米国では初登場ランキング4位に留まった。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは338件の批評家のレビューがあるが、肯定評価は54%。オーディエンススコア76%。批評家から厳しく評価されることとなる。

 では前半のストーリーを見ていきましょう。


「引き受けてくれたのね」
 電話の女は少し機嫌良さそうだ。
「やる気満々さ。新しい俺を見てくれ。セラピストのバリーのおかげで、俺はかつてないくらい穏やかだ。世界に平和を。君にも平和を」
「あなたの職業を忘れないで、レディバグ」
「レディバグ? テントウムシ? なんで?」
 コードネーム・レディバグの名前を与えられた男は東京駅へと入っていく。いまいち冴えない風貌の男だが、殺し屋だ。彼に与えられたミッションは新幹線に乗り込み、ブリーフケースを盗み出すこと。簡単な任務だった。
 ただ、同じ新幹線には何人もの殺し屋が乗り込んでいた。
 木村雄一。息子をビルの屋上から突き落とされ、その復讐のために新幹線に乗り込んだ殺し屋だ。この新幹線に「息子を突き落とした犯人」がいると聞いて乗り込むが……木村が遭遇したのはティーエンジャーの少女だった。木村は少女の姿に油断してしまうが、彼女こそコードネーム・プリンスの名を持つ殺し屋だった。
 みかんとレモン。イギリス人殺し屋で、ブリーフケースの持ち主。「死神」と呼ばれる男からの指令で、「死神の息子」と「金」の入ったブリーフケースを取り戻す任務を請け負い、すでに達成され、新幹線に乗って引き渡しに行く最中だった。

 レディバグは殺し屋たちがひしめく新幹線の中を通り抜け、実にあっさりとブリーフケースを手に入れて、次の停車駅で下りようとする。するとそこで、謎の殺し屋にいきなり襲われてしまう。その殺し屋はコードネーム・ウルフ。レディバグに恨みを持つ殺し屋だった……。


 と、こんな感じのお話だけど……そんなに注意深く見るところもないけれど、掘り下げていきましょう。

 こちらが本作のなかで「東京」と言い張っている場所だ。この雑多な界隈をずーっと進んで行くと東京駅に辿り着く……という地理になっている。そんなバカな。

 こちらが東京駅のプラットフォーム。
 注目ポイントは屋根の構造。この後、新幹線は各駅に停車するのだが、どの駅も屋根の構造が一緒。ということは……もう察しの通り、「駅のセット」は1つしかない。

 1つしかセットは作られてないけど、その代わりに結構作り込まれている。エレベーターも作ってある。

 では車両内のセットはいくつ作られたか?
 情報を探していくと、作られたのは2両だけだという。2両だけの車両を、カメラ位置や内装を変えて、いくつも連なっているように見せかけた……というわけだ。
 窓の外はどうなっているのか? こちらは実際の東京から京都までの風景が撮影されて使われている。撮影に使われたのは「アレイカメラ」というカメラで、要するに3Dカメラ。これで撮影されると、奥と手前で距離感が表現されるようになる。
 で、列車の外に巨大なLEDウォールが設置されていて、このLEDウォールに3D映像が流れていた……というわけ。カメラ位置を変えても、背景の立体感に違和感がないのはそのため。

 ファーストクラス。内装は「ありえねー」って感じだけど、雰囲気はいい。逆にこういう内装あったらいいじゃん……って思ったくらい。

 ではどうしてこんな妙な日本の風景が創造されたのか? どうやら初期の頃はもっとリアルな背景を持ったシリアスなストーリーになる計画もあったらしい。それがいったいなにがどうなってこうなったのかはわからないが……映画が撮影されたのは2020年。コロナウイルスパンデミックが世界的に始まった頃で、どの国も厳しい渡航制限があった。個人でならば移動もある程度は可能だったが、映画撮影スタッフ全員……というのは時期的にかなり厳しかった。そういう事情もあって、スタッフは日本を訪れず、すべてロサンゼルスだけで制作することになった。
 そうした条件があったからなのか、最初から“そのつもり”だったのかはわからないが、どこかの段階で「開き直り」が起きる。日本に行けない、資料集めもできない……じゃあみんなの頭の中にある「妄想(イマジナリー)ジャパン」にしてしまおうぜ……というノリが発生することとなる。
 映画が劇場公開されたのは2022年。コロナウイルスもすこーし落ち着いた頃で、そういうタイミングだったから主演ブラット・ピットはプロモーションで来日を果たせた。

 どこを見ても妙なトンチキ日本描写だけど、ある意味、アメリカ人クリエイターたちが日本を脳内フィルターでどのように見ているか……がわかる作品でもある。
 ただ、このトンチキ描写に対し、批判もあった。アメリカの「日系アメリカ人市民同盟」のデヴィッド・イノウエは本作を「ホワイトウォッシュである」と批判する。というのも、原作『マリアビートル』の主人公は日本人。プリンスも日本人だった。
「アジア人俳優にブロックバスターの主役を委ねられないのか」
 とデヴィッド・イノウエはコメントしている。
 とはいえ――映画がそもそもトンチキ描写の日本だし、そこで主人公を日本人にするのはヘンな気がする。アメリカ人が妄想する日本が舞台だから、いっそアメリカ人を主人公にしたほうが、この作品では相応しかったように感じられる。
 日本でロケができない、映像素材を集めることすらできない。それならばとヘンテコ日本にしてしまえ……というノリの中で作られたのだから、この場合はアリじゃないかと私は考えている。
 というか、こんなヘンな映画に難しい話をしてもな……みたいなのがある。

 さて、いろいろあって一つの新幹線に10人+1人の殺し屋達が乗り込むことになるのだが……。
 映画を観ていると殺し屋達がペアを作っていることに気付く。
 主人公レディバグは電話の向こうにいるマリア・ビートルと。
 みかんとレモンのコンビ。
 プリンスは木村と行動を共にすることとなる。その木村には「長老」と呼ばれる父親がいる。
 おまけっぽいウルフとホーネット。
 終盤に入って「白い死神」も登場する。白い死神は息子サンとペアになっている。

 偶然なのか、そういうセオリーがあるのかわからないが、7月に視聴した『新感染 ファイナル・エクスプレス』とキャラクター構造が一緒なんだ。『新感染』も登場人物が10人+1人で、それぞれのキャラクター達がペアで設計されていた。
 構造は一緒だけど、映画的な作法はまったく別モノ。『新感染』は息をつく間もなく次々とミッションが展開していくのに対し、『ブレット・トレイン』はひたすら対話。クエンティ・タランティーノ的な対話シーンがえんえん(ちょっと西尾維新っぽい)。対話の中に少しずつ伏線が忍ばされる……という構造になっている。

さて、みかんとレモンは何人を殺したのか? その回想シーンの一つ。殺した人数を数え上げながら、カメラに向かって微笑んでいる。

 もう一つのポイントは、描写の極端さ。対話シーンの描き方は、どちらかといえば単調。話者のほうにカメラをポン、ポンと向けるだけ。
 それがアクションになると、バッチリと構図を決めて作られる。例えば上のシーン、殺した人数を数え上げる場面だが、カメラに向かって微笑んでいる。まるでCM撮影のようなノリ。
 構図もあえてどこかの映画で見たような……という作りになっている。例えば殺し屋ウルフの回想シーンだけど、どのカットもなにかしらのマフィア映画で見たような構図ばかり。つまり、そのシーンそのものがパロディとして作られている。パロディだけど画面の情報量はやたらと高い。1カットしか使わないようなシーンでも、背景をゴッチャゴチャと詰め込んでいる。
 こういう描き方は、黒澤明監督の『生きる』に通じる。『生きる』は映画が始まると、市役所で事務仕事をしている男の場面が描かれるが、あのシーンも実はあり得ないような描写。いくら市役所だからってあんなに書類が画面を覆い尽くすほど積み上がっている……なんてわけはない。あえてそういう極端な描写を入れることで、1カットでどういう様子か、その男がどういう男かわかるように作られている。
 『生きる』と同じように、1カット1カットが極端な情報量、わかりやすさが追求されている。本作の場合は「パロディ」としての表現として、情報量が詰め込まれている。

 日本のヤクザを説明した1ショット。もう「バカバカしい」というしかないわかりやすさ。
 そんな感じでディテールもアクションも、極端に作り込まれた画面の中で展開される。これがこの作品のコミカルな作風にもハマっている。
 この作品は別に「漫画原作の映画化」というわけではないけど、もしも原作が漫画だったとしたら、この作りだったら合格点を出せるレベル。そういう意味で作り込みがしっかりしている。

 ただ、対話が中心なのだけど、本作を字幕で見ると……これ、読める? 「車|↓も哀れむ」……こんな感じで字幕が「?」なところが結構あるんだ。
 もしも読めたとしてもいまいち文章に流れが作れていない。字幕だと会話劇のノリがうまく表現できているような感じがしない。もしも鑑賞するならば、日本語吹き替えで観たほうがいいかと……。ただ吹き替えで観ると、なぜか女性出演者だけが本職声優ではなく、タレントが起用されている。

車掌役のマシ・オカ。基本的には「すでにアメリカにいる俳優」からキャスティングされているらしい。

 こんな感じで、最初から最後までトンチキ描写の日本が楽しめる作品だ。アメリカでは「ホワイトウォッシュだ」「日本の描写が正しくない」という批判があったが、日本人はバカみたいな日本描写を逆に楽しんだようだ。むしろ日本人の方がこのバカバカしさを楽しんでいたのかも知れない。こういう外国人が思い描く「ヘンテコ日本」をファンタジーとして楽しむ度量が日本人らしさだ。
 お話しも全体を通して馬鹿馬鹿しい。新幹線に10人の殺し屋達が乗り込んできて……車内で殺し合いが始まるのだけど、全体を通して「そんなバカな」という感じ。かなり派手に設備を破壊して殴り合いをやっているのだけど、まわりの乗客はみんな無反応。ごくまれにリアクションする人がいる……という状態。おかしな描写だけど、描かれている何もかもがおかしいから、もはや気にならない。そういう状況も込みで笑って見られる作品だ。

 ただ難点なのは展開がゆっくりすぎること。対話が中心なのだけど、ちょっと長いな……と感じるところも。クエンティ・タランティーノ的な対話にしては会話自体に展開がない。というか、対話シーンになるとカメラワークが極端に単調になって、お話しが進んでいる感じがしない。
 その一方で、極端な描写は「ガイ・リッチー的」と言われるのだけど、ガイ・リッチーだともっとリズミカル……いやガイ・リッチーなら早回しにしちゃう。この作品にはこの作品ならではのリズム感があるのだけど、それでもゆっくり進みすぎているかな……。前半1時間くらいは、お話しが進んでいる実感が乏しい。どこがお話しの区切りなのか、1回目の視聴の時はよくわからなかったくらい。

 とはいえ、10人の殺し屋達が狭い新幹線のなかで交差し、ドラマを紡いでいく。展開はしっかりしているので、後半へ行くほど楽しくなっていく。主人公レディバグが殺し屋なのに「殺しを望まない」というキャラクターが面白く、殺し屋たちと向き合ってもいきなり殺伐とした展開になるのではなく、意想外に「ヘンな方向」へとお話しが進んで行く。そこでどんどん楽しくなっていく。
 そこにヘンなご都合主義もない。何もかもがヘンだけど、意外とお話しの構造自体はロジカルにガッチリ組み上げられている。風景描写にツッコミどころは一杯あるけど、お話自体にツッコミどころはあまりない……というのがこの作品の美点。そういうところで安心安全に最後まで乗車していられる。

 最初から最後までおかしな描写が繰り広げられるこの作品。これは「日本」と呼ばれるファンタジーだ。日本人が思い描く西洋“風”ファンタジーと一緒だ。アメリカ人が脳内で観ている日本はきっとあんな感じ……もしかするとアメリカ人達にとって、実際の日本よりもこの映画の中の日本の方がお馴染みなのかも知れない。
 そんな「イマジナリージャパン」の中で展開される物語もおかしい。妄想の日本の中で描かれる、妄想の殺し屋達の饗宴……。ある意味、ファンタジーとして正しい作品なのかも知れない……とか考える。


この記事が参加している募集

とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。