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映画感想 沈黙ーサイレンスー

サイレンスー沈黙ー 予告編

!!ネタバレ注意!!

 映画は1966年に遠藤周作によって描かれた小説『沈黙』に基づく。
 お話はローマ・イエズス会のもとにもたらされた一通の手紙から始まる。偉大なる師であるクリストヴァン・フェレイラが棄教したという。フェレイラが棄教したことを信じられないロドリゴとガルペは、日本へ旅立つ決意を固める。

 という冒頭で始まるこの映画。フェレイラの弟子として登場してくるのがアンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーの2人。スパイダーマンとカイロ・レンである。スパイダーマンはともかくとして、カイロ・レンは銀河的に懺悔すべき罪を背負っている男である。スーパーヒーローを選んでキャスティングしたわけではないと思うが、キャリアを照らし合わせてみると、なかなか面白い。この2人がキリスト教の教えを求めて、江戸期の日本へ旅立つというお話である。

 まずロケーションが素晴らしい。ロケハンはどこだろう? と調べてみると台湾。開発が進みすぎた日本ではもはや見ることができない、ジメジメとした鬱蒼とした暗い森が表現されている。その森をどうにかこうにか切り拓いて作り上げてに過ぎない、粗末な村の描写。こんなところに人が住んでいるの……と問いたくなるようなボロの家に、住民はボロ布をどうにか着物の形に整えただけに過ぎないものを身にまとっているだけ。
 ただひたすらに貧しい、古い時代の村落の光景を再現している。貧しくて恐ろしい光景だけど、一方でどこまでも美しい。自然が本来持っている影の深さと、恐ろしさの向こうにある美をがっつり描いている。あえてロケで、自然光の中で撮影する。だからこそ作品が根拠を持ち得る映像になっている。
 俳優の撮り方だけど、俳優達の皺の形や肌のざらつきがこれみよがしに描写されている。日本の映画・ドラマだとどうにも(例え衣装がボロボロにだったとしても)俳優の肌をツルツルにして、アニメみたいな顔にして撮影するほうが好まれがちだ。でも前から思っていたが、日本人の顔は『沈黙』のようにむしろ皺や肌のざらつきを捉えたほうが面白くなるはずだ。特におじさん俳優の顔を撮る場合には。時代背景の表現もあるが、日本人の顔のざらつきを表現した描写がいい味を出している。

 マカオから密航という形でどうにか日本へやってきたスパイダーマンとカイロ・レンことロドリゴとガルペ。
 この初めのシーンに少しかわいらしい瞬間がある。差し出された食事に飛びつくロドリゴとガルペだが、食事前のお祈りを捧げる村人達に慌てて食べたものを吐き出し、村人達に倣ってお祈りを始める。ここはかわいいシーンだし、2人がまだ未熟な神父であるということがわかる。

 時代は島原の乱が収束した後の長崎だ。幕府による徹底したキリシタン弾圧が始まり、信者への容赦のない拷問が行われていた頃である。キリシタンであろうとすること自体、この時代では危険な行いだというのに、貧しい村落の人々は信仰をやめようとはしない。頑ななくらい、信仰にしがみつこうとしていた。これはいったいどういうことだろう?
 それは人間たる根拠を求めてだった。人はどうして善良であるべきなのか。どうして良き行いをすべきなのか。なぜ悪を行ってはいけないのか。ごく普通に暮らしていて、漠然とした性善説に従っていれば善良ある暮らしが送れるか……といえばそんなわけはない。この時代の人々は、良き人間である、という根拠をキリスト教の教えの中に見いだしていた。
 また“華やかりし江戸時代”とはいえ、地方の山深いところへ行くと、まだまだ人々の暮らしは貧しいものだった。背景には暗闇落ちる森が迫っており、山の獣ばかりではなく、得体の知れぬ魔物にも怯えていた時代である。そんな時代にあって、自分たちは山の獣とどう違うのか。人間というのなら、何を根拠に人間たる証が得られるのか。
 こういう時代は“狐憑き”といって、穏やかに思えた人間が突然理性を失い、獣のように振る舞い始めることもあった。人間と獣の境界線が曖昧な時代だった。魔物による誘拐もあった。隣人が突然姿を消す――当時は“神隠し”と呼んでいたが、いつ魔物にさらわれるか、という不安もあった。
 だからこそのキリスト教である。イエス・キリストならば自分たちが人間であることを認めてくれる。善良であるという基準を示してくれる。体内に芽生えた悪を許してくれる。貧しさと不安が背景にあったからこそ、人々は危険であってもキリシタンであることをやめなかった。

 それでは当時の幕府はどうして徹底したキリシタン弾圧を行っていたのか?
 それは危険だったからだ。大陸ではキリスト教を中心とする宗教戦争が何度も行われていた。キリシタンを認めれば大陸で行われている宗教戦争の禍を持ち込むことになりかねない。特にキリスト教信者の手による虐殺や悪行は、歴史を掘れば掘るほどいくらでも出てくる。それこそ古代史から現在にかけて、そのリストだけででっかい辞典が作れるくらいだ。この世の凄惨たる歴史を掘り下げれば、もっとも危険な殺戮者とは実はキリスト教徒である……という結論に達してしまうだろう。
 また実際キリスト教の中にも危ない連中は一杯いた。日本人はキリスト教徒といえばいかにもお花畑みたいなイメージを持つかも知れないが、実際は武闘派や過激派が一杯いた。キリスト教からしてみれば仏教とは“異教”であり“邪教”に過ぎないから、仏教寺の焼き討ちを本当に計画していた。南米では発見された未知の文明を「邪教に過ぎない!」と彼らを弾圧した挙げ句、貴重な歴史文献をまるごと焼いてしまった。これが後の考古学研究を著しく後退させることになった。
 それにキリスト教徒は人身売買にも手を染めていた。キリスト教徒の言うまま船に乗ってヨーロッパに行くと、そのまま奴隷商人に売られた……そんな話が一杯あった。イタリアの売春宿に日本人女性がいて、事情を聞くとキリシタンだった……という話は本当にあったそうだ。キリスト教徒ならばみんな善良……かといえばそんなわけはない。奴隷商人と通じていたキリスト教徒も一杯いたのだ。
 大陸で展開されているありとあらゆる混沌の源泉にはキリスト教がいて、それを知った幕府は危険とみなし、日本から排除しようと考えた。太平の世を守ろうと考えるなら、キリシタン弾圧は当然の処置であった。
 ところが映画『沈黙』ではこのあたりの事情や経緯がまったく描写されておらず、ただただ凄惨なキリシタンへの拷問シーンばかりが描写されてしまっている。キリシタンを巡る問題の一面しか描かれなかったことへの不満はあるにはあるが、しかし映画『沈黙』は歴史教育番組ではないし、あくまでもロドリゴの目線から長崎で何が行われていたか、あるいは自身の信仰のありようを描いた作品だから、そこは仕方ない。

 映画『沈黙』が何を意図していたのかというと、キリシタンとしての信仰のありよう、未熟で若い神父の成長物語だ。
 2人は長崎の貧しい村に行き着くが、必ずしもうまくいくとは限らない。言葉の通じない村人達に苛立つこともあるし、日中はほぼ監禁生活となってしまうことへの鬱屈も抱える。気晴らしに外に出てしまったところを発見されてしまう、という失敗も犯す――これが五島へ行くという切っ掛けになるわけだが、場合によっては非常に危険だった。
 ロドリゴが長崎奉行に逮捕されてしまった時、出会ったキリシタンに「殺されてしまうんだぞ!」となかばパニックになりながら叫ぶが、「パライソに行けるのでしょう」と村人達の穏やかで決然たる様子に、慌てて取り繕うとする場面もある。それだけ未熟だという描写だ。
 やがて最初に入った村に奉行達がやってきて、拷問が始まる。この映画における拷問シーンが何を現しているかというと、若き神父たちが自身の信仰のありように疑念を抱かせるためにある。「それでも信仰を続けるのか?」という問いと戦う場面でもある。
 目の前であんな凄惨な拷問が行われているのに、なぜ神はなにも言ってくれない? 人々を救いにやってきたはずの自分たちはなぜ彼らを救うことができない? それどころかむしろ彼らの苦しみを深めているだけではないか!
 人々を救うはずの若き神父は、必死に神の言葉を聞こうとする。だが何も答えてくれない“沈黙”。ロドリゴは次第に神に対して迷いと疑いの念を募らせていく。

 映画『沈黙』の凄いところであり凄まじいところは、その拷問の場面をえんえん描いてみせたことだ。「見せない工夫」とかそういうものではなく、拷問で体が衰弱し、とうとう死んでしまうまでをしっかり描いてみせる。役者たちの入れ込みようも凄い。ボロ布でしかない着物を脱ぐと、出てくるのは骨の浮き上がった痩せた体。その体が波にさらされ、次第に体から力が失われていくまでの過程を表現している。
 そんな拷問の場面を、ロドリゴは遠くでただ見ているしかできない。いくら祈っても彼らの苦しみが和らぐこともなく、奇跡が起きることもなく、粛々と拷問が進行してしまう。ロドリゴとガルペはただ泣きながら見ているだけ。ここでロドリゴはどうしようもない無力感に打ちのめされてしまうし、信仰に揺らぎが生じてしまう。

 この物語におけるキチジローは「裏切り者のユダ」の役割が与えられている。銀貨300枚でロドリゴを売り渡してしまうシーンがあるが、あれは間違いなくユダのメタファーだ。
 キチジローはかつて踏み絵によって助かったが、家族全員火あぶりで失ってしまう……というトラウマを抱えた男だ。自分だけ生き残ってしまった、という罪悪感。そのうえに“裏切り”という罪を被り続ける男。
 要はこの男に“赦し”を与えることができるか? ……がこの作品最大のテーマ。あるいはロドリゴにおける試練となっている。
 最初は家族を見捨てて生き残ってしまった、という身の上話にロドリゴは同情しキチジローに赦しを与えるが、その後ロドリゴは奉行がやってきたとき十字架に唾を吐き捨てて1人で助かってしまうし、その次はロドリゴを裏切って売り渡してしまう。
 何度も罪を被り、生き残ってしまうキチジロー。キチジローは裏切った後だというのに「告解を聞いてくれ!」とロドリゴの前に駆け寄ってくる。これはキチジロー=ユダこそがもっとも“赦し”を求めていたからだ。だから裏切りつつ、キリシタンを辞めることができなかった。他のキリシタン達が抱えてしまうかもしれない心の闇を、たった1人で背負って、呪われてしまった存在がキチジローだ。キチジローのような人間に赦しを与えることができるか、がキリスト教徒にとっての試練だといえる。
 そんなキチジローを、ロドリゴは次第に信用しなくなっていく。牢屋でキチジローの告解を聞いた後、ロドリゴはきわめていい加減な赦しの言葉を与えてしまう。これはロドリゴ自身がまだ未熟だから、という証。

 村人たちはみんな決然たる意思で神を信じているが、ロドリゴはまだその域に達しきれずにいる。ロドリゴが逮捕された時に出会うモニカたちは「パライソに行ける」と迷いなく言う。彼らのほうがよほどキリスト教徒として覚悟が決まっている。
 キチジローはというと神を信じてはいるが、しかしまだ信じ切れていない。だからロドリゴとキチジローは同じくらいのステージにいる。キチジローもロドリゴと同じく苦しみ続けている。1人だけ助かったが、周りの人間は拷問に遭い殺されてしまった。自分は彼らを助けることもできないし、いくら祈っても救いが訪れない。ロドリゴは神父だからまわりが助けを求めてやってくるが、キチジローはひたすらに孤独。キチジローはたった1人で背負ってしまった罪と、見殺しにしてしまった罪悪感と戦い続けなければならなかった。
 ロドリゴも次第に同じ苦しみを抱えることになる。周りが拷問に遭って殺されていくのに、自分だけが助かってしまう。ロドリゴもキチジローと同じ立場に陥っていく。
 映画はロドリゴの目線で物語が進行するから、キチジローがどんなトラウマを抱えているかわからないし、見ていると行動原理が不明でふとすると存在自体が気持ち悪く見えてくる。あえてそのように描いている。『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムに見えてくる。
 この裏切り者にどうすれば“本当の赦し”を与えることができるか。ただの同情心に基づくものではなく(最初の告解はただの同情心)、キチジローに必要なのは、“真の赦し”だ。ロドリゴにとっての戦いとは、その赦しを与えられる人物になることだった。

 ロドリゴが奉行に逮捕された1時間20分ほど、興味深い対話がある。

通辞「気づかぬようだが、我々には我々の宗教がある」
ロドリゴ「考え方が違うだけだ」
通辞「あなた方は仏陀は人間だという。“ただの人だ”と」
ロドリゴ「仏陀は死ぬ。我々と同じだ。創造主ではない。あまりにも無知だ」
通辞「パードレ。そう考えるのはキリスト教徒だけ。仏は人が到達できる存在だ。煩悩を捨て去り、悟りを得て達する。あなた方は迷妄に縛られ、それを“信仰”と呼ぶ」

 キリスト教のユニークなところは“神体”が存在しないこと。“神”がこの世に存在しない。この世に存在しないから、いるかどうかわからない。そういう仮想のものを信じ切れるかどうか……がキリスト教のある意味の本質であるといえる。
 キリスト教はいまや世界宗教だから勘違いを起こしやすいが、キリスト教は宗教の中でもかなりユニーク、異端の宗教である。キリスト教以外に神体のない宗教……きっとあるはずだと思うけど、考えてもパッと出てこないくらい、類似がないタイプの宗教だ。
 一方仏陀は実在の人間で、誰もが仏になることができる。そんな仏教からすると、存在するかどうかわからない神を信じているキリスト教は“迷妄”に過ぎないと考える。
 そう言われてロドリゴも興奮気味に「仏陀は死ぬ!」と言い返す。肉あるものに過ぎない仏陀は信仰の対象にすべきではない。キリスト教からしてみれば、仏教は“邪教”になるのだ。
 “考え方の違い”といえばそうだが、しかしお互いが強情になってすれ違う場面。キリスト教、仏教の考えの違いを表したシーンだし、お互い未熟な一面を晒したシーンでもある。まずキリスト教も仏教も対立を望んではいない。キリスト教は愛を持って受け入れよと語っているし、仏教は欲を捨てて受け入れよ語っている。言い方や方法論は違えど、実は似通った結論を語っているキリスト教と仏教だ。しかしこのシーンではお互い原理主義になって自身の教えを対立の具にしてしまっている。このステージの2人だと、いくら言い合いを続けてもえんえん平行線を続けるだけで和解することはない。“考え方の違い”で言い合いをしてしまっていることがロドリゴの未熟さだ。

 キリスト教は“神体”がない……とはいま書いたとおりだ。だから踏み絵も十字架に唾を吐き捨てる行為も、それ自体は本質ではない。神体がないのだから、いくら踏み絵をやったところでその信仰のありようが変わるわけがない。しかし踏み絵という行為に捕らわれすぎている。ロドリゴはまだキリスト教という“形”に捕らわれているに過ぎない。ロドリゴにとって踏み絵は、それを乗り越えて信仰を続けられるか、の最大の試練だ。
 このあたりで『最後の誘惑』という映画にも通じてくる。罪人としての死刑を乗り越えて、それでも神を信じることができるのか? 神よ、それではあまりにも理不尽ではないか! どうして救ってくれないのか! ……これを乗り越えて神を信じ続けられるか、が『最後の誘惑』だった。そんなキリストが人間的な迷いを描いたからこそ、世界的に非難された映画だった。
(似通ったテーマを持った作品に、リドリー・スコット監督『キングダム・オブ・ヘブン』がある。信仰が宿るのは理性とハート。だからエルサレムという場所は確かに聖地だが、重要というわけではない)

 映画の後半に入り、ロドリゴはフェレイラ神父と会うことになる。フェレイラはすでに仏教徒に帰依していて、沢野忠庵という日本名を名乗っていた。ロドリゴはフェレイラと会えて感動するが、間もなくキリスト教を捨ててしまったフェレイラを軽蔑して罵るようになる。
 だがフェレイラはすでに「キリスト教の本質は形ではない」ことに気付いた人だった。だから仏教徒としての格好をしている。
 フェレイラはロドリゴに対して「日本にやってきたキリスト教は形を変えてしまった」と諭そうとする。
 例えば「神体」の問題でも日本のキリシタンは神父から何かしら“物”をもらって「ありがたやー」と手を合わせてしまう。なぜそうするかといえば、それが日本的なやり方だから。神体に向かって「ありがたや」というのが、日本が長年やってきた方法。これは江戸時代のみの話ではなく、現代でも日本人はカリスマ(アイドル)に関係するものを持ち帰って、「ありがたや」と拝み、それを日々の活力としている。こういう性格はずっと変わらない。いくら日本のキリシタンといっても、本来のキリスト教の考え方と根本的に違う。
(日本というのは特殊な国で、あらゆるものは日本に入ってきた時点で、“日本化”してしまう。今風に言えばローカライズで、どこの国・文化に行ってもローカライズはあるのだけど、日本のローカライズは少し特殊。日本的な方法で解釈し、作り替えてしまう。日本に来れば何でも小型化してしまう……というのもこれだ。宗教もやはり日本化してしまう)
 日本のキリシタンはキリスト教のようでキリスト教ではない。しかしそれこそ本質であって、キリスト教の形にこだわって、西洋的な方法や暮らしを押しつけても意味がない。それは傲慢だし、支配者のやり方だ。フェレイラが言下に言いたかったのは仏教徒という形をとっても、キリスト教徒としての信仰は続けられる……ということだった。フェレイラは本当にキリスト教を捨てたわけではなかった。だがロドリゴはなかなかそれを理解できず、受け入れられずにいた。

 『沈黙ーサイレンスー』素晴らしい映画だった。キリスト教とはなんであるか? その考えに徹した作品。若き神父が徹底的に悩み、苦しみ、そのうえで結論を見いだしていく。“結論”の部分はあえて映画の中で声高に叫ばず、胸の内だけで静かにもっている。その描写の仕方がいい。わかりやすい“答え”を台詞として口に出させるのではなく、映像で語る。だからこの映画は素晴らしい。
 神父の悩みを表現するために作り込まれた映像も凄い。江戸期の貧しすぎて、ふとすると自然に飲み込まれそうなくらい小さな村と圧倒するような自然の光景。この対比。あまりにも厳しい自然である一方、どこまでも美しい。自然が本来持っている美しさと残酷さを映画はきちんと描いている(“やさしい自然”なんてクソくらえ)。若き神父の修行の場として向き合う自然として相応しい。かつての信徒が荒野と向き合って修行していた光景と重なり合うものがある。
 この風景を日本でロケハンができなかったのは残念だが、台湾にかつての日本に重なる風景が残っていたことが嬉しくもある。
 そして容赦のない拷問のシーン。拷問のシーンがあり、それをただ見ているしかない、という神父の無力感。拷問シーンを避けずに描いたからこそ、神父達の迷いに説得力が生まれている。

 世間ではキリスト教のありようは、相当に歪められてしまっている。宗教を争いの根拠にしてしまっているし、最近は敬遠たる教会の中で隠れて行われていた児童虐待の真実が明かされたりもした。キリスト教が腐敗を包み隠す防壁に利用されてしまっている。あれらはキリスト教の名を騙ったニセモノでしかない。
 古代から中世、近世、現代に至るも宗教を巡る問題は相変わらずだ。宗教を盾にして、原理主義に陥り、争いの具にしてしまっている。しかもこの戦争は石油を得るためであり、宗教はその目くらましにされてしまっている。イエス・キリストは隣人を愛せよと諭したはずなのに、現実では銃を向けあっている。誰も自分たちが語る宗教の本旨を理解せず、宗教的教義を盾に対立している。現代はグローバルだのダイバーシティだのと夢みたいなことを語っているが、現実はこうだ。そうした時代だからこそ、この映画は問いかける。
 改めてキリスト教徒はなんであるか。それを問う作品であるから、「当時の日本がキリシタンを禁止にした理由が描かれていない」と言うのは、この作品の本旨を理解しない視点での発言だ。キリスト教が禁止にされ、信者であることを明かす道具を持っているだけで罰せられ拷問にかけられる時代と直面して、神の存在を疑わず信じ続けられるか、その現状と向き合うとある若い神父の成長の物語だ。この物語こそ、キリスト教の本来の形を語っている。
(確かにキリシタンへの拷問は行き過ぎだった。キリスト教を水際で留めたかったのは、大陸で行われている対立を持ち込まないためだったが、それを過剰にやりすぎた結果、おかしな現象を作ってしまっていた)
 それが不思議なくらい、罪人として拷問され罰せられた『最後の誘惑』とテーマ的に重なり合うところがある。だからこそマーティン・スコセッシは日本人が描いたこの小説を映画にしようと考えたのだろう。
 キリスト教とはいったい何であるか? それを知りたいという人に是非進めたい映画だ。


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