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映画感想 生きのびるために

『ブレッドウィナー』予告編

 『生きのびるために』はカナダ、アイルランド、ルクセンブルク三国共同によって制作され、2017年に発表されたアニメーションだ。原作はデボラ・エリスがアフガン人難民キャンプでの聞き取り調査をもとに描かれた作品。第45回アニー賞長編インディペンデント作品賞受賞、第90回アカデミー賞長編映画賞にノミネート。
 タリバーン政権下のアフガニスタンで何が起きているのか――。本作はフィクションではあるが、その地域で起きている生々しい実体を描いた作品である。

 アニメーションの品質はさほど高くはない。ディズニーはもとより、日本のアニメと比較しても画の作りは平坦だし、動画の作りには粗が目立つ。だが今回はそういう話は一切持ち出さない。この作品を鑑賞する場合の評価基準はまったくの別に持っていたほうがいい。それ以上に作品の中に何が描かれているのか、その奥深さが高い評価を得る理由になっているし、アカデミー賞にノミネートされるに足る存在感を勝ち得たのだ。

 映画冒頭の場面を見てみよう。
 市場で服を売っている親子が登場する。主人公パヴァーナと、その父親である。後にわかってくるが、親子は露天商ではなく、家にあるものを市場へ持っていって、勝手に売っているだけだ。なぜそうしているかというと、それくらい生活が逼迫している状態だからだ。主人公の父親はもとは教師だが、戦争で片足を失っているし、映像を見ると住民の生活自体が貧しく、教育どころではなさそうだ。収入を得るあてが他になく、そうするしかない状況が描かれている。
 タリバーン政権下のアフガニスタンは猛烈な男尊女卑社会――いや女性差別社会だ。女は顔を出すな、女は喋るな、女は外を出歩くな……もしも街の通りで女が一人で歩いているところを発見されると猛烈な批判を浴びせかけられるし、暴力を振るわれることもある。冒頭でも、銃を持った男達が露天商に「女にものを売っただろ!」と怒鳴られる場面が描かれる。女は買い物をしただけで非難されるし、買い物をさせた商人も非難されるのである。

 女は顔のところだけぽつぽつと穴の空いた長い覆面のようなものを被らなければならない。これはブルカといって、顔どころか全身のシルエットごと隠してしまう。これが登場する最初のシーン、まるでそれ自体が一つの小さな檻のように見える。檻のように見せて、女性が置かれている状況を表現している。

 パヴァーナと父親の前に2人組の男がやってくる。なぜ女が市場にいる。顔を隠せ。さらに男は、嫁が欲しいからその女をよこせ、と要求する。パヴァーナの父親は反抗する。娘はもう婚約済みだから、お前にはやれない(これは嘘)、と男を追い払う。
 ほんの些細な諍い。男は主人公親子を疎ましく思い、その後も追跡して家を特定すると、「あの男は娘に本を読ませた」という虚偽の報告をして、逮捕させてしまった。

 この男についてだが、女を見付けると何かと絡んできて威圧的に怒鳴ってくる。
 だいぶ後になってわかってくるが、この男は男性社会の中では体格も小さく、他の屈強な戦士達と比べるとひょろひょろの小男でしない。そんな男社会の中では“マウントをかけられるほう”だ。どうやらそれがコンプレックスだったらしく、それで見た目的にも社会的にも弱者である女性に向かって差別をしているのだ。女性差別社会は、そういうコンプレックスを持った男が憂さ晴らしでエゴを落とす状況を許してしまっている。底辺層のエゴは下へ下へと流れていくが、その行く先がこの社会では女性なのだ。

 主人公一家は、父親を除けば男性はまだ言葉も喋れない幼い弟だけ。あとは女しかいない。
 女は男性を伴わず外を出歩いてはならない。ということは仕事に行けないし、食べ物を買うこともできない。「男性がいない」というだけでパヴァーナ達は、生活ができない状況に陥ってしまった。
 水道がないので街の広場にある井戸まで水を汲みに行かなければならないが、ただそれだけでも恐怖の連続である。もしも女が家の外に出て、水を運んでいるところを発見されてしまったら……。主人公パヴァーナは恐る恐る井戸まで行き、バケツに水を汲もうとするが、人がやってきた気配に怯え、少ししか水を入れていないのに家に逃げ帰ってしまう。
 女は水を汲みに行っただけで非難されてしまう。そういう理不尽社会の物語だ。恐ろしいことに、これが現実に起きている事態なのだ。

 そうした最中、パヴァーナは生きのびるために、長い髪を切り、少年のふりをして過ごすことにする。
 その時の動画がいい。まずぼんやりとハサミを見ているカットがしばらく続き、それからすっとパヴァーナが立ち上がり、ハサミを手に取り、鏡の前へ行く。長い毛先を掴み、ハサミで切ろうとするが、その手が止まる。躊躇いが現れる。やがて思い切ったように、毛先を切る。その後姉がやってきて、髪を切るのを手伝う。
 長い髪を切る。それは女性であることを捨てること。
 冒頭の市場の場面、パヴァーナは美しい衣装を名残惜しそうになでている。綺麗な服、台詞に「手作り」とあるから、母親が縫ったものかも知れない。そんな大切な服を売ってお金に換えなくてはならない。
 その綺麗な服、というのはパヴァーナの女性としてのアイデンティティだ。最初のシーンではそれを名残惜しそうになでていたが、少年の格好をして、とうとうその服を売ってしまう。綺麗な服を売ってしまう、ということがパヴァーナの最初の試練として描かれている。

 この作品の注目すべきポイントに「物語」がある。様々な場面で「物語」が語られ、それが作品のストーリーを牽引する力となっている。
 冒頭の場面では父親が物語を語って聞かせる。ここでのポイントは、作品の背景、どういう歴史をたどってきたかが語られ、父親が少年だった頃にはどうやら現在のような女性差別社会は来ていなかった……ということが語られる。父親の物語の中では少年も少女も、同じように混じって遊ぶ牧歌的な世界が語られていた。
 この辺りは私もアフガニスタンの歴史を知らないから、詳しく語れない。どうやら現在のタリバーン政権が来てから、何かがおかしくなっていったようだ。とにかくも「物語」が導入されることで、その社会の背景にあるものが、おぼろげながらに見えてくるように作られている。

 最初の、父親が娘に語って聞かせるこの物語を、パヴァーナは上の空で聞いている。だが間もなく、パヴァーナは幼い弟に向かって、自ら物語を作り、語って聞かせるようになる。
 弟に語る物語は冒険活劇ものだ。魔の山を治める象に、植物の種が強奪されてしまう。それを奪い返すために、少年がたった1人で村を離れ旅に出る……という物語だ。
 魔の山を治める象や怪物は、現在の社会情勢の象徴だ。旅に出た少年、というのは少年の格好をして街に働きに出なければならなくなった自分自身。象に奪われてしまった植物の種、というのは父親。弟に語って聞かせている物語……という装いを持ちながら、実は自分自身について語っている物語で、さらに自分自身に向けてお話を作っている……というところがポイントだ。冒険の物語を自ら作り出すことで、パヴァーナは自分の活力に変えて生きていこうとするのだ。
 映画のオープニング、少年がなんだかわからない煙のようなものに囲まれてしまう場面が描かれている。なんだかわからない煙に囲まれて、もうどこにも行けなくなった少年……それがパヴァーナの状況を、あるいはアフガニスタンにおける女性の立場を表している。

 物語の最終目標は不当に逮捕された父親を救うことだが、それは困難な道のりだった。最初、母親がブルカを被って刑務所まで行こうとするが、その途上で「女が家を出るな!」と絡まれて殴られる。次に男装した主人公パヴァーナが刑務所まで行き着くが、しかし門番に追い払われた挙げ句、殴られる。
 ここまでで45分。女が家を出てはならないのなら、男装すればいい、しかしそれだけでは父親を救えない……映画の間もなく半分というところでこの前提が提示される。「社会派」映画だが、しかし構成自体は娯楽映画と同じ作りで、目標達成に向けた障害を提示したこの段階で「さてどうする?」と観る側に問いかける作りとなっている。
 パヴァーナは父親を助けたいが、家族を養うために日銭も稼がなければならない。解決不能の問題を抱え煩悶とするパヴァーナの前に、男が現れる。最初の市場のシーンで、パヴァーナ親子に絡んできた男と一緒にいた男――ラザクだ。ラザクは字が読めないので、パヴァーナに持ってきた手紙を「読んでみろ」と言う。手紙の内容は、ラザクの姉の死を伝えるものだった。結婚式に向かう最中、車が地雷を踏んで重傷、そのまま息を引き取った。
 ここの見せ方も秀逸だ。ラザクの表情は見せない。リンゴを切っている手元だけ見せて、手紙の内容を聞いてラザクの手が止まる。次に横顔を見せるが、何も言わない。その次は背中が映され、長めの間を経て、何も言わずに去って行く姿が描かれる。
 この一件を経て、ラザクが問題を解決に導くキーとなる。

 状況は刻々と逼迫していく。時々、空を戦闘機が横切っていく。あれは何だろう……と思っていたが間もなく戦争が始まることの予告だった。早く父親を助けなければ家族も連れて行かれる。パヴァーナに残された時間はない。この組み立てが見事で、どんどん状況が切迫していく中で、いかにして父親を救い出すのか。パヴァーナの行方が気になって目が離せない、そんな緊張感ある展開になっている。エンターテインメントとしても力強い。

 一言で言って、ひどい状況だ。行き過ぎた女性差別が、人々からごく普通の生活を送ることすら困難にさせ、貧困を生み出し、貧困が若者を戦争に行くしかない状況を作り出し、全員がどうしようもない貧困に苦しんでいる状況だからそのストレスが貧困層の中でもさらに最底辺――女性へと向けられてしまう構造が描かれている。別にところにも書いた話だが、そのコミュニティにおける最底辺と認定された対象への攻撃(暴力や罵倒)は倫理や道徳観の対象外となる。「あいつらなら好きなだけ叩いてもいい」という普段持っているはずの心理的な安全弁が外れる現象が起きる。これが個人ではなく、社会の風潮として起きるようになる。あそこまで過剰に女性差別が進行する背景には、おそらくその社会における貧困があるのだろう。この作品では男は女を差別する厄介者……という視点で描かれるのだが、男達にとっても貧困のせいで戦争にいかなければならない鬱屈が背景にあるのかも知れない。いくら「そういう社会制度だから」といえど女性に対する一方的な暴力に駆り立てられる理由は、そういうところじゃないか……というのが私の想像だ。

 「女性」というだけで無条件で社会の中の最底辺に追いやられてしまう。こうした理不尽そのものの状況に対して、少女パヴァーナがいかにして戦うのか。生きのびるために何をするのか……が描かれた作品だ。
 作品の大きなフックとなっているのが、劇中で語られる「物語」だ。作中でも言及されるが、「物語」には歴史を伝え、人々に思い出させる力がある。「物語」という形になっているから、過去にどんなことがあったのか、人々が何をしたのかがその後の世代まで残っていく。自分自身の体験すら、人は「物語」として記憶し、「物語」にならない思い出はだいたい全て忘れられる。教科書的な歴史事件として記されたできごとはよほど優秀な頭でない限り、記憶に留めておくことができない。

 多くの人は「物語」を軽んじるが、「物語」にはそれだけの意義がある。忘れさせないために物語がある……ということ自体を忘れている。
 また『生きのびるために』は「物語」の別の効果を示している。それが劇中でも主人公パヴァーナが創作しつつ語る物語だ。パヴァーナの物語は単に弟に語って聞かせるだけの、現実を忘れ逃避させるだけのものではない。むしろその逆で、現実への活力となっている。
 男装するようになったパヴァーナだが、顔を隠すショールなしで外に出るのはあまりにも不安。そんな時、パヴァーナは物語を思い出そうとする。これは物語の中に逃げているのではなく、勇気を出す切っ掛けをそこから得ようとしているのだ。
 その後も「物語」はパヴァーナにずっと寄り添い続け、パヴァーナに様々な勇気を与える切っ掛けとなっていく。語るうちにパヴァーナの物語はディテールを持ち始め、主人公に死んだ兄スリマンの名前が与えられる。母も時々男装したパヴァーナをスリマンで呼ぶようになる。ということはパヴァーナは死んだ兄に自身を重ねるようになり、その兄から勇気を得ている……という構図へとスライドしていっている。

 さらにはこの物語は、死んだスリマンへの想いを乗り越える……作中で語られていないエピソードではあるけれども、物語の中でスリマンがどんなふうに死んだことが語られ、それを最後にパヴァーナは物語から自分を解放させる。
 『生きのびるために』で語られる「物語」には「物語」としての基本的な原理に立ち返っている。物語は人々に勇気を与えるし、そこで語られることが道徳観の原型となるし、人々に技術を教えようとしているという側面もある。民族として結びつける原典となる物語もある。現代人は「物語」を“消費するもの”と軽んじる傾向があるし、実際消費される商品として作られているという側面もあるが、「物語」本来の役割とは、この作品の中で描かれたような意義がある。
 そしてその意義は『生きのびるために』という「物語」そのものにも同じことが言える。「物語」という形になっているからこそアフガニスタンの現状が人々に伝わり、心に残り、語られる作品になり、おそらくはこの作品が生きていくための活力、あるいは勇気を与える作品になることだろう。

 どうしてこの作品がアニメーションとして描かれたのか? 子供にも見やすくするため? そういう狙いもあるだろう。
 アニメーションの基本要素を見ていくとしよう。アニメーションは描かれるものすべてを抽象化するという効果がある。抽象化し、その世界観の中で独自の様式美を作り出す。だからアーティストはアニメーションに自分の美学の全てを注ぎ込もうとする。
 また抽象化するからこそ、その物語に描かれている構造をシンプルにさせ、理解しやすいものにする。例えば…こういうと怒る人も出そうだが…中東系の人の顔は私には見分けが難しい。しかしアニメーションにすればすぐに把握できるようになる。
 その他にも、子供と大人との体格差、大人同士でもひょろひょろした小男と大男の差、こういう色んなものを克明に描き出せるのもアニメーションならでは。克明にわかるからこそ、男性という圧倒的に体格の大きなものに虐げられる女性、という立場がわかりやすく浮かび上がってくる。
 心情の描写もやはりアニメーションだからこそ伝わりやすい。姉の死を知らされたラザクは、手元の動きだけで落胆を示す。あれは単に手の動きをゆっくりにして、最後には止めただけだが、それだけでゾクゾクさせるものがある。こういう心理描写は絵で表現するからこそ明快になる。

 作中、物語内物語という飛躍が登場するが、実写でやると質感の差が激しく、違和感のあるものになっただろうし、そこで語られるメッセージが充分に伝わりづらくなる可能性がある。というか、作品がややファンタジーめいたものと受け取られかねない。アニメーションであれば、どちらのニュアンスもスッと観る側に入ってくる。
 そうすると『生きのびるために』は実写で制作するよりアニメーションのほうが強い効果を持っただろうし、それにアニメーションだからこそ多くの人に見る切っ掛けも作っただろう。
 ただ、最初に書いたように、アニメーションの品質自体は良くない。キャラクターの振り向きで形が崩れる場面が多々。奥行き感もなく、のっぺりとしている。日本のアニメのほうがよほどクオリティが高い。だが世界的に注目されるのは日本のアニメではなく、『生きのびるために』のほうだ。なぜかというと、『生きのびるために』には「社会」が描かれているから。さらにその国で起きている現状を伝えるジャーナリズム的側面も備えている。一方の日本のアニメには社会が描かれることはほとんどない。文化も、政治も、世情も、時代に対する提唱もなく、あるのはただただ消費されるためだけの娯楽。だからいくら品質が高かろうが、強さを持つことはほとんどない。いくら人気が高かろうが、いまいち評価されない理由は、こういうところにある。
 日本のアニメも消費されるだけのもの、ではなく『生きのびるために』のような力強いメッセージを持ってもいいのではないだろうか。


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