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8月21日 なにが危険なのかわからない現代人

日常の危険に無感覚になっている現代人

 アフリカのカラハリ砂漠に住むクン族の若者がアメリカ人に招待され、2年ほど田舎町で暮らすということがあった。
 この2年という期間、このクン族の若者は、道路が怖くて渡れなかったという。アメリカといっても田舎町だから、道路の車はさほど多くはない。せいぜい1、2分に1回車が横切る程度だ。しかしクン族の若者は「もしも何かあったら……」と怯えて、確実に車が止まってくれる信号のある場所でしか道路を渡ることができなかったという。
 このクン族の若者は臆病者なのだろうか? そうではない。アフリカではこの若者は、ライオンを相手に石槍一本で立ち向かう男である。
 そんな男であっても、車が怖い。油断したらあの車に攻撃され、一瞬にして死んでしまうんじゃないか……。そんな恐怖があって、とうとう道路を渡るということができなかったそうだ。

 このクン族の若者の危機意識は実は正しい。2021年、日本における自動車事故の死亡者数は2636人。日本でのこの数字は少ない方で、アメリカだと年間2万4166人。アメリカの人口は日本の2倍程度(3億3000万人)だから、割合で見ても多いことがわかる。「事故」という大きなくくりでみると、もっと数字は大きくなる。私たちは年間何千何万人も人を殺しているような殺人兵器が日常の側をビュンビュン走っているのに関わらず、その脅威についてなぜか認識の外に置いている。それどころか「車は危険ではない」とすら思っている節すらある。
 対するアフリカにおけるライオンによる死亡者は年間を通しても1人いるかどうか。そもそもライオンに遭遇するということ自体、ほぼいないんじゃないか、というツッコミを勘案しても、ライオンに襲われて死ぬ人は非常に少ない。車はライオンよりもはるかに危険なものなのである。
 こういう話をすると、「実はライオンはさほど人を襲わないんじゃないの??」と思う人もいるかも知れない。そんなことはない。ライオンは人間が目障りだと感じたら襲ってくる。非常に獰猛で力が強く、危険だ。車は人間のほうを向いて走っているわけではないかも知れないが、ライオンは人間を標的にして向かってくる。しかもカラハリ砂漠に住むクン族にとって、ライオンは同じ土地を共有する隣人だ。ライオンは人間が定めたテリトリーを平気で無視してくる。クン族の若者達は好きでライオンに石槍で立ち向かっているのではなく、やむを得ない状況に陥って、仕方なくライオンと戦う。しかし、それでもライオンで死ぬ人は年間1人いるかいないかなのである。

 アメリカ人に「怖いものは何か?」と尋ねると間違いなく次の3つのものを挙げる。「テロ攻撃」「飛行機墜落事故」「原発事故」の3つだ(日本人に同じ質問をしても、だいたい同じように答えが返ってくるだろう)。
 アメリカにとってテロ事件といえば2001年に起きた「911同時多発テロ」だ。あの事件によって非常に多くの人が亡くなったので、アメリカ人にとって鮮烈な記憶となっている。原発事故といえば1979年3月28日に起きたスリーマイル原発事故があった。あの事故によって、ペンシルバニア州のある一帯は、人の住めない土地になってしまった。飛行機墜落事故といえば2018年から2019年にまたがってボーイングMAX737型が立て続けに墜落し、乗客乗員全員が死亡するという凄惨な事故が起きた。この事故を切っ掛けにボーイングの安全神話は完全崩壊し、信頼も失墜したといってもいいだろう。
 確かにテロ事件、飛行機墜落事故、原発事故はいずれも引き起こされると甚大な被害を後にもたらす。一度に数千人という犠牲者を出す。しかし事故の頻度やトータルの死亡者数の話をすると、自動車事故のほうが多い。  ボーイングMAX737型墜落事故は2回の事故で合計346人が死亡した。事故に直接被害に遭っていなくても、間接的な被害に遭って失職した人も多いはずだ。大規模事故はどうしようもなく痛ましい痕跡を後に残すが、それでも年間2万人の交通事故死と比較すると、はるかに少ない。
 世の中には飛行機が怖くて、乗るのが怖い……という人もいる。でもそういう人であっても、車は平気で乗れるという。これも客観的に見ると認識の歪みがあって、世の中全体で見ると、車の事故が起きる頻度、死亡者数は圧倒的に多い。むしろ飛行機は安全な乗物だ。事故が起きるとしても数十年に一度くらいでしかない。警戒心を高めるとするならば、車に対してであるはずだ。だが「飛行機より車のほうが安心」と思い込んでいる人にはそのような心理が働くことはない。これはなぜだろうか。

 この事例に限らず、私たち都市生活者は危険に対する優先順位が相当におかしなことになっている。ごく身近にある普遍的な危機に対しては感性が麻痺し、ごく稀に起きる、メディア的なセンセーショナルな危機ばかり目が行ってしまう。そちらにばかり目が行って、回りがよく見えてないような状況に陥りがちだ。
 そういうところでいうと、クン族の若者が自動車を怖がったのは、実は正しい感覚だったといえる。この感覚がどのように身についたかというと、クン族が常に危険と隣り合わせの暮らしをしているからだ。

 アフリカの原生林では危険が非常に多い。サソリ、毒蛇、毒蜘蛛、毒アリ、スズメバチ、猪、ワニ……ありとあらゆる危険が隣り合わせた。そうした環境下で暮らしていかねばならない。部族社会のだいたいがこういう危険と同居して暮らしている。家の中が安全、というわけではない。
 そんな危険に対して部族社会の人々はどうしているかというと、常にあらゆるものに注意を払っている。自然のほんのちょっとした変化、揺らぎすらも決して見逃さない。少しでも気になることがあったら、それはよからぬことの予兆ではないかとあらゆる可能性を考え、その可能性を対処しようと先回りした行動を始める。
 こういう部族社会の人たちが持つ警戒心を、鳥好きおじさんで知られる社会人類学者のジャレド・ダイアモンドは「建設的パラノイア」と呼んでいる。
 ジャレド・ダイアモンドによれば、部族社会の人々はとにかくなんにでも恐れる、なんにでも警戒する。もしもの時の予備対策を万全に用意する。
 件のライオンの問題もそうだ。繰り返すが、ライオンは安全な生き物ではない。クン族はライオンと生活圏を共有しているから、常にライオンに対して警戒している。日常的にライオンから襲われないようにあらゆる予備対策をしているし、ライオンと立ち向かわなくてはいけないとき、というのは「やむなく」という時でしかない。ライオンに対して警戒に警戒を重ね、いよいよもうダメだ……という時になってやっとライオンと戦う決意をする。その戦いも充分に注意を払いながらだ。だからクン族がライオンに襲われて死亡する確率は非常に低い。
 ライオンばかりではない。部族社会の世界ではありとあらゆる危険がある。先にも挙げた、サソリ、毒蛇、毒蜘蛛、毒アリ、猪、ワニ、それに疫病も来る可能性もある。しかし部族社会の人々はそれで死ぬということはあまりない。サソリや毒蛇が危険ではないからか? そうではない、常にありとあらゆるものに警戒をしているからだ。そういった危険に対する警戒心は、たいていは「思い過ごし」で終わるのだが、そこまで日常的に警戒しているからこそ、彼らは危険と隣り合わせでありながら、そういったもので死ぬことはほぼないのだ。

 では私たち社会は部族社会と比較して、安全な環境で暮らしているのか。そういうわけではない。本当に安全だったら、車事故で年間2万人も死んでいない。もしも小規模血縁社会でこんな勢いで人が死んでいたら、村ごと消滅している。毎日いろんなところで結構な人が死んでいるのだが、その危機に対して、私たちは無感覚になっているのだ。その死が私たちの日常生活の中で見えなくなっているから、私たちは人の死を軽く考えるようになってしまっている。
 もしも警戒すべきものの優先順位がわからなくなった都市社会者たちがこういった森に入ったら、あっという間に猛獣のエサになることだろう。おそらくは1日持たない。身近なものに対する危険の実態も認識できなくなった都市生活者が、森における危険など理解できるはずもないからだ。
 部族社会の人々がこうした危険意識を持っているからこそ、都会にやって来たとき、車に対して過剰なくらいな警戒心を向ける。アメリカ人が年間数万人もの交通事故車数を出しているのは、こういうった警戒心を喪っているから、と言える。アメリカ人が部族社会の人々と同じくらい警戒心を日々持っていたら、交通事故の死亡者数はずっと低いものになるはずだ。

 クン族に限らず、ニューギニアの部族社会の人々もそうだが、こういった人々は基本的に「勇気」という感性を持っていない。というこれは例外もありな話なので、その例外については後ほど触れよう。
 小規模血縁社会や部族社会の人たちは、基本的に「勇気」という感性を持っていない。猛獣に襲われて逃げだした……という話をしたとしても、それで笑われるということはない。仲間が襲われそうになって逃げ出したとしても、後で「見捨てた」などと言われることもない。危険に対して身を守る対処をした……と評価される。
 これはある意味、本当の危険と隣り合わせの生活だからだ、ともいえる。
 一方のアメリカ社会では、マッチョであることが尊敬の対象になる(日本でもこういう傾向は強い)。身体的な強さを誇示し、無謀な挑戦にも立ち向かうような行動をする人ほど、評価が高い。より危険な環境に身を置き、そのことに動じないような精神の持ち主が称賛される。
 しかしジャレド・ダイアモンドによると、ニューギニアでそんなふうに振る舞っている人など見たことがないという。人々は体験話として、危険に遭遇したときに逃げたと話すし、そう話すことを恥だとは思ってないし、むしろそれで「生きていて良かったな」と言われる。アメリカや日本とはまったくの逆だ。
 部族社会では危険があったら真っ先に逃げること、これが分別ある人間の行動と見なされる。これも危険に対する意識が強いからかも知れない。もしも危険に対する優先順位が狂ってしまっている現代のアメリカ人が、ニューギニアの森でマッチョをアピールしたら、翌日くらいには死体となって戻るかも知れない(こういう場合、むしろ警戒心が強く「臆病な人間」と言われる人の方が生存率は高くなる)。それくらい危険のない社会で生きているからこそ、マッチョで振る舞えているのかも知れない。

 例外についてだが、アイヌ民族がそれだ。アイヌ民族は熊と遭遇すると、危険であるにも関わらず、立ち向かっていく。しかも熊は、アイヌ民族にしてみれば「神」に相当する生き物だ。その生き物に立ち向かい、殺そうとする。
 もちろん熊は人間などよりも圧倒的に強い。体格も大きいし、耐久力、スピード、腕力、人間が勝てる要素は一つもない。それでもアイヌ民族は熊に立ち向かっていき、勝利すればその人は「戦士」として称賛される。屠られた熊は、その後、丁重に扱われ、祀られ、イヨマンテ(熊送り)という儀式の末に葬られる。
 アイヌ民族もそれ以外のほとんどの生活ではニューギニアの人々と同じように徹底した注意と警戒をして生活しているはずだ。北海道という過酷な自然のなか、日々生存競争に立ち向かっているはずだ。
 ところが熊を見ると、なぜか「腕試し」として挑戦したくなってしまう……。これまでの説明と矛盾するじゃないか、と言われそうだが、確かにその通りだ。この行動規範の理屈はよくわからない。小規模血縁社会や部族社会の人々に「勇気という感性はない」と書いたが、世界にはこんな例外がある……という話だ。

 話は少し違うが、日本民族もやや不思議な気質を持っている。日本人は小規模血縁社会や部族社会ではないが、ちょっとこの話をしよう。日本では古くから「武士道とは死ぬことと見付けたり」といって、死を恐れぬ戦士となることが尊ばれた社会だった。長い戦国時代の最中そういう心理に至ったのか、それともその以前からそういう気質を持っていたのか。民族の中でも特殊な感性を持っていたといえる。
 こういった感性は大東亜戦争の最中まで確実にあって、日本兵は死を恐れる無敵の戦士だった。しかし死を恐れぬ武士道精神が息づいていたのはこの時代までだ。現代の日本人には武士道精神はひとかけらも存在していない。それは武士道の圧倒的な脅威を目の当たりにした当時のアメリカ人が、日本人を徹底して思想教育し、この感性を消滅させたためだ。現代でもアメリカ人的な「勇気」を示したがる人もいるが、それらは「武士道」とはまったく無関係のもので、ただただ自分を誇示したいだけの安っぽい自己アピールでしかない。
 アイヌにしても日本人にしても、こういう感性をもった人々というのは他に例がなく、もしかしたら極東アジア特有の心理によるものかもしれない。といっても、アイヌも武士道精神を持った日本人も、今の時代にはいないのだけど。

人が噂話をする理由

 人は常に噂話をする。
 部族社会の人々は意外とお喋りで、暇なときはただひたすらに噂話をしている。その噂話がどんな内容か、というと基本的には「食べ物」の話である。中には近所で起きた事件や、人にまつわる噂も一杯あるが、食べ物に関する噂話がダントツで多い。
 部族社会の人々が食べ物にまつわるお話を常にするのは、「食い意地を張っている」という理由ではない。彼らの社会では飢餓が隣り合わせだからだ。噂話にどんな意味があるかというと、噂話をすることで「情報交換」しているのだ。どこどこで飢餓が発生した、どこどこで大漁があった……常に最新の情報を得て、もしかしたら来るかも知れない飢餓に備えているのだ。
 一方アメリカでは人々は何を中心に噂話をしているのか、というとやはりセックスの話題が多い(日本でも多い)。下ネタを言い合うだけもあるし、あの彼と彼女はセックスしたとか、あの子とならやれそう……とか。なぜアメリカ人はセックスの話題ばかりするのかというと、セックスが好きだから、ではなく、セックスに飢えているからだ。充分にセックスの機会を得られていない。だからセックスの話題をする。
(日本においてやたらとエロコンテンツが旺盛なのは、もちろん多くの人がセックスの機会を得られてないからだ。充分にセックスしている人はポルノを見る必要はない。だから日本ではポルノが旺盛であるから、セックスレス夫婦が多く、性犯罪が少ない)
 部族社会の人たちはセックスの噂話をしないのか……というとほぼしない。倫理観が違うから……ではなく、部族社会ではセックスはしようと思えばいつでもできるからだ。それこそ13歳や14歳の年少でもセックスできるし、相手に不足することはない。セックスに飢えていないから、情報交換としての噂話をする必要がない。

 私たちはなぜ噂話をするのか。それは情報交換のためだ。人々が頻繁に情報交換したがるネタというのは、その社会の中で不足していたり、危険を感じていたりするものだ。部族社会では食べ物に関する噂話が圧倒的に多い。それは飢餓と隣り合わせの暮らしをしているから、常に最新の情報を得てないと不安だからだ。では私たちはなにに危機意識を感じて、情報を求めているのだろうか。
 ここが私たちの危機意識が歪んでいるという確実な証拠であって、私たち都市生活者が何を話題にするのか、というとそれは今「何が流行っているか」だ。いま人々は何を話題にしているのか――その「話題」そのものを話題にしている。どこの店が流行っているとか、どんな服が流行しているかとか、髪型は、メイクは……何が最先端で、人々の話題の中心か。そこで、その物の「質」の問題はテーマにならない。都市生活者が気にしているポイントはただ一点、流行の最先端かどうかだけ。それの良し悪しの判断は必要ないとされている。価値があったとしても、ほとんどの人は理解しない。
 それで人々はその最先端の話題に追いつけているか、その話題の枠組みの中に自分が間違いなくいるか、そのことばかり気にする。それどころか、話題の枠組みに入れていない相手に対して、社会的地位の格差が生まれるとすら思い込んでいる。都市生活者は最新の話題の中にいることに、「安寧」を見出しているのだ。

 部族社会の人々からすると、都市生活者のこの習性はかなり奇怪に映るだろう。
 というのも、まずそういった流行の話題は、別に生死を分ける問題ではない。その話題についていかなかったら、流行のアイテムを獲得してなかったら、明日から生活ができないのか? そんなわけはない。まったくもって無意味な行動を都市生活者は日々熱心にやっているのだ。これはなぜだろうか?
 ちゃんと都市生活者がこういう行動を取ってしまう理由は存在している。人は常に最新の情報を得たいと考える。部族社会においては、そういう情報の最先端にいなければ、飢餓の危機や猛獣に襲われる危機というのが間近に存在していた。そうした危機への対処が噂話であった。
 ところが文明社会の中では飢餓はほとんどなく、それどころか日常の危険がほとんどない世界になってしまった。それなのに私たちの心理には「情報の最先端にいなければ……」という意識だけが残ってしまった。ここで狂いが生じ始める。
 人々は世に溢れる、意味のない・価値のない情報の洪水に押し流されるような状況になってしまっている。最新のファッション、最新の映画、最新の流行……こういったものが噂話の中心になっていき、こういったものに意味はないが、あたかも意味があるかのように振る舞いはじめる。情報を得ているかどうかで社会的地位の格差が生まれる、というふうに錯覚する人々が生まれて、こういった人々が最新の情報に触れていない人に対して見下すような態度を取り始める。こうやって意味のないものに意味づけさせてしまう。
 現代の都市生活者はどこまでも哀れだ。最新の流行を追いかけたところで、将来やってくる危機を予防できるか、というとまったくできない。もしも身近で事故が起きたら、病気になったら、あるいは地震や津波が来たら……最先端の流行を追いかけたところで、こういったものの予防になるわけではない。危機に対して何も対処していないのに、「最新の情報を獲得できた」ということ自体に安心感を持ってしまう。優越感を得てしまう。そういった行動に何一つ意味がないのに関わらず……。

 私はというと、基本的にテレビメディアが大騒ぎしているものには興味がない。テレビで大騒ぎしていることの大半は、実際どうでもいいことだからだ。情報の誤りも多い。
 逆に、基準にしているところもある。テレビで大騒ぎするのか、じゃああれはどうでもいい話なんだな……と。私にとってテレビというのは、それくらいの扱いでしかない。

 このブログでは何度も話している話題に、「人間の認知能力は大したことがない」というものがある。人間の認知能力は、人間が思い込んでいるほど大したものではない。人間は世の中のあらゆることを知っているような気がする。だがそれは気のせいだ。
 部族社会の人々は森での生活を知り抜いている。どうやったらその環境で生存できるのか、私たちの知らないありとあらゆる知識を持っている。だが彼らの知らないこと、というのは「神」の領域となっている。彼らが感知できないこと、彼らの意思ではコントロールできないこと……それは嵐であったりとか地震や津波といった現象だが、こういった現象を、部族社会の人々は「神による作用」と考えていた。
 現代人の我々はこの世界のどこかに神がいるなんて思っていない。自然のあらゆる現象には見えざる仕組みがあるということを知っている。火山噴火を見て「神の怒りだ」なんて言ったりしない。マグマの活動がどうこう……という仕組みを知ってしまっている。こうした認識の世界の中で、「神」なんてものを信じることはできない。神というものは、自分たちの知識ではもはやわからないものに対して感じる「感性」のようなものだからだ。
 しかしだからといって都市文明人は世界のあらゆるものを認知できるか、というとそんなことはない。都市文明を獲得したといっても、人間の認識可能な領域というのは相変わらず限られた世界でしかない。そして「世界」というのは圧倒的に広く、圧倒的に複雑で、それらすべてを私たちは知り、認識することなんてできない。
(例えばあまり興味のない分野のスポーツで、史上最年少でプロになった人が現れた……みたいな話になるとニュースになる。しかしその後、続報がないとごく普通の人は「あの人はもういなくなったんだな」と考える。私の親はそういう考え方をする。そんなわけはない。ただテレビで話題にされていないだけで、その後もそのスポーツを続けているはずだ。でも多くの人は「話題にされてないのだったら、もうあれは終わったんだな」と考えがちになる。これが認識能力の限界だ)

 部族社会の人たちは自分の手の届く範囲の全てを知っている。森がどのようになっているのか、そこにどんな生き物がいて、どんな脅威があるのか。自分たちがどんな危機にさらされているのか、それをきちんと知っている。彼らこそ「地に足の付いた生活」をしていると言える。
 では都市生活者は部族社会の人々に対して、認識できる領域というのは大きくなったのか。そんなわけはあるまい。というのも都市生活者の私たちと、部族社会の彼らとは遺伝子的にはまったく同じ人間だからだ。部族社会の中で生まれた子供を引き取って、都市生活の暮らしを与えると、私たちとまったく同じように振る舞うはずだ。学力の格差が生まれることもない。遺伝子的な差異というものは存在しない。とすれば、認識できる物事の絶対領域は同じくらいのはずだ。
 だが私たち都市生活者は圧倒的に広く、圧倒的な複雑な社会の中で暮らしている。すると私たちは自分たちの食料がどこで生産され、どのように運搬され、どのように私たちの手元に入ってきているのか、何一つ知らないみたいな状態になっている。それどころか、私たちのほとんどは、そういった社会の仕組みについて考えようとすらしない。なぜ考えようとすらしないのか、というと認知能力の限界の外になっているからだ。私たちは地に足を付けた生活が、もはやできない状況になっている。どんなに知識を得たことで、もはや無理……という状況だ。
 そんな社会の中にいるから、私たちは世の中の危険や問題が理解することができない。日常的に見ている車が危険なものだという意識すら抜け落ちてしまっている。ネット上に溢れかえっている、無意味な情報に足元をすくわれ、その一つ一つと追わなければ……という意識に囚われてしまっている。そうした状況下だから、私たちの世界がどんな土台の上に立っているか、という問題についてはもはや考えることすらしなくなっていく。

 例えば10年ほど前、日本はTPP参加するしないで揉めていた。その当時、テレビで頻繁になされていた解説が、「もしも日本がTPPに参加すれば安い牛肉がどんどん入ってくる。牛丼の値段がどんどん下がる。財布に優しい。今すぐにTPPに参加すべきだ」という話だった。
 いや、待て。では国内の酪農家はどうなるんだ? その答えについては頭の良い人たちは「それは競争に負けただけで、“淘汰”だ。負けるやつが悪い。自己責任だ」だった。ではその相手国との関係が悪くなったら……それについては「そんなの、起きるわけないじゃない」だった。(という以前に、デフレ社会の日本でさらなる安い食品が入ってきたら、それは結果的にお給料も少なくなっていく……ということで……)。
 ところがそれから10年後の今、ロシアとウクライナ間で戦争が始まった。ロシアというえば小麦の大輸出国で、世界中で小麦が手に入らない問題が起きて、世界中で小麦が不足するか値段が上昇するという問題が起きた。ヨーロッパではロシアからガスを得ていたから、それも手に入らなくなってしまった。
 頭の良い人たちですら、こうなるという未来予測は全くできなかった。いや頭がいいと思っていたからこそ、こういう予測ができなかった。こういう未来もあり得るからこそ、ありとあらゆる予防策を国策としてやっておかねばならない。だがいろんな国でその予防策ができていなかった結果がこれだ。
(いまようやく「中国依存の経済」が危ないと気付いて、世界中で方針転換が始まった。今さらだ)
 世界中のどこかで災害が起きた、戦争が起きた、それだけで世界の秩序はドミノ倒し的に崩壊する。その現実を誰も想像することができなかった。「起きるわけないさ」と鼻で笑っていた。それがどうしてなのかというと、認識能力に限界があって、その外で問題が起きてしまったから。私たちが「問題だ」「危機だ」と考えることのできる領域は、せいぜいテレビメディアで日々大騒ぎしているような問題くらいしかなく、そこから外れた領域の問題について考えることすらできなくなっている。そこにこそ、本当に考えるべき問題、あるいは予防として備えていなければならないのに。それがわからない状態になっている。それが私たちが直面している危機である。

 それで私が普段から世の中の情報を収集しないのは、そういったものに意識のリソースを使わないためである。認識能力に限界があるとわかっているなら、そういう情報を収集しないのも、一つの知恵である。世の中にある無駄情報に囚われていると、本当に危ないぞ、というときの対処ができなくなる。だから無駄情報と思えるものには触れない。信頼のおけるごく数人の専門家の話だけを聞くようにしている。

人を死に追いやる食品――「砂糖」

 ところで、「糖尿病」の年間死者数がどれだけいるか知っているだろうか。2017年のデータを見付けたのだが、日本での糖尿病の死者数は1万3969人だ。交通事故の死者数はすでに書いたが2636人。新型コロナウィルスでの死者が2021年度では1万6771人。
 最近は新型コロナウィルスが上回ったが、その以前は糖尿病のほうが死者数が多かった。 (自殺者数はさらに多い。コロナウィルスの死者と糖尿病での死者を合わせたくらいある)
 最近は新型ウィルスの発見で大騒ぎをしているが、いや、待て。その以前から人々を確実に死に至らしめている危険な食品が私たちのごく身近にあるぞ。それは「砂糖」だ。
 日本では糖尿病による死者数はまだ少ない方で(日本食はまだヘルシーだと言われている)、さらなる飽食の国アメリカでは2019年度では10万人。糖尿病患者数で見ると3100万人だ(新型コロナウィルスによる死亡者は25万人。やはり新型コロナウィルスによる死者が上回ってしまったが、その以前は糖尿病が一番の脅威だった)。アメリカはまだいいほうで、中国の糖尿病患者はなんと1億1640万人。世界規模で見ると、糖尿病で死亡する人は420万人にもなる。
 砂糖はあらゆる国で人々の健康を破壊し、寿命を押し下げている。砂糖は車事故よりも原発事故よりも飛行機事故よりもさらに多く、確実に人の命を奪っている。私たちは砂糖に対してもっと警戒心を持っていいはずだ。だがそう言っても私たちは砂糖に対して警戒心を持てない。これも危機意識の優先順位が狂っているからだ。私たちは病気の危険を知りつつも、砂糖を食べることをやめられない。

 では人はなぜ糖尿病になるのか。それは飢餓に対する備えだった。人は得た糖分をその場で消費せず、脂肪に変えて蓄積する性質を持っている。これは飢餓が来たときに溜め込んだ脂肪を少しずつ消費して、少しでも飢餓状態の中、長く生きるためである。糖尿病になりやすい体質の人というのは飢餓状態に陥ったとき、生存率の高い人である。
 そうした備えで作られた体質であったのに、まさかの飽食の時代が来てしまった。これが生物学における誤算である。飢餓に備えたはずの体質が逆転して、その人間を死に至らしめるようになった。これが現代の糖尿病のもたらす問題である。
 だから飢餓に直面する危険を最近までもっていた人々ほど、糖尿病にかかりやすい傾向にある。例えばナウル島の人々の糖尿病発症率は2002年度において41%という驚異の数字を叩き出している。人口のほぼ半分が糖尿病を発症していた。
 一方でヨーロッパ人の中で糖尿病は少ない。なぜならヨーロッパ人はかなり早い段階で飢餓を脱して、その危険に数百年間直面しなかったからだ。
 もしも定期的に飢餓に直面していたら、糖尿病になりやすい人ほど生存確率が高くなる。ナウル島はまさにそういう環境で、最近まで狩猟採取の生活を送っていたが、文明人がやってきて彼らの領土内で鉱石の採掘を始め、その「採掘権料」だけで島民が働かなくても生きていける状況がいきなりやってきて、さらに西洋文化の食が入ってきた。そこで一気に人口の半分が糖尿病状態に陥ってしまった。ヨーロッパ人は飢餓に長らく直面しなかったから、糖尿病になりやすい遺伝子を持った人が減っていた……という背景がある。
 それで現在のナウル島での糖尿病患者は減少傾向にある(2010年には31%まで減少した)。なぜなら脂肪を蓄積しやすい人ほど、重症に陥って早々にこの世を去って行ったからだ。予防対策をはじめたのではなく、そういう体質の人がこの世を去ってしまった。それで減少が始まったのである。

 私たちの周囲には実は危険がたくさん潜んでいる。まず車が危ないし、砂糖はもっと危ない。しかし私たちはそういうごく身近にある危険に対して、無感覚に陥っている。ある日突然そういった事故に遭遇しても、ほとんど無抵抗だ。それ以上に、原発や飛行機事故やテロ事件といった、客観的に見て滅多に起きないような事件ばかり怯える。
 糖分の問題に関しては、むしろ逆で流行に載せられて過剰に摂取しようとすらしている。これも危機意識に対する認識が崩壊しているためである。
 何度も書くが、人間の認知能力には限界がある。その限界を日々の極めてどうでもいいような芸能人の熱愛だの不倫だのに振り分けているのは、実に無駄だ。そんなことは知らなくてもよい。だが哀れな私たちはそういった情報に振り回され続けるという宿命を負っている。
 そういうものに振り回されているうちに、私たちの生活基盤であるインフラが崩壊しても、おそらく私たちはその瞬間まで気がつかず過ごしてしまうのだろう。明日も昨日と同じようにスーパーに行けば食べ物が買えると思い込んで過ごすのだろう。カタストロフが目の前にあっても、それを認識することができない……それが私たち都市生活者が抱えている危ない面である。これは国家の中枢にいる人たちですら認識できない(むしろ国家の中枢にいる人ほど、この認識がない。まず彼ら官僚には「国民」という意識がなく、庁内の政治に認知能力のリソースの全てを使ってしまっているからだ)。もしかしたらテレビメディアは大騒ぎするかも知れないが、その騒動をテレビのこちら側の現実のものとして考えられないし、それに対して何かをしようという行動もしない。なぜなら私たちは危機意識の感覚が崩壊してしまっているからだ。部族社会のように、地に足の付いた危機意識を持った生活をしている人達の方が、こういう時の生存確率は高いはずだ。

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