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映画感想 ザ・ライト エクソシストの真実

 悪魔――その正体は何なのか?

 『ザ・ライト -エクソシストの真実-』は2011年公開のアメリカ映画。原題になっている『The Rite』は「儀式」という意味。この辺りの意味はおいおい。アメリカ映画でアメリカ人が主役だが、舞台の大部分はイタリアだ。監督はスウェーデン出身のジャン・ミカエル・ハフストローム。アメリカ映画で主演アンソニー・ホプキンスはイギリス人で、スウェーデン出身の監督がイタリアを舞台に映画を撮る……ハリウッドではよくあることなんだけど、国籍が複雑だ。
 10年前のこの映画を急に観ようと思い立ったのは、Netflixのお気に入りに入れたまま放置していたのだが、配信が今月末終了……と出ていたから。本当は同ジャンルの映画と紐付けて語りたかったから後回しにしていたのだけど……。
 制作費は3700万ドルに対し、世界興行収入は9600万。いまいちな興行収入だが、批評はもっとさんざんなことになっていて、映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家によるレビュー174件あって、肯定評価は22%。オーディエンススコアもさほどふるわず40%。興行的にも批評的にもかなり厳しい結果となっている。
 しかし実際に見てみるとなかなか面白いじゃないか。どうしてこの作品の面白さが伝わらなかったのだろうか……その辺りも「こういうことかな?」という予測を入れつつ掘り下げていこう。

 では、前半のストーリーを見ていこう。


 主人公のマイケル・コヴァックは葬儀屋が家業だった。自宅の作業場で死体の手入れをする……幼い頃から父親の仕事を見ていたから、死体の扱いにも手慣れていた。
 そんなマイケルも、そろそろ自分の将来を決めなくてはならない時期が来ていた。マイケルの家系は代々葬儀屋か神父……。どちらも決めかねていたマイケルだったが、親の言いつけに従って、とりあえず神学校へ通うことを決める。
 それから数年が経ち、神学校での暮らしも終わり際までやってきた。最終審査が終われば、「終生請願」を行い、神父になることができる。マイケルは神学校での成績は良かったが、ただ「神学」の成績だけがいまいちだった。
 マイケルはそこそこ優秀な生徒で、このまま終生請願を立てれば神父になれる……。しかしマイケルは迷っていた。自分には「信仰心」が足りない。神? 悪魔? ……そんな存在を信じることができない。神も悪魔も信じることができない自分は、神父になるべきなのだろうか?
 そんなある夜、マイケルは交通事故に直面する。女性が車に轢かれる。マイケルはその場面を見て、女性に駆け寄り、今まさに死にいこうとする女性に祈りを唱える。女性はマイケルの祈りを聞いて、安らかに息を引き取った。
 その様子を見ていた教師は、マイケルの行動に感心する。熟練の神父でも、事故に遭遇したら動揺するものだ。なのにマイケルは迷わず事故に遭った女性をあの世に送り出していった。彼には才能がある。教師はマイケルをカトリックの本場イタリアへと送る。イタリアでは「悪魔憑き」による被害が年間50万件もある。バチカンは「悪魔祓い」すなわり「エクソシスト」を求めている。マイケルにはエクソシストの素質がある――と教師は見込んでいた。
 当のマイケルは半信半疑だった。いまだ神の存在を疑っているのに、「悪魔祓い」なんて……。しかしもしも終生請願を行わない場合、神学校の規定で奨学金の返還をしなければならない。その額10万ドル……。イタリア行きを拒否することはできなかった。
 イタリアへ行き、エクソシストの講習を受けるが、やはり神や悪魔を信じることができない。悪魔憑き? エイリアンに誘拐されたというのとどう違うのだ? エクソシストを呼ぶ前に、精神科医の助けが必要なのではないか……?
 講習でもその疑問をぶつけるが、なぜか司祭はマイケルを好意的に接し、「では私の古い友人を訪ねてみたまえ」と薦めるのだった。その友人――ルーカス神父はイエズス会一流のエクソシストだった。


 ここまでのお話しで前半30分。やっとこさルーカス神父こと、アンソニー・ホプキンスが登場になる。

 解説に入っていくけど、その前に「終生請願」について。
 神学校に入ると最初に「初請願」の誓いを立てることとなる。この誓いを立てると貞節、清貧、従順の3つを約束する。そのうえで修行に入るのだけど、この修行期間は3~6年。初請願を立てると有期請願者となり、それが満了する時期が来ると終生請願を立てる。この終生請願を立てると、一生、修道会の会員となることが約束される。
 マイケルは有期請願者となって神学校で学んできたのだけど、やっぱり神様を信じることができないから、神父になれない……と考えているのだった。ある意味、真面目な性格だということがわかる。

 ここからはネタバレ有で内容を深掘りしていきます。

 マイケルは神や悪魔の存在を信じることができず、学校側にも終生請願をやめると伝えよう……と考えていた。マイケルは神父になるつもりはなかった。
 ところがある夜、マイケルは事故に遭遇する。事故に遭った女性に祈りを唱える様子を見た神学校の先生は、「マイケルには素質がある」と見抜く(もともとマイケルは葬儀屋で、普段から死体と接していたから、落ち着いていられたわけだが)。これがこの映画の始まり。

 カトリックの本場、イタリアへやってきます。タクシーの窓からイタリアの風景を見るけれど、なんとなくゴミゴミしている。修道女がタバコ吸ってて、灰を路上に捨てる様子を目撃する。なんか思ってたのと違う……という雰囲気になる。

 イタリアにやってきたのに、アメリカ人のマイケルはマクドナルドを見かけて、ふっと安心してしまう。この気持ち、わかるわ~。たぶんほとんどの日本人も、海外に行って寿司屋やラーメン屋を見付けると安心するだろうから。

 マイケルはバチカンのエクソシスト講習会へとやってくる。しかし初日から遅刻。あまり乗り気ではない。というのも神だの悪魔だの、マイケルはいまだに信じてないから。一方の司祭はマイケルに対し好意的。というのもアメリカの神学校の教師とこの司祭は親友だから。「素質のあるやつがいるぞ」と送り込まれているから、一目置いている。
 実はもう一つ、教師や司祭がマイケルを一目置いている理由があって、それはマイケルが神や悪魔といった存在を疑っているから。実はキリスト教徒の生き方として、それが正しい。
 そもそもキリスト教の神というのは「概念的な存在」であって、いるかどうかは怪しい。世界のだいたいの神は「御神体」や「依り代」とするものがあるのだけど、キリスト教は何もないもの向かって敬う……という行動を取る。そういう曖昧な存在を、はじめから信じちゃうような人間は、あまりいい神父にならない。ある意味、そんなやつは「ヤバい奴」でもある。ことあるごとに「悪魔がー!」とか言ったり、ゲームを見て「悪魔の手先が作ったんだー!」みたいなことを言う神父は、欧米には山ほどいる。盲目的に神を信じると、そういうバカ神父になる。
 むしろ徹底的に疑って、考え、検証し、その末に「やっぱり神は存在する」という結論に達する。こっちのほうがキリスト教徒としての正しい生き方。
 それで神学校の先生も、バチカンの司祭も、マイケルが「神や悪魔を信じない」という態度を取っているのを見て「よしよし……」となっている。もしかしたら、「俺らも若い頃はそうだった」みたいに思っているのかも知れない。

 司祭の紹介でルーカス神父に会いに行く。場所は建物の内部に小さな「パティオ」と呼ばれる空間を持つお屋敷。すっかり寂れているのだけど、パティオのある建物って、憧れるな……。しかも猫ちゃんが一杯。
 ちなみにこの建物はイタリアではなく、セット撮影だと思われる。やたら画角が狭い、俯瞰構図にならないのは、セット撮影だからだろう。

 35分ほどのところで、ようやくルーカス神父ことアンソニー・ホプキンス登場。今回はイタリアが舞台なので、流暢なイタリア語を話す。この人は何カ国語が話せるんだろうね……。

 ちょうど悪霊に取り憑かれている少女がやってきて、マイケルはエクソシストの現場を見ることになる。
 しかし本物の「悪魔祓い」の現場を見ても、マイケルは不信感を募らせる。ルーカス神父のやっていることが、なんとなくインチキくさい。悪霊に取り憑かれているというこの少女も、単に精神病――妄想型統合失調症ではないか? こんなインチキ臭いおまじないを受けさせている場合ではなく、精神病院へ連れて行くべきじゃないか?
 エクソシストとして、まず精神病を疑う……というマイケルは正しい。「悪魔憑き」と「精神病」は非常によく似ている。悪魔憑きのように見える精神病の可能性だっていくらでもあり得る。エクソシストはそれを見抜き、「これはただの精神病だな」と思ったら精神病院を紹介しなければならない。テストをして、「これは精神病ではない」となったとき、はじめて悪魔祓いが始まる。
 だからルーカス神父からしてみても、「まず疑う」というマイケルのスタンスは正しい……と見ている。むしろ純粋に神様を信じちゃうような神父だと、簡単に「悪魔だー!」とか言い始めてしまう。まず疑い、徹底的に確認をする。なのでルーカス神父はマイケルの意見を聞いて「よしよし」とか思っている。

 少女の口から釘が……。なぜ釘? と思われるかも知れないが、これはキリストの手足を打ち抜いた釘。だから3本。
 悪魔に取り憑かれた人たちの体内から釘が出てくる……という話は実際にあるらしい。しかし、その釘は現代の金物屋に売っている釘。エクソシストも簡単に信じるわけではないから、「ああ、こいつ仕込んだな」と思うものらしい。体内から釘が出てきたから、それだけで「悪魔の仕業だ!」と思い込む単純なエクソシストはいないらしい。まず疑うことが大事。

 次に、夜な夜なロバの悪魔を夢に見る……という少年を訪ねる。
 ルーカス神父は悪魔祓いだと称して、枕からカエルを1匹引っ張り出す。マイケルはその様子を見て、さらに不信感を高める。これは手品ではないか?
 ルーカス神父の司祭館に戻って、パティオの水場でカエルが繁殖している様子を見て、マイケルの不信感は確信に変わる。全部インチキじゃないか……と。

 そうこうしているうちに、あの少女が死んでしまう。
 それに続いてマイケルの父親が死去。急に不可解な現象が立て続けに起きはじめる。

 マイケルはまだ半信半疑といった様子だったが、ルーカス神父が悪魔に取り憑かれてしまい、覚悟を決める。
 神も悪魔も信じる! 信じ、向き合わねばルーカス神父を救えない。神や悪魔はキリスト教の産物で、それを信じるという立場にならなければ悪魔祓いはできない。誰にも頼れない……という立場に追い込まれて、ようやくマイケルは神と悪魔を信じるようになる。

 ここでちょっと余談。私なりの「悪魔祓い」の考えたかを。
 人間の精神は、たびたび不具合を起こす。それが精神的な病である。バグの存在しないコンピュータープログラムが存在しないのと同じように、人間の精神は絶対的に完璧な産物ではなく、あちこちにほろこびがある。社会のほうにも欠陥はあちこちにある。そこに触れると、人間の精神はいとも簡単にバグだらけになる。
 そんなとき、どうやったらバグ修正ができるのか……。それを引き受けていたのが宗教だった。日本でも古来から「狐憑き」というものがあるが、お坊さんが取り憑かれた人を祭壇に上げて、お経を唱えて「悪霊よ、去れ! カーッ!」と念じれば意外と回復するものなのだ。人間の精神は案外、そいういうものだ。信じる・信じないとかいう話ではなく、人間の精神がそういうふうにできている……らしい。西洋ではその役目をキリスト教が引き受けていた、ということだろう。
 「悪魔」はキリスト教がもたらした思想。その悪魔を祓うためには、キリスト教を信じるという立場にならなければならない。こういうとき、「キリスト教が先か、悪魔が先か」……という問いにぶつからねばならないが。
 とにかくも西洋では人間の精神がぶっ壊れたときに、「それは悪魔のせい」と見なし、「悪魔よ、去れ!」と命じることで人間性を回復させてきた。そういう思想世界だからこその産物だ。そういう考え方は、たぶんどこの国のどこの文化にもあるんだと思う。
 エクソシストもまあ、こういうもんだろう……というのが私の考え方。

 すでにお話しの全体像を見てきたけれど、もう一回最初に戻って深掘りして行こう。

 ルーカス神父のいる司祭館の様子をもう一度見てみよう。猫ちゃんが一杯。それに水場にはたくさんのカエル……。
 猫、カエル、男……。悪魔学に詳しい人ならば、この時点で「バール」の名前が浮かぶだろう。バールのシンボルといえば、猫、カエル、男。実はかなり早い段階で、悪魔バールの存在が示唆されていた。

 悪魔バール、あるいはバエル。ヒキガエル・猫・人間(王冠をかぶった姿で描かれることも)がシンボル。ヒキガエルの頭をした蜘蛛の姿で描かれることがあるので、上の画像では足元が蜘蛛になっている。
 マイケルはカエルを見て「インチキだ」と思い込んだが、実は悪魔バールのシンボル。悪魔について知識がなかったから見逃してしまっていた。

 ルーカスの元に妊娠した16歳の少女がやってくる。どうやら父親にレイプされたらしいが……。少女はマイケルに対し、手に付けたブレスレットを突き付ける。
 はて、このブレスレット、どこかで見たよな……。

 実はオープニングシーン。マイケルは葬儀屋なので、死体の手入れをしているのだけど、その時にこのブレスレットが登場している。ブレスレットの装飾をよく見ると、カエルが……。

 足首にはデビルの入れ墨。要するに、この人は普通に死んだのではなく、悪魔に殺された……ということを示唆している。それでイタリアの少女は「あのデブを覚えてるか!」と語りかけた。悪魔自身で殺したから、「あのデブを覚えているか!」と知っていたわけ。それでマイケルも「ギョッ」とした顔をする。
 どうしてイタリアにいる悪魔が、アメリカでの話を知っていたのか? 悪魔は「概念」の存在でしかないので、世界中に遍在するし、同時に数百、数千いる。数百も存在してても、概念の存在だから一つの意思で連なっている。悪魔はそういう曖昧な存在でもある。
 さらに死体にはハエが1匹まとわりついている。最初に見たときは、「死体だからハエが湧いたのかな」とか思っていたのだけど、そうではなく悪魔ベルゼブブのシンボル。「この女に悪魔が憑いているよ」という説明として描写されている。この辺りで、マイケルの周囲に最初から悪魔がまとわりついている……ということが示唆されている。

 オープニングシーンを見ると、さりげなく馬(ロバ)が描写されている。後のシーンでロバの悪魔が出てくることが示唆されている。
 ロバの悪魔は2種類いて、ひとつはガミジン。ガミジンは召喚されたとき、馬、もしくはロバの姿で現れる。もう一匹はアスタロト。蠅の王ベルゼブブとともにロバの姿で現れるという。さあ、どっちだろうか?

 冒頭の事故シーンをもう一度見てみよう。女性にぶつかったトラックだけど、「音」をよーく聞いてもらいたい。トラックのエンジン音としては不自然な音が混じっている。「ヴゥン……」と獣の唸り声のような音が入っている。
 さらに女性のポーズを見てみよう。脚が逆方向に曲がっているけれど、この両手を広げたポーズ……おわかりだと思うが、キリストの磔刑のポーズだ。
 どうして事故が起きたのか……というと神学校の先生がぶつかったからなのだけど、この直後のシーンで「自分でもなぜ転んだのかわからない」と語っている。実際に、この先生は何もないところでいきなり滑ってぶつかっている。
 実はこのシーンも、悪魔による仕業。悪魔による仕業だから、キリストの磔刑のポーズになっている。実は悪魔による「殉死」であることが示唆している。
 しかしマイケルはまだ身近に起きる事件が悪魔によるものだと気付いていない。誰も気付いてないけれど、実は悪魔によって人々の命が奪われている……ということが描かれている。

 ようやく、イタリアの少女の話に戻ってきた。この少女はどうやって悪魔に取り憑かれてしまったのだろうか?
 答えは作中でも語られているように父親。悪魔に取り憑かれたから、父親は粗暴になり、娘をレイプして妊娠させてしまった。その子種とともに少女の体に移ってきた。
 さらにブレスレットも父親から渡された、と語っている。なぜならそのブレスレットこそ、悪魔のシンボルだから。後のシーンになって、マイケルは少女にブレスレットを返そうとするが、少女はブレスレットを嫌がる。少女はそれが忌まわしいものだと気付いているからだ。少女にブレスレットを返した途端、少女に悪魔が戻ってきてしまう。

 その少女が死ぬ場面を見てみよう。改めて見ると、少女の死の直前、実は悪魔は少女の肉体から離れている。
 これがえげつない。悪魔らしい行動だ。この直後、少女は流産を始めてしまい、その苦しみを直接受けることになる。悪魔は少女を苦しませるために、わざわざその体から離れたのだ。

 ルーカス神父はイエズス会一流のエクソシスト……と呼ばれているが、実は完全無欠の大ベテランというわけではない。
 作中に、こんな台詞がある。
「私はただの人間だ。とても弱い人間……。無力なのだ。なにかが私を内側からかきむしり続ける。神の爪のようななにかが。その痛みに耐えられなくなると、苦悩の闇からやっと這い出すのだ。再び光の中へ。いつもそうだ」
 改めてルーカス神父が住んでいる館を見ると、猫とカエルが一杯。すでに書いたように、猫とカエルは悪魔バールのシンボル。実は最初から、ルーカス神父は悪魔に浸食されかけていた。それを語っている場面がここ。しかしルーカス神父は自分がそういう状況にいると気付いていなかった。
 そこで、面倒を見ていた少女の死……。ルーカス神父は激しいショックを受ける。描写を見ると、十字架が掌から落ちかけて、ゆらゆら揺れている。信仰の揺らぎを現している。さらに直前のシーンで、悪魔は少女の肉体から離れている。悪魔バールが乗っ取ろうと画策していたのは、実はルーカス神父の肉体。悪魔は“計画通り”ルーカスの肉体を乗っ取ってしまう。

 ルーカス神父はイタリアの街を一望できる公園へとやってくる。画面をよく見ると、靴が揃えて置かれている。
 靴を揃えて置く、というのは「自殺」のサイン。……イタリアでもそういう考えってあるのかな? 日本だと、「靴を揃えて置く」という描写が出てくると「あ、察し」となるんだけど。
 いっそ自殺してしまおう。精神的に追い込まれたルーカス神父は、この時とうとう悪魔に肉体を乗っ取られる。

 マイケルの周囲で次々と怪奇現象が起きるようになり、ずっと半信半疑だったマイケルも、ようやく悪魔の存在を信じ始める。というか、神や悪魔を信じなければルーカス神父を救えない。マイケルも追い込まれてようやく、「信じる」という覚悟を決める。
 実はこの物語は、マイケルがようやく神や悪魔を信じるようになる……までを描いている。この物語全体がマイケルが成長するための「儀式」として描かれている。
 しかし大ベテランのルーカス神父でもどうしようもなかったのに、なぜ新米のマイケルが悪魔バールを追い払えたのだろうか?
 まずルーカス神父はすでにかなり前から悪魔バールに攻撃を受けていた。次に重要なのはこのカード。マイケルのお母さんは死んでしまったわけだけど、生前、マイケルにあるカードを託していた。裏面には「あなたは一人ではない。天使が付いている」と書かれている。つまり母親が天使になって付いている……と。
 それに「マイケル」の名前。マイケルは「ミカエル」の英語形。マイケル自身が神の祝福を受けた存在だ……ということが示唆されている。

 悪魔憑きを解消させるには、その悪魔の名前を特定しなければならない。これはなぜなのだろうか?
 このブログでは別のところで書いたのだけど、かつて「諱(いみな)」と呼ばれる風習があった。本当の名前を隠し、仮名を名乗るという風習だ。なぜ本当の名前を隠すのかというと、自然界にいる魔物に魂を奪われないようにするため。幽霊や悪魔は概念の存在であるから、その人間個人を特定する名前を奪われると精神も奪える……と考えられていた。
 現代でもネット社会で、だいたいみんなハンドルネームだし姿はアバター。実名を特定されることを警戒する。実際、特定されると住所や電話番号までもが晒され、様々な被害を受ける。だからみんな実名を隠そうとする。ネットのハンドルネーム文化は現代の「諱」だともいえる。
 その逆で、幽霊や悪魔は概念の存在なので、名前を特定すると、それで何者かがわかる。これでようやく悪魔を祓える段階になる……というわけ。

 余談。イタリアの裏道を俯瞰で捉えられている。小道をよーく見ると、形が「蹄」になっている。たぶん、イタリアの路地裏なのだろうけど、こんな場所、よく見付けたね。

 ここまでが映画の解説。ここから感想文に入っていこう。
 私の個人的な感想として、かなり楽しい映画だった。映画を観ている間、いろいろ考えさせるものがある。
 私の考えだが、幽霊には「地域差」というものがある。この話の時、例として出すのがイギリスとフランスだ。イギリスは「1平方メートル内の幽霊の数が世界で最も多い」と言われるが、これはイギリス人の幽霊好きが関係している。日本では「幽霊が出た」という話が出たら、その場所や建物は忌避されるが、イギリス人は好んで「ぜひ幽霊を見たい」とその場所を尋ねようとする。どこかのホテルで幽霊が出た、という噂が出たら宿泊客で賑わうようになり、幽霊が観光ワードになるなら「うちのホテルでも幽霊が出た」「うちのホテルでも幽霊が出た」と言い始める。ついには「ロンドン幽霊観光ツアー」なんてものが企画されるようになる。
 イギリス人の幽霊好きは最近に始まった話ではなく、19世紀頃から「幽霊が出た!」という噂が立ったら、夜な夜なそのお屋敷の周りに見物人が集まり、大騒ぎになる……という話がよくあった。  こういうお話しからわかるように、イギリスの幽霊は一般家庭にはあまり出ない。出るとしたらお屋敷。幽霊になるのは一般人ではなく、正しい血筋の者……と決まっていた。
 ハリウッドで制作される幽霊ものホラー映画は、イギリス由来のものだ。現代のホラー映画に古色蒼然としたお屋敷が出てくることはあまりないのだが、よくよく見ると壁に腰板がはめてあったり、階段の手すりに彫刻が入っていたり、やたらと絵画が飾ってあったり……普通の一般住宅にはない特徴があちこちに見られる。イギリスのお屋敷幽霊がハリウッドに採り入れられたためだ……と私は考えている。
(殺人鬼が登場するスラッシャー映画や、ゾンビ映画はアメリカ発のジャンル)
 イギリスはどこもかしくも幽霊だらけだが、一方、ドーヴァー海峡を挟んだフランスはどうだろうか? イギリスのお隣さんフランスだが、こちらでは昔ながらの幽霊話はほとんどない。こういう話として出てくるのは、「フランス人は理性的だから、幽霊などという曖昧なものは信じない」という。
 いやいや……フランス人のどこが理性的やねん。ことあるごとに暴れ回るフランス人が理性的なわけはないでしょう。
 フランスで幽霊話が広まらないのは、もっと単純に、幽霊現象がほとんど起きなかったからではないか。これが私の考えている幽霊の地域差。幽霊はあらゆる場所にあまねく偏在しているものではなく、「いる場所」と「いない場所」がある。幽霊のいない場所には幽霊話が発生することはない。生き物に「生息区域」があるように、幽霊にも生息区域があるのではないか。
 実は日本でも幽霊の目撃話は東北のほうほど多いという。日本は南北に長く伸び、気温差が激しい。幽霊のいる・いないは気温に関係しているかもしれない(といっても、沖縄にも幽霊の目撃話はあるけれど)。

 で、今回のお話しはイタリア。これまたフランスのお隣。フランスには幽霊も悪魔もいないのだけど……イタリアにはうじゃうじゃと悪魔達がいる。映画中でも語られていたが、イタリアにはエクソシスト案件が年間50万件もあるのだとか……。
 そうかイタリアの幽霊話か! これは見落としだった。Amazonで検索をかけると、イタリアのエクソシストを題材にした本がそれなりに出ているらしい。うわー知らなかった。今度読んでみよう。これは題材として面白そうだ。

 ……こんなふうに、この映画を見ている間、ずっとこういうことを考えていた。イタリアではこんな楽しいことが起きていたのか……胸を躍らせながら見ていたわけである。

 ところが本作はアメリカでは酷評だった。興行的に振るわず、批評もクソミソ。いや、普通に面白かったのに何で……? たぶんアメリカの観客はこの映画を「ホラー映画」として見ようとしたからだろう。確かにこの映画は「怖がらせるシーン」がほとんどない。ホラー映画は「怖がらせること」がサービスなのだけど、そういう意味でサービスシーンがほとんどない。どうしてこの映画はサービスシーンがほとんどないのか……それはこの映画が「ホラー映画ではない」からだ。
 じゃあどういう映画だったのかというと、「信仰心を巡るお話し」がメインテーマ。マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』とかなり近いテーマ性を持った作品だ。
 この作品を改めて見ると、主人公のマイケルは最初からほぼ最後まで、幽霊だの悪魔だのといった存在を信じていなかった。怪奇現象にもほとんど遭遇しない。いや、実は怪奇現象に遭遇しているのだけど、ほとんど気付かずスルーしてしまう。マイケルは一貫して理性的に「幽霊は存在しない」「悪魔は存在しない」という立場で物事を見ていたが、最終的にとうとう悪魔の存在を認め、その悪魔を祓うために信仰を受け入れる……というあらすじになっている。
 そういうマイケルの主観で語られている映画だから、すでに書いたように怪奇現象が起きているのにほとんどスルーしてしまっている。プロローグシーンに出てくる女性の死因や、その後に起きた交通事故も、実は悪魔による“呪い”だったのだけど、マイケルは幽霊を信じてないから、純粋に「事故」とみなしてしまっている。
 映画もマイケルに視点に寄り添っているから、一つ一つのシーンをいかにもな「ホラー的」な描かれ方ではなく、ナチュラル寄りな撮り方をしている。ホラー映画的に「怖がらせてやろう」としていない。でも実はよーく見ると……というのがこの映画の正しい見方。裏読みすると別の面が見えてくるのが、この映画の面白いところ。幽霊とか悪魔とか言う前に、そういうものが「本当にいるのかどうか」を検討しよう……という立場で作られている。
 たぶんアメリカの観客はその辺りの見方を誤ったんじゃないか。よくよく見るとマイケルが見落としている「悪魔の兆候」があちこちに描かれていたのだけど、それも見落としたんじゃないかと。
 それにやはり「エクソシスト」を題材にしているから、怪奇現象や超常現象が次々に起こる……そういう映画を期待してしまったのではないか。マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』だったら、題材からして「信仰とは?」をテーマにした作品だとわかる。観客もそういうつもりで見るはずだ。ところが本作『ザ・ライト』は「ホラーだ」という先入観で見てしまう。そこでテーマの見誤りが出てしまった……そういうことではないだろうか。

 最初に書いたように、この映画、かなり面白いんだ。エクソシストが題材で、一見するとホラーっぽい外見で描かれているけど、実は信仰心を巡るお話し。マイケルという神からの祝福を受けているのに、自分の能力を信じていない若者が、最終的に自分の能力を受け入れるまでのお話し。ベテランエクソシストであるルーカス神父が悪魔に取り憑かれ、その悪魔を祓うことによって、マイケルは宿命として定められている自分の人生を受け入れていく。物語全体がマイケルの成長を表現する「儀式」となっている。
 そういう映画だ、と気付いたらこの映画の評価は確実に変わるはず。「見方が変われば面白さが変わる」映画。「ホラーを期待したのにイマイチだった……」という人は、もう一度見てほしい。落ち着いて見たら、この映画の真価が見えてくるはずだから。


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