映画感想 ラ・ヨローナ~泣く女~
ラ・ヨローナ~泣く女~予告編
本日の映画はホラー『ラ・ヨローナ 泣く女』。『死霊館』シリーズの番外編という扱いで、時系列的に『アナベル 死霊館』『死霊館 エンフィールド事件』の間に入ってくる……とされているけど、物語的な連続性は特にない。この作品を初見にしても問題がない。『アナベル』に出てきた人形がちらっと出てくるだけで物語的な関連性はまったくない。
『死霊館』シリーズはハリウッドに珍しく、「ヒットしたら次々に続編を作れ!」という手法ではなく、1本1本モチーフや舞台、登場人物を慎重に見極めて制作されている。とりわけ『死霊館』本家シリーズは「実録もの」にこだわっており、例えば『エンフィールド事件』は実際にイギリスで起きた事件で、劇中に登場する写真も実際のものにとことん寄せて作られている。
本作『ラ・ヨローナ』はそういった実録ものではなく、ジェームズ・ワン(『死霊館』シリーズの監督。本作ではプロデューサー)が「米国で聞いた怪談」がモチーフとなっている。怪談を蒐集し、その時代の手法で記録する、というやり方だからよくある「ホラー映画の監督」というより、柳田国男やイエーツ、明治の落語家三遊亭円朝といった人たちと同じ、“怪談の蒐集家”と考えたほうが良いのかも知れない。
ラ・ヨローナの伝承は、ジェームズ・ワンが「アメリカに移住してから聞いた話」を映画にした、という話だけど、お話の舞台は1673年メキシコ。夫に浮気されたヨローナが嫉妬に狂い、息子達を溺死させてしまう……という内容。
どうしてメキシコ発の幽霊がアメリカに登場するのか、というと幽霊とは話者の移動とともに移動するから……というのは私の考えだ。例えばアイルランドといえば泣き女バン・シーだが、そのアイルランド人が移民としてアメリカに入ってくると、アメリカでバン・シーの目撃話が多く語られるようになった。幽霊とは伝承の存在なので、伝承者が別の地域に移ると、その地域で伝承の続きを語り始める。幽霊とは実体ある存在ではなく、それでは誰が生みの親となるかといえば話者達であり、語り継がれることで幽霊は存続し続けるのである。
ヨローナのお話もメキシコからアメリカへと移ってきたお話なのだろう。
しかし話を聞いて「おや?」と何か引っ掛かる。子供を殺したのは「夫にとってもっとも大事なものだから」という説明だが、いや待て、子供は母親ヨローナにとっても大事なものではないのか? ここに引っ掛かりがあるのだけど、劇中で解説がまったくない。私なりの推測だが、ヨローナは後妻だったのではないだろうか。本編中では2人が出会い、子供が生まれた……と説明されるが、それは後の話者が変えてしまったもので、実は後妻。後妻だったから、子供は夫にとって大事だったけど、ヨローナにとっては大事ではなかった。もしかすると、「実はまだ結婚していない。恋愛中だった」とかも考えたのだけど。
次に気になったのは、ヨローナの衣装。冒頭のシーンで胸元のアップが出てくるが、刺繍が細かく、非常にエレガントな衣装だ。あのワンピースが普段着なわけがない。子供を溺死させている場面でヨローナはヴェールのようなものを被っているので、あの衣装は“花嫁衣装”である可能性がある。
でもそうすると、どうしてあんな場面で花嫁衣装を着ていたのだろうか……? ここがよくわからない。
ヨローナが着ている衣装から見ていこう。
1849年9月11日イギリス、ホースモンガーレーン監獄の処刑場。ここに一人の女性が処刑台に立つ。マリア・マニング夫人だ。マリング夫人は黒いドレス、黒い長手袋をしていた。この時の処刑には、3万人もの見物が押し寄せたという。
マニング夫人の亡霊はその後各所で目撃されるようになり、やがて「黒いドレスを着た女の亡霊」は様々な物語の中に登場するようになった。ディケンズの『荒涼館』がその一つだ。
この一件以来、「幽霊といえば黒い服を着ている」というお話が定着し、以降、幽霊目撃譚で語られる幽霊といえば大抵、黒い服を着ていた。それを反映した映画といえばギレルモ・デル・トロ監督『クリムゾン・ピーク』。この映画に黒いドレスを着た女の霊が登場してくる(この女の霊の年代は不明だけど)。
西洋の宗教観においては、「黒い服」というのは煉獄の入り口にいるから……という考え方があった。煉獄を巡る旅の終わり頃には魂が浄化され、「白い服」に変わるという。亡霊は呪われし不浄の魂だから黒い服を着ている。こういった説明とも符合するので、「黒い服を着た亡霊」のお話は人々に受け入れられ、拡散されていった。
↑1800年頃描かれたハマースミスの幽霊。白い布は埋葬布。
一方でこんなお話もある。
1803年12月頃、ロンドン西部に「ハマースミスの亡霊」と呼ばれる霊が出没するようになった。ハマースミスの亡霊について詳しいエピソードが出てこないが、この亡霊は「白い服」を着ていたと言われる。
こちらのお話でなぜ白い服を着ていたのか、というとこれは「埋葬布」だから。埋葬布を身にまとっていたから、白い服を着ていた。
当時の版画を見ると、白い布をひらひらさせて闇夜から現れる姿が描かれている。これを見てピンと来るのだが、昔ながらの幽霊といえばシーツのようなものを被っている姿で描かれる。ひょっとするとこれは埋葬布だったのではないだろうか。
ちなみに日本でも幽霊といえば白い服を着ている。『リング』シリーズの貞子さんも白い服だ。なぜ白い服を着ているのか、という話を遡っていくと死装束に行き当たる。死んだときに身にまとう服のイメージで幽霊の姿は描かれる。ホラーはその地域の文化を語らせるツールである……死者の描き方からでも読み取れるものはいくらでもある。
↑1865年頃に描かれたペッパーズ・ゴーストの仕組みを説明した版画。
1801年、ドイツの発明家ポール・フィリドールによって考案された「ペッパーズ・ゴースト」と呼ばれる舞台装置がある。ペッパーズ・ゴーストと聞いてディズニー好きはピンとくると思うが、この技術は現代でもディズニーランドのホーンテッドマンションで利用される装置だ。当時の版画を見ると、やはり幽霊が白いワンピースドレスを着ていて、全身をひらひらとさせている。これは多分、白い服を着ていたほうが像を舞台上に映しやすかったから……という事情じゃないかな、という気がするが、とにかくも「白い服」の幽霊は舞台技術によって広まっていった。
実際、幽霊が着ている衣装は様々だ。調べてみると「黄色の服」「茶色の服」と時代・場所によって様々だ。詳しく見ていくと、その幽霊が生前よく来ている衣装で出てくるものだった。ところが現代に向かうにつれて、幽霊といえば「黒い服」と「白い服」に収斂していく。それはたぶん由来を不明瞭にする……という意図があるのではないか。服の色や装束を明確にすればするほど、時代が場所が特定されてしまう。しかし何の個性を持たせない黒い服・白い服だったら、どの時代でもどの地域でも当てはまる。『リング』の貞子に至っては髪を前にたらして顔を見せなくして、貞子がどんな容貌をしているのかも不明瞭にし、「白い服」「長い黒髪」という特徴のみに記号化させてしまっている。こうした「生前の特徴を持たない」、つまりは「ディテールを持ち得ない」ことがぼんやりとした幽霊の怖い表現に繋がってくるのではないだろうか。
映画『ラ・ヨローナ』のお話に戻ってくる。ヨローナの衣装も真っ白だ。白い衣装を着て、何かとひらひらさせるのは、幽霊物語の伝統に則った姿だといえる。そのヨローナがヴェールのようなものを被っているのは、ヴェールで顔を描くし、“顔”という生前のディテールを消して記号化させるためだろう。恐怖映画としての表現として描かれたものだと考える。
しかしやはりヨローナが花嫁衣装を着ている姿で現れる……というお話には一つ引っ掛かりがある。
それで私の考えた想像だが、ヨローナはまだ結婚していなかったのではないか。婚約中だった男性には2人の息子がいた。ヨローナと男性はいい仲でもうすぐ結婚、というところまで来ていた。ところが事件が起きてしまった。間もなく結婚……という段階で起きた浮気だからこそ、ヨローナは過剰な行動に出た。哀れに思ったヨローナの親族は、ヨローナに花嫁衣装を着せて埋葬した。あるいは、ヨローナの亡霊を慰めるために花嫁衣装を着せた、という推測もできる。
このお話が、後にヨローナはすでに結婚していた……というお話に変わったのではないだろうか。ヨローナのお話の中に出てくる衣装は、話者が生み出したものだ。
続いて、ヨローナの「能力」について見ていくとしよう。幽霊化したヨローナはどんな能力を持っていたのか。
① 念動力
ヨローナは念動力で物体を動かすことができる。車の窓を開けようとした場面がそれ。また風のようなものを起こして、窓やドアを開けることができる。現象としては風のように見えるが、ヨローナの念動力と推測できる。
だがこの念動力は非常に弱く、子供の手でも跳ね返すことができてしまう。
念動力は後々力を増すことがある。これは後述。
② 実体化できる時間
映画を見ていて気付いたところだが、おそらくヨローナは実体化できる時間というのは非常に短い。おそらくは数秒。パッと出てきてはパッと消えてしまう。これは映画的表現ではなく、ヨローナの能力限界だったではないだろうか。ヨローナはその間に標的を始末しなければならない。
またヨローナはおそらく何かの物質に接している状態でないと実体化できない。何もない空間上に現れることはできない。壁であるとか、ドア、窓、カーテン……そういった物体の側でしか登場してこない。プール前に現れたのは、傘が触媒になったのだろう。
③ サイン ヨローナは標的に接近すると、腕を掴み、サインを残すことができる。ようするにターゲットを定めました、という目印だが、このサインを残すとその対象に対して少し強力な力を発揮できるようになる。念動力も実体化できる時間も、サインを刻みつけてから明らかに強くなっている。
④ 憑依
標的に接近したヨローナは、子供の意識を乗っ取り、自由に操ることができるようになる。最初の2人の子供を溺死させた方法はこの憑依であった。この方法だと短時間しか実体化できないヨローナでも、子供を溺死させられる。後半、娘クリスにも憑依を成功させるが、溺死させるところまでは至らなかった。
おそらくヨローナの能力・特性は上の4つだと思われるが謎の部分もある。それが鏡。鏡を見るとヨローナは正気を失い、鏡が割れてしまう。これはなぜなのかわからなかった。また最後の最後でヨローナが持っていた首飾りがキーアイテムとして出てくる。これを目にしたヨローナが一瞬生前の姿を取り戻す。首飾りと鏡の二つが何かしら重要さを持ったキーアイテムになっているようだが、これは読み解けなかった。
と、ホラー映画の幽霊とはいえど自由に能力を発現させてしまえば興ざめである。ある程度の制限やルールがあったほうがよい、というのが私の考えだ。『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンドみたいなものと考えている。ホラー映画は幽霊の能力についてあまり語られないが、映画ごとに間違いなく「固有の能力」と思われるものはある。映画を見た感じ、ヨローナが持っていた能力はだいたい上のようなものであると考える。
次に舞台について見ていくとしよう。
主人公アンナ・テイト・ガルシアは夫を亡くしてシングルマザーとして2人の子供を働きながら育てている。その住まいだけど、シングルマザーとしてはやけにいい家に住んでいる。1階は廊下や壁を排した開放的な造りで、玄関からリビング、食堂から一気に見渡せるようになっている。階段周りだが手すりの彫り物がなかなかお洒落である。2階へ行くと個室があるので壁でしきられているが、その壁には一杯の絵画(小さいものだが)が飾られている。おまけに庭が非常に広く、プール付きである。
死亡した夫は、制服警察官だったようだ。ということは、ガルシア夫人は中産階級である。
うーん……1970年代のアメリカって普通家庭でもこんな家に住めるものだったのかな。2020年代の現代と経済感覚が違う。この時代はひょっとすると一般家庭でもこれくらいの住宅に住めたのかも知れない。
この時代の経済感覚はよくわからないので、映画的な組み立てとして考えてみよう。そちらの方面で考えるとピンとくるが、これはホラー映画のお約束、「幽霊屋敷」がイメージされている。幽霊が登場する場所、としてのしつらえとして作られている。
幽霊が出る場所、といえばかつては上流階級のお屋敷であった。20世紀以前は幽霊を信じるのはもっぱら上流階級と下層階級だ、と言われていた。しかし現代でお屋敷なんてものは日常世界にあまりないし、しかし登場人物の背景を考えると相応しいとは思えない。それで映画では中流一般住宅だけど、残像としてちょっとお屋敷感を思わせるものをディテールの中に混ぜ込んだのだろう。こうやってホラー映画的なしつらえを組み立てていったのだ。
ところで主演女優であるリンダ・カーデリーニ。ちょっとエロくなかった? おばさん女優なんだけど、なかなかにスタイルがいい。後半、シンプルなセーターにジーンズという組み合わせで演じていたのだけど、体のラインが出ていて、なんだか色気があるなぁ……と。ホラー演出よりも、おばさんの体ばかり見てしまった。
ちょっとクセのある濃い顔をしているが、Wikipediaで確認するとアイルランドあるいはイタリア系アメリカ人とある(どっち?)。ヨローナはメキシコ出身で、おそらく移民とともに入ってきた霊と考えられ、登場する神父もメキシコ系ということもあり、純粋なるアメリカ系よりもちょっと異国感ある顔のほうが相応しいと判断されたのだろう。
私はこの映画でリンダ・カーデリーニという女優を知ったが、ちょっと気に入ってしまった。
映画についてだが、いわゆる猟奇性を強調したスラッシャー映画タイプではなく、Jホラースタイルの雰囲気や情緒を重視した作りになっている。私はこういうタイプのホラーが大好きだ。
こういった映画の作りは、いかにトリッキーに、シーンごとに工夫を凝らすか。
良かったシーンは最初のほう。2人の子供が施設に移され、しかしそのうちの1人が夢遊病のように廊下に出て行く。もう1人が追いかけていく。照明がパチパチと明滅する。そのたびに、夢遊病の子供が瞬間移動しているかのように、廊下の端へ移動する。追いかけていくと、夢遊病の子供はある場所に立ち止まり、頭上を指し示している。振り向くと、鏡の中に幽霊の姿が……。
このシーンの、じわじわと来る流れがいい。Jホラー的な作法は日本から学んだ手法だが、もうハリウッドもこなれたものである。
次のシーン。アンナの息子、サマンサが金網の向こうで泣いている女を見かける。なんだろう、とサマンサが近付く。泣き女が少年に気付いて振り向く。来るか……と思ったらフレーム右横から突然!
こういった演出はいかに観客の意表を突くか。観客の予想していないところから攻撃させるか。この脇のつつき方がなかなかにうまい。
ただし後半、ヨローナの姿が明確になってからはあまり恐怖感は感じられなかった。
幽霊でも怪物でもエイリアンでも同じ。ゾクゾク感があるのは、それそのものが本格的に姿を現すまで。「いったい何が起きた?」その瞬間の困惑と、さざ波のように来る不安、それらが混じったゆるめの恐怖……これがホラー映画にとって一番の甘味なのである。怖いと感じるのは幽霊という“実体”ではなく、それらを取り巻く“現象”のほうだとも言える。
しかしそれが具体的な姿をもって現れるようになると、興ざめてしまう。SFホラーであった『エイリアン』も前半は怖かったのに、後半、エイリアンの本体が現れてくると急に怖くなくなる。ディテールが克明になると幽霊としての神秘性を失うし、なによりエイリアンの場合は「着ぐるみじゃん」とわかってしまう。ヨローナの場合は、白いドレスを着た女に過ぎないわけだから、その姿が克明になってしまうとさほど怖くはない。「ドレスを着たおねーちゃんじゃん」くらいな感じになってしまう。
それで、映画『ラ・ヨローナ』はどうにも姿を現しすぎる。ここで興醒め感が出てしまう。
しかし美点に思えた部分も少しあって、ヨローナは標的を殺すことに対してやたらと貪欲だ。子供を殺したいと思うヨローナと、それを守りたい母親との間で戦いの構図が出てくる。この明確さがいい。
またもう一つ思ったのは、これはJホラーの様式を借りた猟奇殺人映画だ、ということ。その他のJホラースタイルの映画よりも、悪霊が殺すことに対して、やたらと貪欲すぎるんだよね。呪いによって心臓発作が起こさせる……のではなく実体化して溺死させることにこだわる。ジェイソンやフレディと同じ系譜を持ったキャラクターだ、ともいえる。Jホラーの様式でジェイソンやフレディを描いたらこうなった……みたいな構造があって、そこが良いと感じられた。
しかし映画の総合点的にはあまり高くなり得ない。というのも、お話が短い。もちろん長ければいい、というわけではない。『ラ・ヨローナ』はお話に奥行き感が薄い。
まずいってヨローナについて不明な点が多い。後半、ヨローナの首飾りというキーアイテムが出てきて、この首飾りを見た瞬間、ヨローナは一瞬生前の姿に戻る。これがなぜなのかよくわからない。ヨローナの背景や性質について、もう少し掘り下げて、首飾りというキーアイテムでも理屈が付けばあのシーンも、もしかしたら感動できたかも知れなかった。
ガルシア親子についても掘り下げが充分ではなく、ヨローナと戦うことがあの親子にとってどんな意味があるのか。単に殺人鬼に狙われたからそれと戦うだけなのか。しかしそれだけだとどうしてもドラマとしての力強さが出てこない。
こういった場合の定石は、ガルシア親子は関係性がうまくいっておらず、しかしヨローナと戦う過程で親子の結束を取り戻していく……ありがちといえばありがちだが、これをやるだけでヨローナとの戦いが感動的に映るものである。
映画のプロットを俯瞰して見ても、あまりにもシンプルにガルシア親子とヨローナの戦いだけにお話が絞られすぎて、その周囲に展開が広がっていく感じがない。お話が広がらず、奥行き感も出ず。で、見ているとどうにもJホラースタイルを借りた殺人鬼がやってきて、それと戦うお話に過ぎない、という印象になってしまっている。しかも肝心の幽霊も、後半に入ると姿が克明になりすぎて、さほど怖くない……という現象を生み出してしまっている。
映画のなかばからガルシア親子を救うラファエル神父が登場するのだけど、ラファエル神父については掘り下げがあからさまにいまいち。どういった人物なのかわからないし、ガルシア親子との関係性を見ても感動するところがない。ラファエル神父がどうして悪霊と戦うのか、神父としての義務感以上のものが見えてこない。ラファエルの活躍どころを見ていても、あまり立ち回りとしていいと思えず、賢明とも思えず、悪霊と戦うヒーローとしての存在感が弱い。こういったどころも“掘り下げ不足”から来る弱さだ。
かといって「つまらないホラー映画」か、というとそんなわけではなく、むしろ面白かった。ヨローナの造形が良い。白いドレスとヴェール。ホラー映画だから不気味な存在として描かれるけど、実はかなり美しい姿だ。
実体を持たない子供だけを狙う猟奇殺人鬼。それが話者から話者へと伝染してずっと存続し続けていた……そういう伝承の存在と戦う物語。そうした背景を考えるとなかなかに神秘的な物語と感じられる。
ただ引っ掛かりは後半。あともう一捻りなにかあれば……映画としての物足りなさが残るところが惜しい。
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