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映画感想 トールキン 旅のはじまり

トールキン 旅のはじまり 予告編

 若い世代はひょっとすると、トールキンの名前を知らないかもしれない。
 もう20年近いトレンドの一つに「ファンタジー」があり、我が国でも「異世界転生もの」の隆盛が現在進行形のものとしてあるのだけど、ああいったもののイメージの源泉にあるものがトールキンだ。“エルフ”といえばもともとはイタズラ好きの小鬼のことを指していたのに、トールキンの『指輪物語』を経てからは金髪で耳がとんがった美しい種族のことしか思いつかなくなった。冒険者の行く手に立ちはだかるおなじみのモンスター“オーク”もトールキンの創造物だ。オークの名前は樹木のオークから来ているわけではない。オークはアイルランドのケルト人たちからすると“王”を意味する樹木であり、信仰の対象だ。オークの名前はどうやら古い言葉でクジラを示す言葉で、そこからアイデアを得たという説がある。
 他にもファンジーの源泉となったものの多くがトールキンの創造物で、ファンタジーはトールキン以前と以後でまるっきり違うものに姿を変えてしまった。どう変わったのかというと、子供向けの想像から、あたかも本物の歴史を持っているかのような、それこそどこかに私たちと同じような世界があるのではないか、という錯覚を抱かせるような実在感ある壮大な物語へと変わっていった。ファンタジーと呼ばれるものを永久に変え、そしてある形に留めた人こそ、トールキンである。

 そんなトールキンの創造がいかにして始まったのか? あるときいきなり『ホビット』『指輪物語』の世界観が天恵のごとくトールキンの頭の中に浮かび上がってきた――そんなわけはあるまい。
 今回の映画『トールキン 旅のはじまり』は少年期の体験から始まり、青年期、戦争の体験を通じていかにして『指輪物語』の舞台である“中つ国”ができあがっていったのか、が描かれていく。

 トールキンが生まれたのは南アフリカであるが、映画はイギリス時代から始まる。トールキンは3歳の頃家族で親戚に会うためにイングランドに渡ったのだが、その時に父親アーサーが脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。その後、イギリス、バーミンガムへ移住し、母親と弟の3人家族で過ごす。
 映画はすでに父親が他界していて、イギリスの田舎の風景から始まる。この清涼とした空気感を持ったイギリスの風景が、確かにホビット庄を彷彿させるものがある。イメージの源泉がここにあったのだな、と思わせる。
 ではホビット庄のモデルとなった場所がどこなのかというと、コッツウォルズのバイブリーやチッピンガム・カムデンであると言われている。コッツォルズで画像検索してみると、「ああ、なるほど。ホビット庄だ」と思わせる画像が一杯出てくるので、納得できると思う。ただし、映画ファンが聖地巡礼として訪ねるのはニュージーランドのほうだが。

 トールキンの母親は教育熱心で、早くから様々な言語に関する教育を受けていたようだ。トールキンは早熟の天才ぶりを見せており、4歳の頃にはすでにラテン語の書物をスラスラと読めるくらいにはなっていたと言われている。映画の中でも、母親とラテン語と思わしき言葉でのやり取りが見られる。それが母親との関係性を示す一場面として採用され、印象深い。

 父親の死去という悲劇はあったものの、イギリスの田舎での暮らしは、それなりに充実したものがあったが、間もなくそんな田舎と離れることになった。移住先というのがこれみよがしな工業地帯。明るく美しい田舎の風景が、いきなり真っ暗で『ブレードランナー』的な陰惨とした都市風景に切り替わる。
 ここで『指輪物語』読者ならピンとくるがホビット庄が工業化に毒され、穢されていく最後の展開を示唆している(映画版にはこのあたりの下りはない)。
 教育熱心だった母親は、間もなく2人の息子を残して死亡してしまう。映画では貧しくて医者に行けず、どんな病で死んだかわからない……と語っていたが実際には糖尿病。当時はインスリンが発明される以前だった。
 さらなる不幸のどん底に落とされるトールキン兄弟だったが、ここで面倒を見てくれたのがフランシス・モーガン司祭。母親が熱心にカトリック教会に通っていた縁から生まれた救いの手だった。トールキン兄弟はモーガン司祭のはからいで、フォークナー夫人の元に下宿することになった。映像を見てわかるように、母親がいた時代より生活のレベルが一気にアップしてしまう。まさに逆転人生である。

 さらにトールキンは名門キング・エドワード校への転入が決まる。逆転に次ぐ大逆転である。このあたりからイギリスの歴史ある美しい建築が登場してくることになる。その映像がまた素晴らしい。イギリス人はあんな素晴らしい建築の中で過ごし、学ぶことができるのか(羨ましい!)。学校の建築も素晴らしいし、さらに街の光景、ちょっとした小道に入ったところでもなにもかもが美しい。街まるごとデザインされ尽くしている感じがある。日本の大学でも中には美しい建築はあるのだが、イギリスの学校はそれよりもさらに美しい。
 このあたりでちょっと映画に引っ掛かりが出てくる。というのも、トールキンの弟が映画にほとんど登場しなくなってくる。映画のストーリーにほとんどコミットしないから省略されてしまった……というのはわかるが、しかし唯一の肉親である弟のエピソードがまるごと放り出されてしまっている、というのは少し引っ掛かりだ。

 ともかくもトールキンはキング・エドワード校在学中に3人の友人と出会い、これが唯一無二の親友へと関係を深めていく。
 この4人が近所のカフェで語らう場面があるのだが、ここでもピンと来るものがある。あれはフロド、サム、メリー、ピピンの4人だ。映画では「あのホビットの4人」とは明言していないが、見ているとふと重なるものがある。
 さらに映画は第一次世界大戦の映像へと何度も映像が切り替わっていくのだが、トールキンに付き添い、かいがしく面倒を見てくる部下の名前が「サム」。病気でフラフラしているトールキンに対して付きっきりで寄り添い、面倒を見てくれる様子は、どう見てもフロドとサムの関係性だ。次第に「あの指輪物語」の元素となる光景が、トールキンの体験の中に現れてくる。
 戦場の風景……塹壕がえんえん掘り進められ、爆撃で穴だらけ、雨水が大量に溜まっている風景は、映画『ロード・オブ・ザ・リング』でも描かれたあの場面、フロドとゴラムが出会い、旅をするかつての古戦場跡の風景と重なってくる。

 トールキンは3人の親友とともに秘密結社「T.C.B.S」を結成して、自身の創作について語り合う。詩、絵画、音楽、とみんなそれぞれ得意な分野を持っていて、得意分野は違っていたが傾向はみんな同じく古き伝承を好んでいた。
 この語り合いの場面というのがさすがに名門校出身らしく、引用物が多岐にわたっている。それにイギリスの歴史観が反映されている。
 でも実は現代のアニメファンの語り合いとどこか似たものがあり、ただ語るテーマが現代ではほぼ映像を通して見てきたものばかりになってしまう。こういう語り合いの場面はやはり時代を反映されるものらしく、何かの作品で明治の作家達が語り合っている場面を読んだことがあるのだが、やはり同時代の小説の話ばかりになる。そういうものが『トールキン 旅のはじまり』が娯楽メディアの発達がやってくる以前だから、伝承や民話がネタにされたのだろう。
 そういった伝承の蓄積が少年達の頭の中で過去の伝承とはまるっきり違う何かへと変えようとしていく。しかしそれはこの段階ではまだ形にならない。というのもトールキンはこの時、詩に興味があったのであって、小説を書こうとはまだ思う以前だった。
 同じ頃、トールキンの部屋の壁には、自身の創作メモが一杯貼られるようになっていく。その中に、エルフ語と思わしき文字があることをファンは見逃さないだろう。トールキンは語学の早熟な才能を枯らすことなく自身の体内で育み、そこから一歩進んでオリジナルの言語の創作に夢中になっていた。

 トールキンといえば言語学であり、オリジナルの言語を生み出した……ということから異世界の創造が始まるのだが、それは最初は“遊び”の中から生まれた。まず言語の創造があり、そこから「この言葉を話す人たちはどんな人で、どんな歴史を持っているのだろうか」という順番で創造の幅を広げていった。『指輪物語』は一朝一夕に誕生したのではなく、相当に長いトールキンの人生の体験から生まれていった。最初から何かしらを創造するアテがあって言語を生み出したわけでもなかった。

 同じ頃、トールキンは同じ下宿先のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちる。トールキン16歳で、ブラット19歳。16歳の頃の19歳といえば、ちょっと年上というか、「大人の女性」に映っていただろう。
 映画中でも描かれた場面だが、デートの最中、ブラットが踊り出す場面がある。ここからトールキンはベレンとルーシエンの出会いを着想する。ただ、このデートのエピソードは実際には戦後だったらしい。
 ブラットとのデートでワーグナーの『ニーベルングの指輪』を鑑賞しに行く場面も描かれている……映画での2人はこの作品を鑑賞することができなかったようだが。『ニーベルングの指輪』もまた『指輪物語』創造に欠かせない一編である。特に特別な霊力を持った「指輪」と、それを奪い合うために殺し合いを始めてしまうファフナーとファゾルトの場面は、そのままスメアゴルとその友人が指輪を取り合って殺し合う場面へと結びつく。
 また映画の初めのほう、母親が物語を語って聞かせている場面があるが、ジグルトやドラゴンといった言葉が出てくる。この物語の具体的なタイトルが何であるかわからなかったのだが、フケーの『大蛇殺しのジグルト』だろうか。というのも「ジグルト」や「ジークフリート」を主人公とする物語はドイツをはじめとして非常に多く、あれだけだとどのバージョンのものかよくわからなかった。だが、これらの物語は最終的にワーグナーの『ニーベルングの指輪』へと繋がり、その系譜が『指輪物語』へと繋がっていく。『指輪物語』とは実は、その以前からヨーロッパ各地に伝わる英雄伝説を正しく受け継いで花開いた作品でもあった。

 トールキン親友4人との語り合いは、今時の言い方をすれば「中二病」だ。だが創作というのは、「恥ずかしげもなくさらけ出すこと」が重要なポイントになる。子供の頃――特に中学生高校生の頃になるとみんな絵を描いたり詩を書いたりするものだ。だがそこからプロになるという人はごく少ない(最近は非常に増えたが)。「中学生の頃は漫画描いたけど、それきりだなぁ」という人の作品を見ると、これが案外うまかったりする。どうしてそこで辞めてしまったのか、というと興味がなくなった、創作意欲が続かなかった、というのもあるが、「ふと我に返って恥ずかしくなった」というものが一番多いように感じる。
 創作というものは全てにおいてそういうものだ。はっきりいえば、深夜の勢いで書き上げたラブレターみたいなものだ。翌朝読み返してみて「なんだこりゃー!」と恥ずかしくなる。そこでやめてしまうと、作家になることはできない。「恥ずかしげもなく続けること」こそが実は大事だったりする。

 トールキンの場合は、架空の言語を作るというものが、あくまでも友人同士の中で起きた小さな遊びだったようだ。トールキンには言語学に関する生まれ持った才能もあり、その知識や能力を生かしたものを生み出してみたい、という欲求もあったのだろう。作家とは自分が研究し続けていることを作品の中に反映させたいと思うものだ。
 それを“遊び”の中で創造の切っ掛けにする。“遊び”に過ぎないものだからずっと楽しいし、仲間内だけの秘密の合い言葉になるし、遊びに過ぎないから「深夜の勢いで書いたラブレター」のような恥ずかしさも来ない。
 そういう遊びがいつの間にか熟練した技術に育ち、プロのお仕事になっていった。そういう絵描きや音楽家は世界中にいくらでもいる。すると「漫画家になるぞ!!」という強烈な意思を持って絵の勉強をするよりかは、“遊び”のなかで技術と才能を育んだほうがいいのかも知れない。トールキンはどちらかといえば“遊び”のほうだったようだ。そういった遊びを育み続けるのにもっとも大事なものとは何であるか……というと“仲間”である。トールキンはそういう仲間に恵まれた青春時代を送っていた。

 さて、物語は大学に入り、一度は退学の危機に直面するが、とある教授との出会いによって退学は取り消しになり、勉強を続けられるようになる。
 その教授とはいい仲になり、教授に自作の英雄伝説を聞かせている最中、「戦争が始まったぞ!」という知らせが届く。トールキンと教授が語り合うベンチの前に大勢の人が繰り出し、大騒ぎになる。みんな笑顔で、国粋意識に燃えあがっている。そんな人々の前で英雄伝説を語るトールキン……。
 少し映画から離れる話をするが、映画『ロード・オブ・ザ・リング』が公開されていた頃のこと、出演者はファンに向けたサインを書き、そのサインに映画中の台詞を書き入れようとした。が、躊躇した。
 というのも当時のアメリカはブッシュ大統領による戦争が始まった直後だった。
「これは現実の戦争を肯定していることになるのか? ブッシュ大統領の戦争を肯定することになるのか?」
 出演俳優の手が止まった。
 だが間もなく思い直した。これは現実のあの戦争とは違う。報復の名を借りた、石油を得るための欺瞞に満ちた戦争とは違う。純粋な英雄の物語だ。崇高な目的を成し遂げるために、命がけで使命を果たそうと戦った戦士達の群像劇だ。そう考えて、俳優はファンに映画中に出てくる台詞を送った。
「現実の戦争と、空想の中の戦争」
 実際の戦争が起き、この2つが錯綜する。トールキンは第1次世界大戦での体験は後の創作にはまったくの無関係だ、と証言し続けている。実際はどうだろう? 現実の戦争の醜さを体験したから、物語の中での戦いはどこまでも高潔に、偽らざる英雄の物語にしたいと思ったのではあるまいか。それこそ、昔から語り継がれてきた英雄物語のように。世界戦争という陰惨な時代を経験したからこそ、あの時代にはありえないくらいの高潔さと無垢さを備えつつ、リアルな空想物語が必要とされ、受け入れられたのではないだろうか。
 映画のほうも明らかにそちらのほうを重視して描かれている。トールキンのファンとしては「違うぞ」という部分もあるが、果たしてどうだろう……。

 創作の源泉には幸福な体験と不幸な体験の2つが必要だ。幸福な経験がかつてあった幸福を思い出す物語になり、不幸な体験が忌まわしき暴力物語の源泉となる。
 私個人的な体験を話すと、概ね不満や鬱屈が創作の源泉となっている。自由にのんびりしている頃、というのは何も新しいストーリーが浮かばない。不満や苛立ちが意欲の源泉だし、そうした環境に晒されると間もなく色んな物語が頭の中で勝手に形作られていく。どうも私の場合、現実では達成できなかった“リベンジ”が物作りの源泉になっているらしい。
 幸福な思い出は、あまり創作のヒントになっていない。どうしてなのかわからないが、私の個人的な人間性に関わるものだろう。もし私の作品の中に「幸福」を感じるところがあったら、それは私の体験がベースにあるのではなく、不満や苛立ちの反映だと思ってくれていい。強烈な怒りがあったから、安らぎを求めたい……という欲求の源泉になる。怒りの経験が全て暴力描写に繋がるか、というとそうではなく、その逆の空想を生み出すこともあるのだ。

 一応断っておくが、「作家は自分が体験したことでしか作品を書くことができない」とよく言われるが、そんなことはない。だったら殺人が出てくるお話は、みんな殺人を経験していることになってしまう。そういうものを想像するために、人間には“想像力”というものが備わっている。
 ただ想像するには源泉となるものが絶対必要になる。完全なる“無”から何かを作ることはできない。“ヒント”が必要だ。今の世代だと、そのヒントになっているものが漫画やゲームになりがちなので、だからみんな似たり寄ったりの異世界転生ものが大量生産されたりしてしまう。みんな同じものを経験して同じものを目指すからああいった現象が起きてしまう。ヒントになるものは幅広く、かつ奥深くいろんな知識を得なくてはならない。
(現代人は物語作りのヒントを映像から影響を受けすぎてしまっている。どんな作品でも、見ていると「ああ、あの作品に影響を受けたな」と背景作品がわかってしまう。簡単に背景作品が見えてしまう、ということはそれだけ薄い体験の中からでしか描かれていない、ということだ。そういう作品ばかりになっている危惧はある)

 映画『トールキン 旅のはじまり』はかなり長いいろんな経験を経て、それが最終的に『ホビット』『指輪物語』に帰結してく過程が描かれていく。ということは、かなり長い時間をかけて創作の源泉を溜めに溜めた上であの大作を発表したのだな、ということがわかる。トールキン個人の体験がいかに創造のヒントになり得たのか。それを描いた映画で、作品のファンとしては興味深いエピソードが一杯であった。
 ところで、トールキンは映画を見てわかるように、職業作家ではない。トールキンはそのまま大学の教授になり、生徒に言語学を教える先生となった。こちらの職業が本職で、“息抜き”で書いていたものが作品になるとはどうも思っていなかったようだ。『ホビット』にしても自分の子供達を喜ばせるために書いたものだったわけだし。
 職業作家ではないからトールキンの作品はいささかおかしな点もある。例えば『指輪物語』は冒頭のホビット庄の場面が長すぎ。バランスが悪い。あそこで挫折してしまう人が多いそうだ。指輪を巡る設定に関しても不明瞭だし矛盾もある。例えばサムがフロドを救い出す場面、サムは指輪をはめて砦に潜入する。おいおい、指輪をはめるとナズグルに存在が感知される設定はどこへ行った(映画版では指輪ははめない設定に変更された)。それに、指輪の効果についていまいち曖昧なところがある。指輪を嵌めると透明人間になる設定はわかるが、それ以外の特性についてはいまいちよくわかっていない。指輪の魔力とは結局何だったのか、最後まで不明のままだった。
 『指輪物語』全体を見通しても矛盾があったり不充分だったりとおかしなところは多い。それはトールキンが職業作家ではなく、仕事の息抜きで少しずつ書き足していったものから生まれたものだからだ。『指輪物語』が大ヒットしてからはトールキンは作家として注目されるようになったが、私が思うにトールキンは最後まで職業作家ではなかった。しかしだからこそ、同時代の作品に捕らわれない、意想外の創作が生まれたのだろうとも思う。

 なかなかいい映画だった。なにより映像がよく、どの場面も美しいし、シーン一つ一つの意味づけもしっかりしている。現実と幻想のバランス……トールキンが現実の体験からどのようにイメージを育んでいったのか。これが変に突飛ではなく、ぼんやりした影だったりと、その描写がかっこよさもあったし、品があった。きちんと映画が撮れる人の作品だということがよくわかる。中盤からイギリスの由緒正しい学校のシーンが出てくるが、ここからの建築物がもう一つの主役となる。あの建築物を見ているだけでお腹一杯になる。
 映画中に描かれたことがどこまで事実かはさすがにわからないが、トールキンの体験がいかにして創作の元素になっていったのか、人生の物語とあの『指輪物語』との関連が形作られていく。トールキンの人生こそが実はもっとも優れた冒険だった……ということがわかる作品になっている。
(小さな場面だが、トールキンが文字を書くシーン。「d」の描き癖に見覚えがある。映画で出てきたフォントとやたらと似ている)

 ただ、あとで気付いたのだが、この映画のストーリーとあの『指輪物語』の創造にどう結びついたかわからない……という人が結構いたそうだ。確かに、知っている人からすると「ああ、あれがそうだな」と思わせる場面が一杯あったのだが、そこまでじゃない人はなんだかわからなかったかも知れない。例えばブラットとのデートシーンがベレンとルーシエンのとあるシーンの元ネタになっていた……とか元々知っていないとわからないもの。
 実は私も映画を見ている間に「ああ、あれか」とはすぐに気付かなかった。後で思い返して、やっと「ああそうか、わかったぞ」と気付く場面が多かった。確かにこの映画で描かれたことと『指輪物語』の関連性は薄く感じる。よくよく見ると『指輪物語』のあのシーンの原体験的なものを描いている、という場面がきても、その体験と創作を紐付けるような描かれ方をしていない。特に『ニーベルングの指輪』が『指輪物語』に強烈な影響を与えるわけだが、映画では単なるデートシーンでしかないわけだし(しかも観ることができなかったわけだし)。友人とのやりとりから様々な創造の源泉となる体験があったはずなのだが、映画を見ているだけではまずわからないようにできている。どうしてこうもわかりづらく作っているのだろう?
 これはひょっとすると、映画の製作が「フォックス・サーチライト・ピクチャーズ」だったからじゃないだろうか。『指輪物語』の映画製作権利を持っている会社はニューラインシネマ。作品の権利を持っていなかったから、詳しく言及することができなかった……ということじゃないだろうか。
(ついでだが映画『ホビット』の製作はワーナーブラザーズ。このあたり、かなりこじれた問題が起きたので省略するが、『ホビット』はスタッフ・キャストともに完全に『ロード・オブ・ザ・リング』と一緒だったのに、製作会社が変わるという事態が起きてしまった。それで『ホビット』では『ロード・オブ・ザ・リング』の物語に関する具体的な言及がなかった)
 映画自体の方針もあったかも知れないが、もっと大きなところ、つまりは『指輪物語』の権利を持っていなかったから、がわかりにくい作品になる原因になってしまったのではないだろうか。


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