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8月20日 部族社会における、生・性・老・死にまつわる話

 先月『昨日までの世界』の感想文を書いたのだが、あの感想文にはすごい秘密があるんだ。なんと文字数がきっかり22222文字! 別にそう書こうとしたわけではなく、ブログ編集中に文字数が2万2222文字になっていることに気付いて、ああこれは1文字も足したり引いたりしないようにしよう……そういうわけで、誤字も修正していない。
 うわっ、すごい記録を達成しちゃった……でもこれ読んでいる人にはなにひとつ伝わらねーや。というわけで、あの読書感想文は文字数が2万2222文字だった……ということをここで明かしておきます。

部族社会における「性」と「生」

 さて、今回は小規模血縁社会や部族社会における「生・性・老・死」にまつわる話。

 小規模血縁社会では13歳から14歳頃になるともう結婚して出産する。そんな話を高度工業化社会の住人である私たちが聞くと、「問題だー!」と大騒ぎすることだろう。13歳や14歳の妊娠は「社会問題化」する。有識者たちは、13歳や14歳では体の発達が充分ではなく、出産がうまくいかず、出産したところで当事者に親としての認識がもてないし、経済的にも子供を迎える準備もできていない……我々先進国の偉い人たちはそのように理屈を一杯並べて語り、目に映る全てを非難することであろう。
 ところがなにも問題はなにも起きない。まず子育ての経験値的な話だが、小規模血縁社会では子供たちは年齢に関係なく一緒に遊ぶ。それこそ1歳児や2歳児の面倒を見ることもしょっちゅうあり、14歳頃になるともうすでに赤ちゃんの面倒を見ることに関してはベテラン級になる。先進国の私たちは親になるまで赤ちゃんと接したことがない人がほとんどで、講習会やその他いろんなものに参加して学ばなければならない。しかし小規模血縁社会ではそんなもの学ぶ必要はない。

 また「アロペアレンティング(代理養育)」といって、自分の両親以外の大人達も子供の面倒を見ることが当たり前の社会だ。とあるニューギニア人の若者は、身の回りにいる大人達はみんな自分の「おじ」や「おば」だと思っていた。しかしアメリカに連れられて行ってみると、誰も自分の面倒を見てくれないことにショックを受けたという。アメリカへ行くと、道行く人に挨拶しても無視される。ごく一部の「知人」を除いて、全員が「他人」という社会だった、ということがショックだったという。
 私たちの社会では子供の面倒を見るのは基本的には両親であり、そのもっとも重大な責任は母親に背負わされることになっている。ところが小規模血縁社会や部族社会では、子供は回りの大人達全員の共有財産のようなところがあり、全員で育てることになっている。未熟な母親1人に責任やプレッシャーを押しつける……ということはない。
 13歳や14歳の身体では出産に耐えられず、生まれてくる子供にも負担がかかる……という話をよく聞くが、これはたぶん嘘じゃないだろうか。私たちの身体は13歳くらいになるともう妊娠・出産が可能な身体になっているはず。だからこそ「性的欲求」が生まれる。身体ができあがっていないのに、「性欲」だけが早まって発生する……みたいな状態だったら私たちの生物としての身体は先天的な欠陥がある、ということになる。たぶん、私達に性交を留まらせるための嘘なのではないかと……。

 ところが私たちの社会では、性交は基本的には18歳までえんえん「待て」と指示されている。この間にどんな問題が発生するかというと、性の幻想を育み、性に対するイメージが屈折してしまう。最近はカジュアルに自分の特殊な性癖について語るようになったが、本来は「性癖」というのは精神的な屈折だ。現代くらいカジュアルになった……ということはそれくらいに全員が屈折した社会、ということになる。
 私達の社会で18歳まで性交してはならないとされる理由は、社会的な問題がそこにあるからだ。子供を迎えるために、私達はまずある一定の社会観を構築しなければならない。つまり仕事を得て、収入を得て、妻と子供を養育できるようになっていなければならない。しかしそうなるまでに、最低でも18歳まで多くのことを経験し、学ばなければならない。
 最近の社会では、18歳で社会に出ても、まだ結婚や出産に充分な準備ができているとはいえない。そんな若い時点で結婚したところで、妻と子供を養っていけるだけの地位と収入を得ることはできない。それどころか18歳で社会に出てしまうと、待っているのは低収入の仕事ばかりで、ますます結婚や出産というわけにはいかなくなる。そこで結婚と出産がどんどん晩婚化していく……という傾向が生まれてしまう。いざ出産……となったら30歳や40歳ということになり、それこそ母子ともに危険にさらすような年齢での出産ということになってしまう。
 さらに30代や40代でようやく出産……となってもその後、子育ての責任やプレッシャーはほとんど母親1人に押しつけられる。30代を過ぎると人間は体力の衰えが目に見える形で現れてくる。夫は妻と子供を養うために忙しく働き続けねばならないし、現代はほとんどの新婚家庭は核家族を志向しているので頼れる人がいない。おまけに最近の社会は「社会全体で子供を育てよう」という意識がまったくない。それどころか、子供を持っている母親の存在を見るのが目障りだ……とそう考える人たちも結構いるような状況だ。こうした状況下での育児だから、母親は極めて過酷な状況に晒されることになる。
 それ以前に、現代の若者達が抱えている問題は、そもそも結婚に至れるパートナーがいないこと。そうした機会すら……つまり異性との出会いすらない。それ以前に、いくら働いても低給薄給でその日暮らしがやっと……。そういう状況だから恋愛や結婚なんて……ということになっている。

 人は誰もが一定の自意識を持っており、ただ生きているだけ、ではなく自分がそこにいて間違いなく痕跡を残せている、という実感を求める生き物である。「生きている意味」を求めるものである。特に遺伝子的に子孫を残したいと考える。私達はやはり「生物」であるから、無意識にでもそういうった欲求を求めている。
 それが今の社会では断たれてしまっている若い世代があまりにも多い。そういった人たちがいったいどのような屈折を抱き、その屈折が反社会的な「恨み」に転じていくか。
 私達はそういった状況に陥る人々について「自己責任だ」と切り捨てる傾向にある。小規模血縁社会や部族社会ではこういった人たちを見捨てることは絶対にしない。コミュニティの仲間、という意識が強くあるから、彼らには「自己責任だ」という意識は存在していない。しかし私達の社会では「自己責任だ」と言って、言ったとたん、その対象を「認知外」の対象にしてしまう。「自分とは関係ない」と思い込んでしまう。認識の外に置いて、関わることを拒否する。そこから後々取り返しのつかない社会的な問題が起きるようになっていく……「自己責任だ」と言っている当事者はそれを最後まで自分で認識できないのだが。
(現代人に贈りたい言葉は「因果応報」だ。無自覚と無関心という名の「因果応報だ」)

 では小規模血縁社会や部族社会の子供たちはどうやってセックスのやり方を学ぶのだろうか。というのも彼らの社会では、男女がセックスするとき、さほどきちんと隠れたりはしない。一応、「見るな」と指示はするようだが(羞恥心はあるはずだ)、子供たちは親のセックスを間近で見て育つ。
 すると遊びのなかに、明らかにセックスを思わせるような遊びを取り入れるようになっていく。子供たちがそういう遊びをしていたところで、大人達はとくに止めたりはしない。自分たちもそういう遊びをしてきた記憶があるわけだし、子供たちがそういう遊びをすることが社会的にもごく自然と考えているからだ。
 そうして子供たちは、やがて精通、初潮を迎える頃になると、自然と性交するようになる。それで赤ちゃんが生まれたら、社会全体で受け入れる。13歳で出産した少女はすでに赤ちゃんとどう接していいかよく知っているので、戸惑うことはない。赤ちゃんの面倒を見ることに関してはすでにベテラン級だし、多くの母親がどうしていたか側で見ていたから、自然にこなせることができる。「育児講習会」なんて行く必要がない。回りの大人達も赤ちゃんの面倒を見るから、幼い母親の負担はかなり低い。
 そういう社会が、もしかすると自然なのかも知れない。私達の社会では親がセックスすること、子供がセックスすること……これを極端に隠す傾向にある。あたかもこの両者が性にまつわる感覚や感性を一切持ち合わせていないかのように振る舞う。それどころか、セックスは汚らしい、醜い……とすら考える意識すらある。これがセックスを日常世界におけるタブーにした結果だ。このタブーが価値観のヒエラルキーの中で下位に置く原因を作っている。

 ずいぶん前の話だが、とある学校で先生が妊娠したことで、男子生徒達が「先生なのにセックスするなんて汚らしい」と考え、この先生を攻撃して流産させようとした……という事件が話題になった。セックスや子供を受け入れることができない、私達の歪んだ価値観の生んだ事件の一つだ。
 最近の社会は幼い子供を抱える母親を目障りだと考える人たちが非常に増えた。赤ちゃんをコミュニティの共有財産だと考える意識は薄れた。
 私達の社会が小規模血縁社会や部族社会に戻ることは不可能だが、性や妊婦に対する認識はもう少し変えてもいいのではないか。

部族社会の「老」と「死」

 次の話題は、「老・死」について。
 部族社会における「生・性」はある種の理想型であるが、「老・死」はそうではない。小規模血縁社会や部族社会では、老人は殺されたり遺棄されたりしていた。もちろん、死の瞬間まで手厚く面倒を見るという部族社会ももちろんあるが、殺したり遺棄したりする部族も非常に多い。

 では小規模血縁社会や部族社会ではどうやって高齢者を死に至らしめるのか。これを見ていこう。
 1つ目には高齢者に対する一切のケアを放棄して、死に至らしめる方法だ。話しかけられても無視するし、食料も与えない。コミュティの中でいないもの扱いする。そうして高齢者はそのまま死に至ってしまう。
 2つ目は集団が野営地から野営地へ移動していくさなかで、意図的に置き去りにする、という方法だ。高齢者はすでに弱って1人で自由に歩き回れないので、そのまま道の途中で死んでしまう。
 ただ例外もあり、アチェ族の場合は、高齢者に少しの薪と食料と水を残していく。もしも高齢者が自力で後を追いかけてきたら、そのままコミュニティに戻ることを許される。
 ある例において人類学者のアラン・ホームバーグはその現場を目の当たりにしている。集団の中に口もきけぬほど病気で衰弱した中年の女がいた。病気の女は移動中に取り残されることになった。人々は病気の女に別れを告げることさえしなかった。しかしアラン・ホームバーグはどうしても気になって、病気の女がどうなったのか、道を引き返して確かめることにした。するとその場所に病気の女はいなかった。道をずーっと辿っていくと女が道の途中で力尽きて倒れている姿を発見した。最後の力でみんなを追いかけようとしたが、その途中で力尽きてしまったのだ。
 3つ目の方法は自発的に自殺させる方法だ。具体的には崖からの飛び降り自殺。小さな舟をあつらえさせ、ひとりで海へ行かせ、入水自殺をさせる。あるいは戦場で戦死させる、などである。
 4つ目の方法は生きている人が高齢者を殺すことである。色んなケースがあるが、どうやら息子や娘が父親や母親を殺すことになるようだ。しかし自分の親を殺す……ということは精神的に相当耐えがたいものがある。親は自分を殺させるために子供を罵倒するし、子供は親を殺した後、しばらくは立ち直れないくらいの精神的ダメージを負う。
 5つ目の方法も高齢者を殺すことであるが、当事者の同意なく、いきなり全員で襲いかかって殺す方法だ。撲殺、絞殺、生き埋め、窒息死……方法は様々である。

 小規模血縁社会での老人を死に至らしめる方法は、分類すると上の5つだ。日本でも昔は「姥捨て」といって働けなくなった父親や母親を山に連れて行って遺棄していた。これも「老人の遺棄」の一つだ。ずいぶん前に『楢山節考』という映画を観て、ある若者が山に母親を捨てたのだが、しかし母親を捨てるということに耐えきれず、戻ってしまう。私はこの光景を見て、なんともいえない暗澹とした気分になっていた。老いと死とはなんて孤独なものなのだろうか。
 部族社会では母親と子供はコミュニティ全体で歓迎される。しかし老いと死はどこまでも孤独で凄惨。50代60代まで生きのびても、その人生の最後は「苦痛」で終わる。残された者も精神的なダメージを負ってしまう。親を殺し、息子に殺されるという、呪われた連鎖を続けてしまっている。小規模血縁社会や部族社会では老いと死は解決しきれない課題になっていた。

 では私たち高度工業化社会においては老人はどのように扱っているのだろうか。フィジーでは老人は死の瞬間まで手厚く面倒を見ることが当たり前であるが、そのフィジー人の若者はアメリカの現状を知って、こう言った。「アメリカって国は年寄りを捨てたり、自分の両親の面倒を見ない国なんですか」と。
 私たち高度工業化社会においては若者達はやがて家を出ることになっていて、年老いた両親は家に取り残され、基本的には見向きもされない。そのままどこかの老人ホームに預けられて、たまに会いにくるだけ。フィジー人からすれば、それは両親の面倒を見ないし、一見手厚いように見えてある意味で「遺棄している」といえなくもない状況だ。
 高度工業化社会では一見老人を手厚く保護しているように見えるが、社会的、人情的繋がりは完全に断たれる。マックス・ウェーバーは「労働というものは人の人生の中心的活動であり、人の地位やアイデンティティの源泉であり、人の性格形成に良い影響を与える」と語っている。この考え方からすると、引退した高齢者は社会的地位やアイデンティティを喪う……ということになる。
 実際その通り、高齢者は社会での立場を喪う。若者時代にどんなに優れた功績を残したとしても、老人になると孤独な最後を迎えることになる。子供たちはたまに会いに来るだけ。人知れずひっそり死ぬか、あまり面識のない人に看取られるか……である。

 私達の社会は若者世代に「核家族」となることを促し、それが優れた価値観に基づくものである……というメッセージを送っている。例えばメディアは未だに実家暮らしで独り立ちしていないような男は恋愛対象にするな、と若者にメッセージを送っている。「親から自立している」ことが重要で、結婚後は二人きりだけの内的世界を作り出すことが重要な価値観としている。
 それは逆に言えば、老人の孤独をメディアが促しているともいえる。結婚して赤ちゃんを出産したとなれば、一番頼りになるのは子育てのベテランである高齢者たちである。しかし多くのメディアはそんな高齢者の手は絶対に借りるな、夫婦だけで育てることが尊いのだ……という価値観を送っている。要するにメディアは「若者」だけを中心に物事を考えている。
 こうしたことが老人の孤独を促し、子育てをより困難なものにしている。自分で自分の首を絞めるようなことを、私たち社会は自分たちでやっている。

 老いと死をどのように受け止めるか、この問題は小規模血縁社会の時代から高度工業化社会に至っても、いまだにうまく決着を付けられていない。この問いに対するベストアンサーが出るのは、もう少し先の未来のようだ。

 もう少し先の未来に行くと、老いと死がなくなる……と言われている。現代でもすでに老いがどのような原因によって引き起こされるか解明されており、老化を完全に止めて、死を永遠に遠ざけることができるとされている。
 人間から寿命がなくなる。するとどうなるのだろうか。
 ポジティブに見ると、寿命が解除される人というのは一定以上高い地位にあると考えられる。世の中にはもっと長く生きて、私たちを導き、知恵を与えてほしい……そう思える人は少ないが存在する。そういう人の寿命が延び、もっと長く私たちにたくさんの知恵を与えてくれれば、人々はより様々な知識を得ることができるだろう。優れた指導者を喪ったことによって、衰退する国や企業というのはどこの世界にもある。そういう優れた人により長く生きてもらい、長く指導者に地位に就いてもらう。これはポジティブな現象だ。
 ではネガティブな面ではどんなことが起きるだろう。一つには世代交代が永遠に起きなくなる社会だ。若い人がどんなに頑張っても上の地位には進めなくなる。老人達が自分たちの座席にしがみついて、若者達に地位を与えない……そういう社会が生まれる可能性がある。
 私たちの世代は「団塊世代」という極めて厄介な世代に阻まれ続けてきた。団塊世代が若者世代を支配的に扱い、コントロールし、しかも自分たちが若者世代を抑圧的に押さえつけてきたという自覚が一切ない。知性がないうえに、自分がなにをやっているかという自己認識すらない。こういう厄介な世代が私たちの上に君臨し続ける可能性がある。
 それに寿命の解除という栄誉を得られるのは成功者たちであるが、たまたま成功という金脈を得ただけの、どうでもいい成金にも寿命の解除を与えることになる。こういう、ただ「運が良かっただけ」の人間にも寿命の解除を与え、若者世代に対して支配的に振る舞ったらどうなるか。しかもこういう手合いは、自分が「運が良かっただけ」ということに自覚がなく、「偉大なる自分」に酔い、若者に対しリーダーシップをとりたがることだろう。そういう愚かな成金を、私たちはたくさん見ている。こんな人も永遠に生きて、若者に地位を与えない。こういう人間が少しずつ増えていく……というディストピアはきっと暗澹とした世界観だろう。

 やがて人間から死がなくなる。では人間は無限に増え続けるだけなのか。そういう社会になったとき、食料はどのように確保していくのか。この問題も解消されていない。老いと死がなくなる……というのは老いと死の問題を解消したとはいえない。どこかいつかやってくる死から逃げ続けているだけ……そんなふうにも見えなくもない。
 老いと死をどのように決着を付けるのか。これに対する答えを見出すのは、まだまだ先の未来のようだ。

次回

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