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映画感想 ヴァチカンのエクソシスト

 エクソシストは語る。悪魔は実在する――と。

 2023年、日本でもなかなかのヒットとなったホラー映画『ヴァチカンのエクソシスト』が早くもAmazon Prime Videoに登場! あのアクション俳優・ラッセル・クロウがエクソシストを演じる。この配役からすでに面白いのだけど、日本で話題になったのはプロデューサーのジェフ・カッツ。日本語に通じたプロデューサーで、本作が日本で劇場公開されたとき、SNSで感想をあげるとジェフ・カッツから返信が来ることが大きな反響となった(ハリウッドのプロデューサーがごく普通の人々にリプライをくれる!)。ジェフ・カッツは幼少期から日本のプロレスに夢中になっていて、特にジャイアント馬場と力道山に心酔し、高校では日本語を学んでいた。現在はハリウッドでも知られたプロデューサーだが、実はその以前にはレスリングのプロモーションをやっていた……という経歴もある。こうした経歴の持ち主だったから、日本でのヒットを最も喜んだのは彼かも知れない。
 そんな本作であるが、制作費1800万ドルに対し、世界収入がおよそ7600万ドル。興行収入についてはまあ順当といえるが、評価は芳しくない。映画批評集積サイトRotten tomatoでは104件の批評家のレビューがあり、肯定評価は49%と低め。一方オーディエンススコアは81%。批評家からは嫌われたが、一般観客からは支持を集めた……というよくある形になっている。ラッセル・クロウの演技は高く評価された一方、第44回ゴールデンラズベリー賞では最低主演男優賞にノミネートされてしまっている。教皇役のフランコ・ネロも最低助演男優賞にノミネート。大衆人気が高い一方で、批評家からは嫌われた作品となってしまった。

 それでは本作のストーリーを見ていきましょう。


 1987年イタリア。
 とある田舎に、チーフ・エクソシスト(主席祓魔師)のガブリエーレ・アモルト神父がやってきていた。この田舎に住む一人の若者が、悪霊に取り憑かれたという。アモルト神父がやってきて、その青年の様子を見るが……。
 アモルト神父は青年に「お前が本当に悪魔なら、豚に取り憑くなんてできないだろう」と挑発し、家の中に豚を連れてくる。悪魔は「できるとも!」と挑発に乗り、豚に乗り移り――そこでライフルで豚を撃ち殺す。こうして青年への除霊は完了した。

 この件は無事に解決したのだが、その1ヶ月後、アモルト神父はローマの公聴会に呼び出される。司教の許可なくエクソシストを行った……その責任が問われていた。
 アモルト神父は答える。あの青年は悪魔に取り憑かれていたのではなく、精神疾患だった。だから一芝居打って、回復の手助けをしただけだ……という。  それでも非難を続ける一同に、アモルト神父は「本当の目的は何か?」と尋ねる。
「教理省からの要請でこの公聴会において、チーフ・エクソシストの席を空けるようにと」
 つまり、アモルト神父を引退させよ……というお達しだった。許可なくエクソシストを行った云々は口実に過ぎなかった。アモルト神父は反抗する。私を主席祓魔師に任命したのは教皇だ。文句があるなら教皇に言え……と。

 その後、アモルト神父は教皇に会いに行く。教皇は最近の若い世代は悪魔を信じていない……と嘆き、それからアモルト神父に「スペインへ行け」と命じる。場所はカスティーリャのサン・セバスチャン修道院。ここで望ましくない何かが起きている……と。
 教皇の指令を受け、アモルト神父はスペインへ向かうのだった。


 ここまでのお話しでだいたい30分。実際の本編では、同時進行でスペインでのできごとも描かれる。スペインでとある少年が悪魔に取り憑かれた。アモルト神父がその除霊のために向かう……というまでの経緯が前半30分の内容だ。

 日本に住んでいると「エクソシストなんて映画の中の話でしょ?」と思いがちだが、イタリアでは悪魔憑きによる事件が年間50万件も起きていて、「エクソシスト不足」が起きている……というこの数字は映画のプロモーションで多分に盛ったものだと思われているが、イタリアでは事実としてこういう事件はあるそうだ。
 本作の主人公であるガブリエーレ・アモルト神父も実在のエクソシストだ。1925年生まれで1986年ローマ区教のエクソシストに任命され、生涯で16万件の悪魔祓いをしたとされている。2016年に91歳でこの世を去った。
 ガブリエーレ・アモルトはエクソシストに関する本を数冊出版しており、Amazonを探すとそのうちの1冊が日本語翻訳されているのを見つけた。名著らしい。ぜひ読んでみたい。

 本作はそのガブリエーレ・アモルト生前の活動を描いた作品であるが、実在人物をモチーフとしていながら、内容は完全なるフィクション。この内容だと、実在人物を引っ張り出してくる意味は……? とちょっと問いたくなる。

 この作品『ヴァチカンのエクソシスト』について語る前に、もう1本見ておきたい作品が2011年の『ザ・ライト エクソシストの真実』という映画。名優アンソニー・ホプキンスを主演に据えたエクソシスト映画である。
 どうしてこの作品を引き合いの出すのか……というと、お話しの構造がほとんど一緒。展開もよく似ている。どうしてこうもこの2作が似ているのか、どちらかがお手本にしたのか……という話ではなく、エクソシストの内実を掘り下げると、だいたい同じようなお話になる……という話だ。『ザ・ライト』と比較して見ると、『ヴァチカンのエクソシスト』の見え方もすこし変わってくる。どちらが先でも問題ないが、『ザ・ライト』は見ておいたほうがより楽しくなるのは間違いない。

 では映画の細かいところを見ていきましょう。

 冒頭の場面、イタリアの田舎に悪霊に取り憑かれたという青年の話を聞いて駆けつけるアモルト神父。まず尋ねたのが、「悪魔憑きの証拠は?」。
 というのも、世の中的に「“本当の”悪魔憑き」と呼ばれているものはごく少数。本作の中でも、98%が悪魔憑きではなくただの精神疾患としている。それっぽいものを見て、「悪魔憑きだ!」と慌てるのではなく、まず本当かどうか疑う。
 地元の神父は「急に英語を話し始めた」と言うのに対し、アモルト神父は「この家にテレビはあるよな?」と尋ねる。ロシア語とか日本語とかラテン語とかならともかく、英語だったら映画やテレビの世界でありふれているので、そこで覚えることができる。

 さて、悪霊の取り憑かれたという青年と会いました。アモルト神父は「私の名前はわかるか?」と尋ねる。青年は答えない。もしも本当に悪魔が取り憑いていたら、その青年が知り得ないことを知っているはずだが……答えない。答えをはぐらかす。
 同じような質問は『ザ・ライト』でもやっていて、悪魔に取り憑かれた少女の前で、その少女が知り得ないものを手に持って「何を持っているか当ててみろ」と尋ねる。それを当てられるかどうかが、最初のテストだという。
 結局、青年はアモルト神父の名前を言い当てることもできず、「地獄はどういうところか?」という質問にも答えられない。知らないからだ。
 「こりゃただの妄想型統合失調症だな」……と確信したアモルト神父は、家族を巻き込んだ大芝居を演じる。青年の悪魔憑きはただの「騙り」だが、しかし当人は「自分は悪魔に取り憑かれている」と思い込んでいる。だから一芝居打って、「悪魔は豚に移した」と思い込ませ、豚を射殺する。この芝居で、青年も「悪魔から解放された」と思い込む。うまく思い込ませれば、カウンセリング完了、となる。

 と、こんなふうにイタリアでは年間50万件もの悪魔憑き事件が起きている……と言われてるが、大半は嘘と思い込み。本物の悪魔憑きは「本物の時間停止ものAV」並に少ない。中には「周りの関心を引きたい」という目的で悪霊に取り憑かれた芝居をする人もいる。そういう人はいろいろ仕込みをするらしく、口から手品のように釘を吐いたりする。なぜ釘かというと、イエス・キリストの両手両足に打ち込んだものだからだ。しかし、だいたいは近所の工務店で買ってきた釘だったりするから、エクソシストは「あ、仕込みだな」と判断するわけである。

 アモルト神父はエクソシストであるわけだが、時には“精神科医”として、時に“ジャーナリスト”として活動し、難事件を解決してきた……という自負を持っている。ところが世知辛い世の中で、サリバン枢機卿は司祭でありながら「悪魔憑き」などという迷信を信じてない。いかにも現場経験のない学歴エリート様……という感じのサリバン枢機卿は、政治と出世にしか興味がない。上から指示されたとおりにアモルト神父を更迭する方法を考えていたのだった。
 という場面だが、気になるのはこの場面のセット。このワンシーンしか出てこないのに、作り込みが凄い……。セットではなく、実在の場所なのだろか?

 一方、スペインでは“本物の悪魔憑き”事件が起きようとしていた……。
 これはどこだろうか? 立派な城だ。“ホラーはロケーションが大事”、といつも言っているが、このロケーションは見事。撮影はアイルランドとローマで行われた……とあるから、アイルランドに実在する城じゃないかと思われるが……。場所を特定できなくて残念。

 中に入ってからはスタジオセット撮影。場面設定を詳しく見てみるとわかるが、この階段広間から廊下を少し進んで角を曲がったところまでしか作られていない。この場面もさっきの全体像を比較してみると、天窓の位置が違う。外観はあれだけ大きく立派な城なのだけど、内部セットはそこまで作り込むことができなかったようだ。

 前半30分の間、ローマでのできごとが掘り下げられる一方、スペインの少年が悪霊に取り憑かれるまでが描かれる。かなり厳しい尺の中、経緯が突っ込まれているから、展開がやや強引。かなり急ぎぎみ。ローマのできごと、スペインのできごとがポンポンと入れ替わりながら描写されるから、どこか編集が散らかっている印象がある。尺に余裕がなかったから、ここは仕方ないところではあるけど。映画編集の難しいところである。

 地下でガス爆発が起きて、その直後リフォームを請け負っていた工務店が帰ってしまう。展開が早すぎて「即落ち2コマ」に見えてしまう。ガス爆発のシーンでも、なんで発煙筒を取り出してきたのか……。

 ここからは閑話休題。ツッコミどころを挙げていこう。

 アモルト神父がスクーターに乗っている設定は、主演ラッセル・クロウの発案だそうだ。ラッセル・クロウの巨漢に、小さなスクーターはアンバランスで、不思議なユーモアが出て面白い。
 気になるのは、“移動距離”。アモルト神父はイタリアのローマで、教皇から「スペインへ行くのじゃ」と指令を受けるのだが、なんとスクーターで現地まで移動。行けなくはないが……尻が死にそうだ。

 映画の前半。エスキベル神父が「少年の様子を見てくる」といった直後、吹っ飛ばされてしまう。「即落ち2コマ」のような展開。ここも展開を急いだ結果こういう描写になった……というところだけど、つい笑ってしまう。

 苦しむローマの教皇。直前まで、手前の台に本を載せていたはずだが……このカットになると本が消えている!
 スペインでの戦いの最中、ポンポンとローマ教皇の様子も挿入されるが、「アモルト神父危ない!」とか言うだけで、特に物語には干渉せず。ずいぶん安っぽい描写。口からスライムを吐く描写も、ギャグにしか見えない。この雑な演出のせいで、教皇を演じたフランコ・ネロは最低助演男優賞にノミネートされてしまう。演技ではなく、演出が悪い!

 ガッシャーン! ……と修道院の窓が割れる。
 おやおや? 確かこの場面、「夜」だったよね? しかも雨がザーザーに降ってたよね?

 ツッコミどころではないのだけど、見て欲しいのは少年の演技。こういうホラー映画は、実は子役が凄く頑張ってる。ホラー映画で一番頑張ってるのは子役……というくらい。しかし子役の演技って見過ごされやすい。特にホラー映画の場合は。本作でも子役がなかなか見事な芝居をしているので、そこはしっかり見て欲しい。

 では、そろそろ映画本編に戻ろう。

 Bパートでアモルト神父は少年が本物の悪魔に取り憑かれている……と確信し、その悪魔の正体を突き止めるために教会そのものを調べ始める。教皇は、「かつて問題を起こした教会」と語っていたが、それがなんだったのか?
 調べて出てきたのが「異端審問」と「魔女狩り」――ここからがCパート。

『魔女への鉄槌』 現存する1669年版

 「魔女狩り」はいつ始まったか? 歴史の教科書的には、1486年、ハインリヒ・クラーマーが書いた『魔女への鉄槌』がその切っ掛けとなっている。正確にはその以前から魔女狩りは始まっていたが、決定的な影響力という意味ではこの本が切っ掛けだ。
  『魔女への鉄槌』は古い本で内容にも問題がありすぎるので、現在は閲覧することができないのだが、大雑把に伝わっているところを聞くと、相当に「女性差別」「女性蔑視」的な内容だったらしい。「女性は悪魔に魅了されやすい」「女性的な性質はすべて悪魔がもたらすものだ」――特に性にまつわるもの……表現がまだるっこしいので、直接的に言うと「エロ関係」のものは、だいたいまるごと悪魔に結びつけて語られている。
(現代でも『魔女への鉄槌』的な思考回路の人たちって一杯いるようだけど)
 現代からすると「トンデモ本」どころではない本だが、なんとローマ教皇お墨付きをもらい、以降200年にわたりヨーロッパ圏でベストセラーになった。この本が出版され、権威付けされてしまったことにより、魔女狩りが正当化されることになる。

 映画の話に戻ると、なぜスペイン異端審問・魔女狩りが広まってしまったのか……それは悪魔に取り憑かれたオヘダ司祭が広めたのだ、ということになっている。ホラー映画的な文脈で異端審問の歴史を語ると、こういう話になるのでしょう。
 ただ、その時代が1475年。……ちょっと早いな。まあ『魔女への鉄槌』が出版される前から、異端審問はあったけれども。

作中で描かれる悪魔。現代人が見たら可愛らしいビジュアルだが、当時の人はこういう絵に怯えていた。

 さあ、ここからネタバレに入っていく。

 アモルト神父は悪魔憑きを確信すると、対決するために自分が戦おうとしている悪魔がなんという名前なのか調べようとする。
 しかしどうして「名前」が必要なのか? それは悪魔がこの世に存在しない、概念だけの存在だからだ。
 前にも話したけれど、同じ話を載せよう。
 かつて、いろんな国、いろんな民族に「(いみな)」と呼ばれる風習があった。本当の名前を隠し、仮名を名乗る……という風習だ。アイヌがその諱文化の民族であったため、普段から名前で呼び合ったりせず、「アチャ(父)」とか「ハポ(母)」とか「イリクゥ(兄)」などと呼び合っていた。アイヌは小規模血縁社会であったから、この呼び方で問題なかった。本当の名前も生まれてすぐに命名されるのではなく、ある程度育って、自我が芽生え始めた頃、こっそりと教えられる。
 どうしてこのようにするのか……というと大地に潜む魔物に名前を奪われないようにするためである。魔物に名前を奪われてしまうと、その人間の魂が奪われる……と考えられていた。特に、森の中は魔物の気配が強いから、絶対に名前で呼び合ってはならない、とされていた。

『千と千尋の神隠し』。名前を奪われてしまったことにより、湯婆婆に隷属することになってしまった千尋。
『犬王』。主人公・友魚には、父親の霊が取り憑いていたが、名前を変えてからは、「お前を見つけることができなくなった」と言われる。その後も「名前がわからないから、見つけられない」が作品の重要な要素となっている。

 諱の風習は世界中のありとあらゆるところにあった。この風習は昔のもので現代は関係ない……というとそうではなく、ネットで交わされる「ハンドルネーム」や「アバター」もある種の諱。ハンドルネームを使う現代人は、本当の名前を知られることを恐れている。本当の名前を知られると、本体を攻撃されるからだ。これもある意味、形を変えた諱だ……といえる。
 言葉とは「概念」の思想で、言葉を交わし合うということは、概念を交わし合う……ということである。昔の人々はそういうもののなかに、ある種の「本質」があると考えていた。人間の肉体は現実に接地したものだが、名前といったものは精神や魂と結びついている。それを奪われると、肉体は無事であっても、魂が抜け落ちてしまう。昔の人も肉体よりも、概念といったもののなかに本質・魂を見ていた。
 そして「悪魔」は現実に存在しない。概念の中(あるいは精神世界)にしか存在しない。概念の産物だから、概念の思想に攻撃を仕掛けてくる。悪魔に名前を奪われたら、魂を奪われる……という考えも、こういうところから来ている。本作の場合、悪魔はアモルト神父の名前を知っているから、彼が過去どんな罪を犯したかも知っている……ということになっている。
 逆に、悪魔を攻撃しようとしたら、その悪魔の名前を知らねばならない。名前を知らねば攻撃のしようがない。だから悪魔と戦う、となったとき、アモルト神父はまず悪魔の名前を知ろうとしたわけである。

 では今作における悪魔はどちら様なのだろうか? 正体を明かすと「アスモデウス」という悪魔である。
 もともとは旧約聖書の外典『トビト記』に登場してくる悪魔である。トビト記によると、サラという美しい娘がいるのだが、初夜のたびに相手の男を殺してしまう。そんなことを7度も繰り返すのだが、あるときアザリアという若者がやってきて、サラには悪魔が取り憑いている、と見抜き、除霊を行う。アザリアは実は大天使ラファエルで、サラに取り憑いていた悪魔アスモデウスを征伐しにやってきたのだった。
 ……7人も男を殺して、どうしてこのサラは裁かれなかったのだろうか?
 そういう経緯を持つ悪魔であるから、後に「キリスト教7つの大罪」のなかで「色欲の悪魔」ということになった。若いエスキベル神父がかつて売春宿通いをやっていたことをバラされるのも、オッパイを見せてくるシーンも、そういうところから来ている。アモルト神父がかつて死なせてしまった少女がやたらとエロく表現されるのも、こういう理由。

 しかし、悪魔憑きには根本的な疑問が一つ引っかかってくる。
 ヨーロッパといえばキリスト教……というイメージが今でこそあるが、大昔からそうだったわけではない。キリスト教はもともとユダヤ人固有の宗教で、このキリスト教がはじめてヨーロッパで公認となったのは、紀元305年頃、コンスタンティヌス皇帝によってであった。
 そこから即座にヨーロッパ全体に広まったのか……というとそういうわけではなく、ヨーロッパにはもともと土着的な宗教があった。それぞれの地域に、今では忘れられた習慣や宗教といったものが一杯あった……らしい。ヨーロッパで文字文化、印刷文化が広まる頃にはそういった地域の風習や宗教といったものはまとめて「異教」の扱いで、弾圧の対象だったので文字資料として残されることはなく、どういったものだったかほとんどわからなくなってしまっている。今は「いろいろあったらしい」としか言いようがない。
 「魔女裁判・異端審問」時代も土着的な信仰はヨーロッパ各地に残っていたらしい……という話は一杯出てくるので、ヨーロッパのキリスト教化は1000年以上の時間をかけて行われたものだった……と推測できる。
 では悪魔憑きはキリスト教が広まってから発生したものか、それともその以前からあったのか? 悪魔憑きが先か、キリスト教が先か?
 悪魔憑き自体はあらゆる文化の中にある。日本にも「獣憑き」「狐憑き」と呼ばれるものがある。もともと人間の世界にそういう「精神的なエラー」というものがあったが、キリスト教が広まったことによって、キリスト教に集約されていったのか……。この答えは永遠の謎である。

 映画のお話しに戻っていきましょう。
 映画の後半戦は悪魔との対決が中心となる。しかしアモルト神父にもエスキベル神父にも過去にトラウマを抱えていて、悪魔はそこを突いてくる……という展開も『ザ・ライト』にもあったこと。この2つの映画はやはり似ている。
 その対決描写だけど、対決場面を面白くしようとVFXを満載にした結果――ホラーというか、まるで「能力バトルもの」みたいな雰囲気になっている。見ていて楽しい映像になっているが、ホラーではない。
 というか、この作品、冒頭からあまりホラーっぽい空気がない。少年が悪霊に取り憑かれるまでの経緯も、ちょっと急ぎ足すぎて、ホラーっぽい空気を作るのに失敗している感じがある。中盤以降もホラーかなぁ……というとちょっと疑問。教会地下の探索が始まる頃は、“秘境探検映画”っぽい空気になってしまっている。

 あまり言われない話だが、ホラーこそ“表現”にこだわらねばならない。ただホラーっぽい雰囲気だけだとありきたりになる、というのもあるが、人間は未体験の奇怪なものと接すると恐怖を感じる。認識不能のものに接すると恐怖を感じる。いかに映画の観客を奇怪な気分にさせるか。特に、あらゆる映像を見て、目の肥えてしまった現代の観客を、いかに不安な気分にさせるか。
 それを実現させるために、ホラーは過去の映画と似たような表現をやっちゃいけない……というのがある。そこを心得てないと、“ありきたりなホラー”ができあがってしまう。
 その表現も“頑張りすぎる”と本作のように“楽しい映像”になってしまう。ホラーらしいトーンを持ちながら恐怖表現を演出するのは、実際かなり難しい。こういうところこそ、演出の腕が試される。

 ホラー映画って、この作品に限らず、実はシチュエーションは平凡。本作の場合、少年のいるベッド周辺だけでお話しが進んでいく。名作ホラー『エクソシスト』も、えんえん少女の寝室でお話しが進んでいく。実は日常的な場所でお話しは展開していく。スパイ映画のように、いろんなロケーションが次々に変わる……みたいな視覚的な楽しみはない。
 今作にしても、出てくる部屋を数えてみればわかるが、お城入り口の階段広間と、その広間を数メートル進んだ先にある寝室しかでてこない。あと厨房と地下通路があるだけ。主なセットの数はこれだけしかない。
 だからこそ表現にこだわらねばならない。ワンシチュエーションでいかにエンタメをやるか……これもホラーの醍醐味であったりする。
 本作『ヴァチカンのエクソシスト』はそういう意味で、かなり表現を頑張った作品。次から次へと、奇怪な現象が描写される。ただ、やりすぎちゃったせいで、ホラーというより“能力バトルもの”っぽくなっちゃったわけだが。ホラーは案配が難しいのだ。

 本作の見所はやはり“将軍”ラッセル・クロウがエクソシストを演じる……ということ。エクソシストといえば名作ホラー『エクソシスト』がそうだけど、インテリ系の体の細い兄ちゃんが演じるもの。それが「筋肉ダルマ」のラッセル・クロウが演じる。それだけでこれまでのエクソシスト映画と違う質感になっている。本作ではまた結構な体重を増やしたが、おかげで存在感がある。
 そのラッセル・クロウがベテラン・エクソシストを軽妙に演じる。ここも『ザ・ライト』のアンソニー・ホプキンスに似た雰囲気がでているのだけど、やはりラッセル・クロウ特有の存在感がなんともいえない。イタリア語のなまりがおかしい……という指摘があるらしいが、どうせイタリア語なんかわからないから気にならない。ラッセル・クロウの声のトーンだけで引き込まれる感じがある。実にいい芝居をしている。アクション俳優と言われがちだが、やはり彼は演技がしっかりしている。
 そんなラッセル・クロウがいたからこそ、『ヴァチカンのエクソシスト』はそれまでのエクソシスト映画とは、ちょっと違うトーンになっている。この作品が人を惹きつけてやまない魅力があるとしたら、主に彼によるものだ。続編の計画もあるらしく、もしもシリーズ作品となるならこれからが楽しみだ。ラッセル・クロウ演じる次なる悪魔払いがどんな物語になるか。いつか悪魔と拳で殴り合うのではないか……そんな妄想をしても楽しい。


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