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映画感想 バブル

 『バブル』は2020年に発表されたアニメーション映画で、Netflixにて先行公開された後、2022年4月28日劇場公開された。監督は『進撃の巨人』で知られる荒木哲朗。彼を筆頭として『進撃の巨人』スタッフが集結。そこにヒット作をいくつも抱えるプロデューサー川村元気、脚本には虚淵玄。キャラクターデザインには『デスノート』の小畑健。盤石の布陣で制作されたアニメーション映画である。

あらすじ紹介

 ひとまず本編ストーリーを見てみよう。


 現在から5年前、世界中に正体不明の「泡」が降り注いだ。泡は東京を中心に大量に降り注ぎ、ある時、突如爆発した。爆心地である東京は巨大な泡に包まれて、各地で泡が降る現象が収まった後でも東京中心部のみで現象は継続した。人々は東京から脱出し、首都機能も別の都市へと移されるようになった。
 東京は「居住禁止区域」となったが、そこを不法に滞在する少年達が現れるようになる。やがて彼らは、生活必需品を賭けて争い合う「東京バトルクール」なる遊びを生み出し、そこで日々の鬱屈を晴らすようになっていく。
 物語は東京バトルクールに参加するチームの一つであるブルーブレイズ(BB)を中心に描かれる。ブルーブレイズのメンバーであるヒビキは、東京バトルクールで絶大なパフォーマンスを発揮するが、人との接し方がわからず、チームメンバーとも距離を置いていた。
 そのヒビキは時々東京タワーから発せられる謎のメロディを耳にしていた。その日も謎のメロディが放たれるのを聞いたヒビキは、東京タワーを目指す。
 しかし東京タワーはかつての爆発で複雑な重力場が発生していた。ヒビキは重力場を回避しながら東京タワーを上へ上へ目指していくが、しかしあと一歩で手が届かず、転落してしまう。  転落していくヒビキを救おうと、泡の一つが飛び込む。その泡は突如人の姿に変化して、ヒビキを救い出すのだった……。
 その翌日、ヒビキと謎の少女はシンが操縦するボートに乗り、自分たちが拠点とする船に戻るのだった。


 ここまでで20分。
 素朴な疑問だが、なぜ東京タワーなのだろうか。スカイツリーではなく? スカイツリーは建造された当時から妙な噂があって、スカイツリーをエンタメの中に描くと「使用料が発生」するとかしないとか……(『バブル』の作品中ではスカイツリーはちらりとも映らない)。そもそもスカイツリーは形が悪い、映像映えが悪い、という難点があるのだが、使用料の問題で、いまでもこうした物語が作られる場合、東京タワーが中心になってしまう……という話を聞いたが、そもそも「スカイツリー使用料取られる」話自体本当かどうかわからない。
 まあ今でも東京タワーは人気のスポット。スカイツリーは微妙……という話でいいだろう。

『バブル』はどんな作品?

 さて困った作品だ。
 まず「イメージありき」が先行して、物語が後から付随していくように作られたから、ドラマなんてものがどこにもない。それなのに、絵的なパワーはめちゃくちゃ強くて、映えるシーンだらけ……という、とんでもなくアンバランスな作品だ。
 もとより荒木哲朗監督は「画作りの達人」であり、豪快なアクションを描き出すクリエイターであり、その一方で物語を構築しようという関心が薄い作家だ。それは荒木哲朗監督の過去作である『甲鉄城のカバネリ』や『ギルティクラウン』といったオリジナル作品にも共通する特徴である。ハリウッド映画監督でいうとマイケル・ベイ監督の作風によく似ている。達人的な画作りのセンスと豪快なアクションを描き出すけれど、物語を構築する気がまったくない映画監督は、どの時代のどの国にもいるものである。
 荒木哲朗監督は『進撃の巨人』のように超魅力的な原作があれば最高の演出家として秀作を作り上げる才能を持った作家だが、オリジナル作品となると……。すでに『ギルティクラウン』や『甲鉄城のカバネリ』といった作品を見てきたアニメファンであれば、「ああ、いつもの荒木哲朗監督だね」と見ることができるが。(それこそ、マイケル・ベイ監督を見るような感覚で)
 ただ、ごく一部の「わかっている」アニメユーザーを相手にするだけならいいが、ここまで大々的に広告を打って制作されるアニメ映画になると、なかなか批評が厳しくなっていく。
 私も本作の評判をちらっと見たのだが、「あっちゃー」……という感じだった。いつもの荒木哲朗監督作品じゃない。マイケル・ベイ映画みたいなもんだよ……とは思うのだが。

 とりあえず、作品と向き合おう。
 表面的なストーリーを見ると『人魚姫』をモチーフにした少年と少女の恋物語……。ではその背景に何が描かれているのか……を掘り下げていくとしよう。

 まず東京という場所について見ていこう。
 東京は経済と芸能の中心地であるが、生産の場ではない。東京は地方で生産されたものを集約させて、消費する場所である。この東京の性質は今に始まったものではなく、江戸時代からのもの。東京は何かを作ったり……という場所ではないのだ。
 私が「東京にゃ絶対に住みたくない」と言い続けているのは、「人が多すぎて嫌」、というのもあるが、「生産のリアリティ」がわからなくなっていく、という恐れがあるからだ。東京にはありとあらゆるものがあるのが当然。その「物」の背景には作った人と運んだ人がいる……というリアリティが見えなくなる。東京の人間は、そういう「生産のリアリティ」を欠いた状態で、何を消費したか……で人間のステータスが変わると思い込んでいる。誰も地面に足を付けていない。そういう危うさに飲み込まれる危険性があるから、東京には住みたくない……と私は語っている。
(今時、田舎でも「生産のリアティ」がわからなくなっている人間は山ほどいるけどね)
 『バブル』ではその東京が壊滅的被害に遭うのだが、それで日本が文化的・経済的に崩壊したのか……というとぜんぜんそんなことはなかった。東京の外では相変わらずごく普通の生活が営まれていく。あたかも東京がなかったかのように(そのバブルの住人達にしても、見ているとみんなそれなりのお洒落をしている。東京が崩壊していても、まだ消費社会の一員として過ごしているのだ)。これは東京がそもそも、そういう「生産の場」ではなく、「消費の場」であったからだ。東京が壊滅して、社会からあぶれた若者達が住処として遊び場にしていたとしても、まったく問題はないのだ。これがある種の、東京という場の実態を示している。

 作中で妙にリアルだな、と感じられたのは、東京に大量の泡が降った後でも、人々はその東京でごく普通の日常を営んでいた……という描写があることだ。普通に電車は走っていたし、人々は学校へ行き、会社に出勤していた。現実の状況がどうなっても、日常が運営されていく。東京という場所自体が地に足を付けていないから、そういう奇妙な状況になる。
 東京はゴジラが横断しても、自衛隊の戦車だらけになって戒厳令が発令された後でも、相変わらず日常は運営されていく……そういう都市なのだ。現実感がないから、日常だけが運営されていってしまう。
 間もなく東京一杯に降り注いだ泡が弾け、ようやく人々は大慌てで東京を脱出しようと動き出す。しかし渋滞のうえに高速道路も冠水して身動き取れなくなっていき……そんな状況が描き込まれていく。

本編ストーリーを掘り下げて見よう ウタの正体は?

 この話をさらに掘り下げたいが、しばし中断して、本編ストーリーを見ていこう。映像の中に何が描かれていたのか。シーンの意味や台詞の意味をもう少し掘り下げていこう。
 まず映画冒頭、巨大なシャボン玉のようなものが描かれる。シャボン玉のなかにカメラがズームしていき、シャボン玉の中に銀河が現れ、さらに奥へ奥へと進んでいくとようやく地球が現れてくる。実は銀河も地球も巨大な泡の中……その中にも泡が偏在しているという様子が描かれている。
 ヒロイン・ウタはヒビキに触れると泡になって溶けてしまうのだが、その泡がヒビキに触れた瞬間、パッとヒビキの脳裏にイメージが浮かぶ……というシーンがある。あの泡の一つ一つが記憶やイメージを有しているという説明だ。
 泡は巨大な「群体」としてふわふわと漂っている物だが、あるイレギュラーの何かが起きた時、群体としてのまとまりが崩壊してしまう。
 その崩壊がいつ起きたのか……というと少年時代のヒビキが、東京タワーの展望台で泡の一つと触れた時だ。この瞬間、泡はバッとはじけ飛び、「群体」としての意識から「個体」としての意識を持つようになった。
(空中をふわふわ浮かび続けている「泡」はまだ何かしらのイメージを記憶しているのだろう。ただし、個体としての意識は存在していない。ただの水になってしまったものは、もうイメージを保存していない状態だ。後半の展開を見ると、全体としての意識が存在している……という描写はある)

 成長したヒビキが、やがて東京タワーを目指そうとするが失敗してしまう。そこに、一つの泡がヒビキを救おうと飛び出す。
 その瞬間の映像を見ると、ヒビキの口から漏れた泡と、救おうとした泡が合体し、そこで細胞分裂が起きて、次の瞬間には少女の体をまとい始める。泡の細胞分裂の様子だが、ちょうど人間の精子と卵子が結合して、細胞分裂を始めた様子に似ている。かつて少年のヒビキが東京タワーで泡に触れて群体としての泡が爆発を起こしたように、ヒビキの口から漏れた泡と触れあった時にも爆発が起きて、1人の人間を構築した。
 だいぶ後のシーンになるが、こんな説明がある。

マコト「世界は崩壊と再生を繰り返してるって、集まって、爆発して、散らばって、また集まる。私たちの銀河も、確か45億年後にアンドロメダ銀河と1つになるんだって。そしたら爆発して、また……」
ヒビキ「散り散りになるってこと?」
マコト「そう。そして私たちの体を作る元素は、いずれまた集まって別の惑星の材料になるの」

 ここの台詞で何を説明しているかというと、ウタがどのように人間の姿を獲得していったか、さらにこれから起こるバブルの中で起きるもう一つの「革命」を示唆している。これは映画クライマックスに関する暗示なので、さておくとして……。

 ところで、本作には全編を通して、象徴的なメロディが流れている。
 そのメロディを聴いた時、私は「ん? この曲は……」となった。そこそこ年季の入った映画ファンなら、誰でも「あれ?」という感じになるはずだ。
 私は『バブル』を見終えた後、すぐにスティーブン・スピルバーグ監督『未知との遭遇』のあの曲を聴いてみることにした。聞き比べると、違うけれど、でもよく似ている。ここまで似ていると、「偶然」であるはずがない。意図的に似せて描いたと見ていいだろう。
 ではどうして『バブル』のメロディと『未知との遭遇』のメロディが似ているのか。それは泡娘・ウタが宇宙生命体ということだろう。
(泡娘と書くと意味深だな……)
 ということは宇宙生命体である泡娘ことウタとヒビキの関係は昔ながらの異類婚姻譚のお話ということになる。泡のままだと人類からあまりにも遠い存在だが、ヒビキの泡と融合したウタは、限りなく人類と近い存在になっている。

 ウタの姿だが、姿を構築する時、目の前にあったポスターがベースになっている。だがその姿は中途半端。半分くらいがヒビキの体をベースにしている。ヒビキのカラーがあちこちに移っているし、アホ毛も移植されている。行動様式については、その直前に遭遇した猫の要素が混じっている。これがヒビキの口から漏れた泡と合体したから。
 ウタはヒビキに最初から恋をしている。本編映像を見ていると、ウタの視点に入ると、ヒビキがやたらと美しくなり、唇まで艶やかに描かれる。ウタが感じている、ヒビキの性的側面を強調して描かれる。
(ここが見ていてこっ恥かしくなるところだ)
 一方、ヒビキから見たウタはほとんどのシーンでフラットな描き方。時々、ウタの中に性的な側面を見た瞬間だけ、ブラシを一杯載せた絵で描かれている。
 こういうところからウタによるヒビキへの気持ちは、ひたすらに一方的なものであることがわかる。
 しかしウタは、ヒビキに触れることができない。自身を構築した存在であるから……なのか、ここはよくわからない。ウタとマコトは何度か接触しているが、泡になって溶けるという現象は起きていない。ウタはヒビキに対して心情的に、性的に惹かれる存在であるが、触れることができない……。ここが悲劇的な結末を予感させる要素となっている。

いったい何が「爆発」したのか?

 本編ストーリーを掘り下げて見ていきたいが、この辺りでもう少し脇のほうから物語を掘り下げて見よう。
 人類が抱えている葛藤は、「同族の間引き」ができないことである。人間が人間を殺すことは、いつの時代も重罪である。そこで人間が増えすぎた場合、どうするか……という考えが未だに誰の口からも提唱されない。それが人間社会が普遍的に抱える葛藤……いや、場合によっては「悪夢」となる。

 定期的に上がる話題だが、我が国にはニートが数千人いるとされている。由々しき自体である。労働に関わっていない人口を、我が国はそれだけ抱えているのである。
(ちなみに私もニート)
 ところが、だ。それだけ働いていない人間を抱えているのに関わらず、日本が経済的破綻をした……という話は出てこない。「経済破綻しそう」な要素は一杯あるが、それはニートの問題とはまったく別問題だ。ということは、我が国にはそもそも働いていない人間を数千人ほど抱えても問題ないくらいの豊かさを獲得できている……とも言えてしまう。
 我が国のニート問題を手っ取り早く解決させる方法はあるにはある。国が巨大公共事業を始めて、現在働いていない日本人をそこで雇用させることだ(日本人のみを……だ。ここで外国人労働者は入れない。ただ、今の社会、それをやると「問題」になってしまう。「平等に外国人労働者を入れないとダメだ」という意見が出てしまう)。が、国家による巨大公共事業なんて発想自体過去の遺産だし、今時の官僚連中にそれを企画できるほどの構想力を持った人材はいない。
 現代人は国家の事業に大きな関心を持たないし、国民は国家の事業を信用しないし、最近の潮流からすると、そこで雇われるのは「日本人以外」というオチにもなりそうだ。
 民間レベルでニート問題を解消するという手は実はある。雇用主1人1人が、長らく働いていない人材を雇えばいい。そこに積極的になれば、この問題はだいぶ緩和されるはずだ。だが最近の雇用主は、こういうニートに陥った人を雇うことを渋り、あろうことがベトナム人労働者にその場を預けようとする。
 とはいえ、現実を見ると、それだけの数千人のニートを抱えているのにも関わらず、日本という国家そのものは破綻していない。食料の問題をすると、相変わらず日本には捨てるくらい食料が溢れている。それが数千人にニートを抱えられるほどの経済力や生産力を持っていることの証で、ここからカタストロフの予兆は見えてこない。実は「ニートの問題」なるものは「問題」ですらない。これが問題である理由は、こういう社会のカタストロフ問題とは別で、心情問題――つまりはアイデンティティの確立の問題のほうだ。
 働いていないという状態は鬱に陥りやすく、犯罪などの社会問題を起こす可能性が高まってくる。なぜそうなるかというと、社会から排除されているという錯覚を生み出し、そこでアイデンティティの揺らぎを生じるからだ。
 だからこそ、ニート問題を解消する手っ取り早い方法は、雇用主が1人1人を雇えばいい。あるいは国が巨大公共事業を興して、働いていない人々に役割を与えること、だ。誰もそれをする気がない……というのが我が国が抱えている本当の問題――「無関心」である。

 この話を、別の側面から切り込んでいこう。
 1994年4月6日。ルワンダを舞台に、大規模な大虐殺が起きた。フツ族による虐殺で、ツチ族のうち50万人が殺された。
 この問題に関して、フツ族ツチ族間の長年にわたる民族問題の結果である……という説明は正解である。学校のテストでそう書けば、問題なく○をもらえるだろう。だがこの事件にはそれだけではない、もう一つの側面も存在している。
 ルワンダは大虐殺に陥る数十年前から、深刻な人口爆発が起きていた。私の持っている本には正確な記述はないが、人口密度は推定600人/平方キロメートルといったところだろうか。アフリカでもっとも高い人口密度、世界的に見ても高い人口密度であった。

 これだけたくさんの人口を抱えると、問題になるのが「食料」だ。
 人口は幾何級数的は増加していくが、食料生産は算術級数的にしか増加しない。人口はかけ算で倍々に増えていくが、食料の生産は足し算でしか増えていかない……という意味だ。ルワンダは残念ながら、国全体を通して農耕に向いているとはいえない土地柄で、そうした中で人口爆発が起きてしまうと、おのずと食料の問題を抱えるようになっていく。当時のルワンダ国民は、平均的に見て一般的に必要なカロリーの77%しか摂取できていなかったとされる。
 一般的に日本で働いている人の感覚だったら、「食べるものがないんだったら農地を新たに開拓すればいいじゃない」とか「食べ物がないんだったら輸入すればいいじゃない」とか、買うお金がないんだったらそれこそ「他で働けばいい」……とか安易に考えるだろう。豊かな国・日本でなら、これらはある程度は可能だ。しかしルワンダでは……。
 もちろん、ルワンダはどんどん農地開拓していった。しかしそれが天候不順を招き、土地が地滑りで崩壊する事態をあちこちで起こしてしまった。大量の食料を得ようとして、自然の荒廃を引き起こし、かえって食料が得られない事態に陥っていた。
 ルワンダの伝統では、親が所有している農地というのは長男が引き継ぐことになり、次男三男は他で新たに土地を獲得しなければならないが、アフリカ一の人口密度を抱える状況になると、自分の土地を得ることは非常に困難だった。

 それでもだいたいの一般日本人は「他で働けばいい」と考えるだろう。それだけの産業があればいいが、そんなものはない。働ける場所、食べられるものは限られる状況だったのだ。
 そうした最中でもルワンダ国民は人口を増やし続け、多くの人が飢餓状態に陥り、さらに「アイデンティティ問題」を引き起こすようになっていった。仕事を得ている者、得られなかった者、土地を得ている者、土地を得られなかった者……この間の中で、心情的格差が引き起こされるようになっていった。
 それがある時、感情の爆発として「虐殺」が起きたわけだが、内実を見ると、実はフツ族同士の殺し合いもかなりあった。普段からの恨みがフツ族同士でも爆発したのだ。
 結果的に大虐殺によってルワンダは国民の20%近くが一気に殺されてしまうことになる。
 だがなんの皮肉か、これによってルワンダ国内で「人口調整」が実現してしまった……というこれは現実で口にすると炎上してしまう話だけど……。実際、人口スタビライザーは成功した。
 人が増えすぎると、いつか社会問題にぶち当たる。それを手っ取り早く解決する方法……それは「同族の間引き」。だがそれは禁断の手法。できないからこそ、人類は悩み続ける。

 話を日本に戻してみよう。
 日本には数千人のニートを抱えている。社会から切り離され、復帰できなくなった人達が数千人である。今のところ、これが食糧問題を引き起こしている……という話は出てきていないが、「アイデンティティ問題」は確実に起きている。社会から切り離された人達は、社会に対して恨みを持ち、反逆しようと考え始める。これが昨今起きている、「無敵の人」による事件の、ある側面である。
 繰り返すがこうした問題は、雇用主1人1人がニートをちゃんと雇えばだいぶ緩和される。だがほとんどの雇用主は「ニートやってた人だけは……」と避けようとする。かくいう、ニートの私も結構色んな企業に履歴書を送ったのだが、面接すらさせてもらえたこともなかった。どこの社会に行っても、私のような人材は必要とされていないのだ。「働けよ!」と思うかも知れないが、働こうとしてもあらゆる場所から「働くこと」を拒否されたのだ。これが現実である。
(私を例にすればわかると思うが、ニートをやっている人は、別に一般の人より能力が劣った人……ではない。雇用主が「なんとなく嫌だ」と拒否した結果である。ニートの問題は、実は雇用を決める側にもある)

 お話はようやく映画『バブル』に戻ってくる。
 東京という街のいびつさは、生産のリアリティを持たないことである。その中で、全員が仕事に就き、社会と接地できているというアイデンティティの確立が成功していればいい。だが現実にはそんなことできない。ニートが数千人いて、それで社会観が崩壊していないということは、社会がそれだけ必要としていないという意味でもある。だが心情問題だけは確実に起きてしまっている。そこが問題だ。
 そんな歪んだ大都市東京が、泡に包まれて崩壊した――崩壊したというより、ある意味「真の姿」を現した、とも言えてしまう状況だ。そんな場所に今でも居座って遊んでいる子供たち。主人公ヒビキたちはみんな親なし、家なし、仕事なしの子供たちだ。つまり、「社会からあぶれた子供たち」だ。
 さらに人間関係の問題を抱えている。子供たちは徒党を組んでいるけれども、心から結ばれ合っているのではなく、1人1人は孤独だ。小規模なコミュティですら、結びつきあってない。

 日本、東京という街で大規模な大虐殺は起きそうにない。だから、ちょっとファンタジーを入れて、「泡」が降って崩壊した……。そういう話なら描写も可愛らしくなるし、拒否感も起きないだろう。
 映画の途中、やたらと戦争の画像がチラチラと挿入されてくるのは、そういう意図を込めたものであると私は読み取った。東京は生産のリアリティのない世界だから、あらゆる現実感が後退している。しかし人々の感情の中では、ルワンダのフツ族が抱えていたような、猛烈な鬱屈を抱えて、今にも爆発しそう。
 マコトの台詞の中に、「世界は崩壊と再生を繰り返してるって、集まって、爆発して、散らばって、また集まる」とある。これは『バブル』が構築する世界観のお話であると同時に、キャラクター個人個人についても語っている。東京の街は過剰なくらい人が集まった。だから爆発して、散らばった――それから少しずつまた集まろうとしている。ヒビキはウタを通して、ブルーブレイズの少年達と不器用に結びつこうとしている。そうした構造を、映画の世界観全体を通じて語ろうとしていたのではないだろうか。

映画の感想は……?

 最後に映画の感想だ。
 映画の内容をやや難しく解説してみたけれども、それで「じゃあなぜ少年達はパルクールやっているのか?」という説明に対する答えはない。あれは単にやりたかっただけ。東京を廃墟にして、その中を少年達がパルクールやってます(しかも少年達はみんな綺麗な服を着て、ファッションにこだわってます。つまり消費社会自体は崩壊していない)……このイメージを、どうやって映像の世界に、物語を載せて表現するか? そもそも企画内容自体に、「無茶ぶり」があった。そこで脚本家が相当に頭を絞って、それを説明するための物語を作り出した。
 ウタに宇宙生命体を示唆させて、爆発して散らばって集まる、という説明をさせて、それをシンボル的な象徴としてフィボナッチ数式を登場させて……というのは脚本家・虚淵玄の考案だろう(同じモチーフは、他の虚淵玄脚本の中にも現れている)。監督の無茶ぶりに対して、いかに答えるか。自分が持っている引き出しでどうにかこうにか答えよう……という苦心の跡が見えてくる。

 その一方で、スポーツものとして「熱い」物語にもきちんと仕立てている。この辺りの手際の良さはさすが一流の脚本家。
 物語が批判されている作品だが、全体を通して見ると、かなりきちんと作られている。前半25分でウタがやってくるまでが描かれ、次の50分までに「葬儀屋」というライバルとの戦いが描かれ、次の40分でクライマックスが描かれる。タイムテーブルで見ると、「ここまでに事件を起こす」「ここまでに世界観の真相を見せる」という要件をきちんと満たし、かつ30分おきに大きな見せ場がきっちり用意されている。タイムテーブルで分解して見ると、ものすごくきちんと整理されて作られている、ということがわかるはず。
 だが全体を見ると薄らぼんやりしている。なぜそうなったのか、というと最後まで「イメージありき」の世界観から脱することができないから。世界観を合理的に説明するのも物語だし、作中のドラマを高みに押し上げるのも物語に推進力があってこそだ。だが、『バブル』は世界観との合理的な説明もなければ、物語に強靱な推進力もなかった。なぜなら、「なんでパルクールなの?」「あの女の子はなに?」というイメージありきの説明に理屈を付けられなかったからだ。
 背景には虚淵玄が考案したと思われる、あの世界観に付けられる「理屈」がきちんとあったのだけど、それはバッと投げ捨ててしまっている。断片的には残っているけれど、断片的すぎてほとんどわからない。投げ捨てちゃったから、ぼんやりしたイメージだけが先行するストーリーになってしまっている。(この映画の感想をいくつか見たけれども、背景にある思想に気付いている人は1人もいなかった)
 しかし、こちらのストーリーを前面に出してきたところで、そこで「楽しいエンタメ作品」になっているか……というとならないだろう。というのが映画『バブル』の抱える難しいところである。
 そこで妙に「平凡」な感じがつきまとってしまう。面白いことをやろう……という意欲だけが先走って空回りしているように感じられる。荒木哲朗監督作品の『甲鉄城のカバネリ』のような状況に陥ってしまっている。

 ただ、アニメーション自体はやはり超一流のクオリティであるのは間違いないんだ。動くカメラワークの中を、2Dキャラクターが自由自在に飛び回るようなアクションは、描けるアニメーターは世界でも数人くらいしかいない。超絶技巧アニメーションが次々に登場する贅沢な作品だ。実際、そこの描写は最高なんだ。そこが一番書きたかったところ……というのは見ればすぐにわかる。
 問題なのは、そのイメージに対して、「理屈」がついてなかったこと。もしも物語という推進力が十全に発揮されていたら、とんでもない傑作になったかも知れないけれど、残念ながらこじんまりとした印象しか抱けなかった。


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