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読書感想文 国民のための日本建国史

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

 だいたいのことは「日本書紀」と「古事記」に書いてあった。

 日本人の祖先は朝鮮半島を渡って日本へやってきた――私たちはかなり以前からそう教わってきて、そうだと信じていた。「日韓同祖論」だ。
 しかし疑問が一つ。日本語の「こんにちわ」は韓国では「アニョハセヨ」。中国では「ニィハオ」。全く似ていない。一方の英語の「グッドモーニング」とドイツ語「グーデンモーゲン」はちょっと語感が似ている。似ている理由はごくシンプルで、5世紀ごろ、ドイツ・ゲルマン族がブリテン島に侵入し、先住民を駆逐して新たな国を作ったからだ。祖先が同じだから、言葉も似ている。
  日本と韓国、中国はどうかというと似た部分が少ない。少なすぎる。「祖先が一緒」と言われているわりには似ていなさすぎる。
 言葉だけではなく、染色体を見ても、日本人と韓国人はほとんど一致しない。全くの別人種だ。  話は一気に遡り、古代の話になるが、6万年前。アフリカを旅立ったホモ・サピエンスはシルクロードを横断し、樺太経由で日本に入ってきた。その一方で、インドネシア→沖縄経由で入ってきた一団もいた。日本人は朝鮮半島からやってきたわけではない。だから似ていないのだ。
 考古学的視点で見ると、日本の歴史は1万6000年前辺りから始まるわけだが(「中国4000年の歴史」という言葉があるが、だったら日本は「日本1万年の歴史」と言っちゃ駄目だろうか?)、韓国にはその頃、何があったのか?
 朝鮮半島には1万年前に人が住んでいた痕跡がぽつぽつとみられるが、その後、1万年前から5000年前まで無住の土地となっている。後に韓国人になる人たちは、ずいぶん後にやってきた人たち、であるのだ。

 私(ブログ主のこと)は小学生の頃、学校の授業でこんなことを学んだ。
 かつて日本は文明も文化もない劣った国だった。そこで当時先進国だった韓国・朝鮮の人たちが渡来し、日本人に様々な恩恵をもたらした。なのに戦後の日本人は愚かになり、大恩ある韓国・朝鮮からやってきた人たちを差別している。……という話を「道徳」の時間に教わった。
 全部嘘だった。韓半島に現在の韓国人がやってくる頃には、日本はすでに日本固有の文化を作っていたし、それどころか新羅の王が倭人であった頃もあった。いかなる時代でも、韓国から日本に文化がもたらされることはなかった。

 中国の史書である『山海経』には紀元1000~紀元300年までのことが書かれている。
「蓋国は鉅燕の南にあり。それは倭の北であり、また倭は燕に属している」
 これだけ読むと少し混乱するが、現代の北朝鮮にあたる場所に蓋国があり、その南、現在の韓国にあたる場所には倭人=日本人が住んでいた。この頃、まだ漢民族は来ていなかったのだ。
 また当時の記録によると、倭人の国は海の向こうにもあり、そこから人がやってくることがあった。この時代、日本から韓国へやってくる人たちは言語問題を抱えていなかったらしく、韓国の倭人と問題なくコミュニケーションが取れていた。
 中国側のどの史書を取ってみても、「日本侵略」の物語はなく、やはり日本と中国は文化的にも遺伝子的にもほぼ交雑がなかったものと見なしていいだろう。

 さて、ようやく日本史の話に入る。
 我が国最初の天皇である神武天皇の東征、即位の物語を、日本書紀は次のように書いている。

「瓊瓊杵尊は戸を押し開き、道を押し分け先払いを走らせておいでになった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政を敷き、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから百七十九万二千四百七十余年になる。
 しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設けて相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと〈東の方に良い土地があり、青い山脈が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗ってとび降ってきた者がおる〉と。その土地は大業を広め天下を治めるに良いであろう。きっとこの国の中心地だろう。その飛び降ってきたものは饒速日と云うものだろう。そこに行って都をつくるにかぎる、と。諸皇子たちも〈その通りです。私たちもそうおもうところです。速やかに実行しましょう〉と申された。」
68ページ


 天孫族が地上に降りてからは、西の地方は善政でよくなった。しかし遠い東の国ではまだ荒れ果てており、治める必要がある。という次第で、神武天皇は45歳の時、東の国ヤマトを目指して旅立った……と書かれている。

 神武天皇一行は宮崎県を出立し、途中安芸国の埃宮(えのみや)(広島県府中町あたり)に立ち寄り、次に岡山県玉野市辺りに上陸。ここで兵力の準備を整えた。
 2月10日、天皇一行は旅立ち、難波碕に向かうと、そこで速い潮流に乗れて、大変早く着いた。このことからそこを浪速国(なみはやのくに)とし、これがなまって難波と呼ぶようになった。
 3月10日、川を遡って河内国草香村(くさかむら)に到着すると、長髄彦と戦うことになる。が、苦戦を強いられ、一旦退避することになる。
 大阪湾を逃れた神武一行は、紀国竈山(かまやま)で負傷し、死亡してしまった兄・五瀬命(いつせのみこと)を葬る。次に熊野の神邑(かみむら)に上陸し、山中を進軍し、ついに勝利を得る。こうして、最初の天皇として即位することになる。

 と、ここまでが日本書紀に書かれている最初の天皇が即位するまでの歴史的な経緯だが、しかしこの物語は多くの研究者たちによって「ファンタジーに過ぎない」とされ、ほとんど重要視されることはなかった。
 なぜならば“現代”の難波碕は完全な陸地。ここを船に乗ってやってくることなど不可能だからだ。
 これはいったいどういうことなのか?

 一つの学問で読み解けない問題は、別の学問を訪ねてみるといい。「地質学」の分野ではこの辺りの地域をどう説明しているのか、見てみるとしよう。

 大阪湾周辺は古くから地形の変動が激しい場所だった。
 今から20000年前、ウルム氷期と呼ばれる時代では海水面は100メートル以上低く、大阪湾と瀬戸内海は陸地になっていて、クヌギの林が広がっていた。大阪湾地下30メートル下には、炭化したクヌギの残骸が眠っている。
 その後、徐々に海水面は上昇していき、今から6000年前は現在よりも海水面は1~2メートル高く、その頃の河内平野にはなんとクジラが泳いでいた。
 この過程で大阪湾には大量の土砂が流れ込み、やがて地盤を形成するに至った。大阪湾はその後も様々な変遷があるわけだが、私たちが注目するのは紀元1050~紀元50年ごろの「河内潟の時代」だ。この頃、上町台地から伸びる砂州は北進し、開口部は狭く縮まっている。大阪湾の干満差は2メートルと非常に大きく、上げ潮になると海水が狭まった開口部から一気に流れ込み、4~5キロ奥の大阪城のあたりまで一気に達した。逆に引き潮になると、今度は流れ込んだ海水が一気に大阪湾へ流れ出たのである。
 この頃の地形と潮の動きが、神武天皇東征の描写とピタリとハマる。年代的にここだと見て間違いないだろう。

 日本書紀と古事記が長らく研究者によって「ファンタジーに過ぎない」と一蹴されてきた理由の一つに、天皇一族の異様な長寿があった。神武天皇から継体天皇までことごとく100歳越え。こんなものはあり得ない……だからファンタジーだ、実在すら怪しいと語られてきた。
 よくある説明が、天孫族の権威付けのために寿命を長めに書いた……というものだ。「皇紀」についても、「日本にはこれだけ古い歴史があるんだ」という権威づけのために、昔の人が作った嘘だ……という。
 これを読み解くヒントが、中国の史書にあった。南朝・宋の歴史家、裴松之(はいしょうし)(372~451)が三国志に注を書き加えた本にこう書かれている。

「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」
(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫を持って年紀としている)
116ページ


 自分たちと暦の習慣が違うからといって「倭人は歳の数え方を知らない」というのはひどい言い方だが、話は簡単だった。昔の日本では、春で1年、秋で1年と数えていた。だから「÷2」をしてやればいいだけの話だった。
 すると今までの話が色々変わって見える。天皇の年齢を÷2をして西暦と重ねると、次のようになる。
 まず神武天皇が生まれたのは紀元96年。宮崎県高原町狭野で生まれ、紀元82年の7歳で皇太子となり、16歳で阿多の吾平津媛と結婚。紀元74年の23歳の頃、東征を決意した。
 日本書紀・古事記に書かれている年代を遡ってすべて整えてやると、どんな特典があるのか。それは先の神武東征と「河内潟の時代」と一致するし、中国や韓国の史書とも一致する。様々なものと整合性が取れて、これまで「ファンタジーに過ぎない」と言われ続けた日本書紀・古事記に歴史書としての意義が浮かび上がってくるのである。

 本書の第1章冒頭に、長浜先生が師事していた江藤淳教授の勇気ある言葉が載せられている。
「戦後日本には言論の自由は一切なく、全てが検閲を受け、今日の言語空間が形成された。現行憲法も占領期に米国から与えられたものだ」
 私たちは皆、「戦時中の言論統制が厳しかった」と教えられてきたが、これは嘘で、本当に厳しかった時代というのはGHQに占領されていた頃の方だった。
 どうしてこれが「勇気ある発言」なのかというと、GHQ統治時代のほうが厳しかった……と発言することは現代に至るもタブーだからだ。
(GHQ統治時代のほうが厳しかった……なんてことを描いたテレビドラマや映画なんて今まで一本も作られてなかったでしょ)

 占領軍が日本を去ったのはもうとっくの昔だが、現代でもその影響を強く残している。特に教育・マスコミ・政治の3組織はいまだに“統治下”であるかのような体制のまま、学校は子供に正しく教えないし、マスコミは都合の悪いことは国民に知らせないし、政治は日本を自ら陥れるかのような政策ばかり実施している。エリートほどバカになる国ができあがり、そのバカが権威として各界のトップに立ってしまっている。
 ここまで愚民化が進んでいながら、よく日本という国が今で消えずに残っているなと驚くほどだ。
 教育やマスコミがそんな有様だから、当然ながら学問もおかしくなる。研究者たちは古事記・日本書紀に書いてあることは全てファンタジーに過ぎないと一蹴し、重要視せず、それぞれで独自の説や論考を発表し、結果として日本の基盤となる神話はガタガタに崩壊した。

 著者のプロフィールを改めてみると、「一級建築家、技術史、公害防止管理者、企業法務管理士」とある。「考古学」とはまったく畑が違う。しかしだからこそ、学会でトレンドになっている様々な「説」を無視して、普通に「古事記と日本書紀を読む」ということができた。
(昔の日本では1年を2年と数えていた……このことにこれまでの学者が誰も気づかなかったことに驚きだ)

 本書の目的はまさにこれ、「古事記と日本書紀を普通に読もう」という趣旨でスタートする。『魏志倭人伝』についても、普通に読んでみよう。すると本書のような説得力ある説明が出てくる。
 例えば長らく邪馬台国は九州説・畿内説とがあり、奈良県纏向遺跡の発見で一気に畿内説有力となった。
 しかし、邪馬台国は九州・福岡あたりである。何を根拠にしているかといえば、『魏志倭人伝』にそう書かれているから。
 これまでの研究家はどういうわけか文献の「南」と書いてあるものを「東」と読み替え、さらには距離も変えて「邪馬台国は畿内にあるに違いない」としていたのだ。
 では纏向遺跡は何なのかというと、垂仁天皇が建てた珠城宮であり、後に景行天皇が日代宮を建てた場所だ。何を根拠にしているかというと、日本書紀にそう書いてある。纏向遺跡は卑弥呼の城ではない。
(天孫族がいたのは宮崎県だから、実は福岡の邪馬台国とは意外とご近所だった。しかし邪馬台国は魏に朝貢を送っていたので、大和朝廷とは立場が異なる国だった)

 正直なところ、ずっとおかしいなとは思っていた。
 邪馬台国=大和朝廷、卑弥呼=天照大神とする説はたくさん読んできたのだが、魏志倭人伝によれば、卑弥呼は西暦200年ごろの人。最初の天皇である神武天皇はその後の時代……ということになる。日本書紀は720年、古事記は712年に編纂される。卑弥呼を天照大神とした場合、この500年ほどの間に天照大神の子供たちと41人の天皇がいなければならない計算になる。しかも日本書紀に書かれている天皇の年齢は100歳越え。どうしたって整合性が取れない。
 それで多くの古代史研究家も「日本書紀に書かれている天皇の大半は実在しない」という説を立てていたが、それはあまりに話が雑だ。
 しかし、そもそも邪馬台国と大和朝廷がまったくの別、という話になれば色んなものがスッキリする。この本に出会えて、やっとモヤモヤしていたものが晴れたような気がした。

 本書の良いところは神武天皇から始まる「年表」をきちんと書いてくれたことにある。今まで色んな古代史にまつわる本を読んだが、誰も年表を作った人がいなかった。だから神話時代の日本のことがなんとなくわからない。闇に包まれた印象があった(一方で、だから神秘的でもあった)。だが本書には年表がついていて、「神武天皇BC70年即位」と明快に書かれてある。すごくわかりやすいし、闇に包まれた日本史に光が当たるような気がした。
 日本の神話がよくわからない、ファンタジーだと思っている人におすすめの一冊である。


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