映画感想 タクシードライバー
今回視聴映画は1976年のアメリカ映画『タクシードライバー』。
私がこの映画を観たのはもうずいぶん前の話。テレビ放送で見たのだけど、いまいち話がわからず。あれ? ジョディ・フォスターほぼ登場しないじゃないか……とか思いながら見ていた。その程度の印象で、「よくわからない映画だった」のまま、現在に至っていたが……。
あれから十数年経って、ふとあの映画をもう一度観てみようか……そう思い立って今回見ることにした。Netflixにあったしね。
『タクシードライバー』は1976年制作の映画。監督はマーティン・スコセッシ。第29回カンヌ映画祭パルム・ドール受賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞男優賞・音楽賞受賞、全米映画批評家協会賞監督賞・主演男優賞受賞。業界人、批評家から大絶賛を受けるも、アカデミー賞はノミネートだけで受賞ならず。1977年のアカデミー賞はなんだったのかというと『ロッキー』。『タクシードライバー』は批評家受けする映画だったが、大衆的というわけにもいかず、一方で大衆に厚い支持を受けた『ロッキー』がこの年の栄冠を手にすることになった。
この時代のハリウッド映画はトーンが暗く、テーマ性や社会性を前面に押し出す映画が多かったが、『タクシードライバー』はそういった映画の終着点に出てきた映画で、この辺りからハリウッド映画は明るくおおらかでより大衆的な映画を制作するようになっていく。『タクシードライバー』は名作として後世に残ることになったが、『ロッキー』が栄冠を手にすることで業界の方向性が変わっていき、暗く陰鬱な時代の最後を飾る作品となった。
トラヴィス・ビックルの人物像
では映画本編のストーリーを見ていこう。今回はラストシーンまでネタバレで書いていく。
ニューヨークのとある小さなタクシー会社に、若い男が訪ねてきた。トラヴィス・ビックルだ。「なぜこの仕事を?」そう尋ねられて、トラヴィスは「夜、眠れなくてね」と答える。最近はほとんど夜通しで地下鉄やバスに乗っているけれど、どうせ乗るんだったらタクシーで稼ぎたい。……それが動機だった。
こうしてトラヴィスは夜のタクシーの仕事を始める。
ロバート・デ・ニーロ、映画制作時32歳。若い! 私が映画を見始めた頃というのはロバート・デ・ニーロはすでに貫禄たっぷりのおじさんというイメージで、若い頃はこんなにシャープでイケメンだったのか……と驚く。
ただ、この頃からすでにロバート・デ・ニートの役作りはどうかしていて、本作の制作の時にも実際にタクシー運転手を数週間務め、作品にリアリティを与えた。
映画の設定に戻ろう。
トラヴィス・ビックルは26歳でベトナム戦争に出征。もっとも過酷な海兵隊の訓練を乗り越えてきた。
この時代はアメリカによるベトナム戦争が終幕に向かおうとしていた頃だった。ベトナム戦争が始まった当初というのは、アメリカも「共産主義と戦うんだ」と戦争に前向きで若者達を送り出していた。しかし帰還する頃になると世相は180度変わっていて、戦争への厭世的ムードがアメリカ中を覆い、帰還兵達には労いの言葉もかけられないどころか社会差別の対象にされていた。この辺りは『ランボー』の第1作目を参照。
トラヴィスもベトナム戦争に出兵し、海兵隊に入隊して最前線で戦っていたが、帰ってみれば政府からの保障は何もなし。社会から疎まれる対象になっていた。履歴書も真っ白という扱いで、まっとうな仕事にも就けない。友人もいない。社会性の構築できず、孤独に陥っていた。
「12時間働いてもまだ眠れない。ちくしょう。毎日が過ぎていくが終わりはない。俺の人生に必要なのは切っ掛けだ。どこかに居所が欲しい。自分の殻だけに閉じこもり、一生過ごすのは馬鹿げている。人並みに生きるべきだ」
住んでいるアパートは壁に塗られているペンキもボロボロ。狭くて薄汚い部屋だった。そんな場所に友人は1人もいない。セックスパートナーももちろんいないから、ポルノ映画を孤独に鑑賞するだけ。
トラヴィスは誰かとの関係性を求めていた。誰かと繋がりたいと考えていた。ニューヨークという人が一杯いるなかで、タクシーという色んな人と密室を共有する仕事で、孤独を感じていた。
ただひたすらに孤独。こんな生活も仕事も嫌だ。何か変わる切っ掛けが欲しい……。トラヴィスはそう願っていた。
「雨は人間のクズ共を歩道から洗い流してくれる。俺は常勤になった。勤務は夜6時から朝6時。たまに8時まで。週に6日……」
ニューヨーク、タイムズスクエア。現在ではニューヨークと言えば……という観光名所になっていて昼も夜も華やかな雰囲気だけど、1970年代頃はこんな感じだった。こんなに暗かったんだ……。逆に新鮮に感じる。
この頃のニューヨークは危険な街で、マフィア、麻薬の売人、売春婦がウロウロしていた。黒人もコミュニティを作っていて、今こういう話をすると「黒人差別だ」と言われかねないが、この時代は黒人の教育や仕事があまりきちんとしておらず、黒人がギャング化しやすい問題を抱えていた。だからこの時代は黒人コミュニティはちょっと危ないところだった。
トラヴィスはそんな夜のニューヨークの街を見ながら、静かな苛立ちを募らせていた。トラヴィスはベトナム帰還兵であるから、正義感だけはやたらと強かった。しかし現状に対して何もできない……そんな鬱屈を抱えていた。
孤独に、正義感から来る苛立ちが折り重なってくいく。ここまでがトラヴィスの人間観が紹介されているところ。
「夜の街は娼婦、ごろつき、ゲイ、麻薬売人であふれている。吐き気がする。奴らを根こそぎ洗い流す雨はいつ降るんだ」
映画は冒頭から雨が降っている。雨の街を、タクシーが走り抜けていく映像から始まる。その他のシーンでも、頻繁に水がモチーフとして登場してくる。上の画像は水道管が破裂して、水が道路上に噴き出しているシーン。
トラヴィスはこの水でニューヨークの汚濁がまるごと流れていけばいいのに……そう考えていた。だが思っていただけで行動に移すことはなく、何をすればいいかわからず、ただ「そうなればいいな」と思いながら、毎晩タクシーを転がすだけの日々を続けていた。
ベッツィとアイリスの出会い
そんなトラヴィスの前に、“天使”が現れる。ベッツィだ。
トラヴィスは正義感が強い。街の暗部にうんざりしている。そんな最中、トラヴィスの願望を映したような美女が現れる。トラヴィスはベッツィに一目惚れをしてしまう。
トラヴィスがベッツィに一目惚れしたのは、「美人だったから」というのもあるけれども、鬱屈していたからこそ無垢なるものに対する憧憬が肥大化していたからだ。トラヴィスは勝手に自分の理想をベッツィに当てはめ始める。
ベッツィが何者かというと、選挙事務所のスタッフ。パラタインという議員を大統領に据えるべく活動していた。
トラヴィスは選挙事務所に乗り込んでいって、ベッツィをデートに誘う。その時の台詞がこれだ。
「君はひとりぼっちだ。ここを通るたびに見ていると、君の周りに人は大勢いて、電話や書類で一杯だが何の意味もない。ここへ来て君に会い、その目や動作を見ても君は幸せな人じゃない。君には何かが必要だ。たぶんそれは友達だよ」
ベッツィの前へ行き、トラヴィスは一方的に話し続ける。この台詞を見てわかるように、トラヴィスには妄想癖がある。選挙事務所の外から様子を見ていて、「ベッツィはこういう感じの女だ」というイメージを勝手に作っていた。しかし台詞をよくよく見ていてわかるように、トラヴィスは自分自身について喋っている。ベッツィは客観的に見れば仕事仲間に囲まれて、目標に向かって充実した日々を過ごしている。ベッツィが仕事仲間と交流している様子もきちんと描かれている。「周りに人が大勢いるけど意味はない」「君は幸せな人じゃない」「君に必要なのは友達だ」……これはほとんどトラヴィスの自己紹介だ。
そんな客観的に見てちょっとヤバい人なトラヴィスだったが、やっぱり見た目がイケメンだったので、デートに誘い出すことに成功する。
しかしそのデート先の喫茶店で、ベッツィはこのように言う。
「クリス・クリストファーソンの詩にあるの。“預言者で麻薬の売人。作り話が半々の歩く矛盾”」
そんな話を聞いて、トラヴィスは「僕は麻薬の売人じゃない」と憤慨するが、そうではない。ベッツィは「あなたは矛盾した人よ」と言っている(ここで詩の比喩表現を理解しないところで、トラヴィスの教養のなさが出ている)。
この映画はトラヴィスの心情にそこまで寄り添っているわけではない。ちょっと距離を置いて、客観的に見ている。それどころか、この場面ではトラヴィスという人物を批評している。こういうところから、映画のスタンスが読めてくる。
ベッツィの指摘通り、トラヴィスは個人の問題と社会の問題をごちゃごちゃにしている。トラヴィスはベッツィについて「君は幸せな人じゃない」なんて言うけれども、それは自分自身だ。自分の個人的葛藤を、勝手に他人の中に見出している。変わらなくてはいけないのは自分だけど、周りが変わるべきだと思っている。そのことを自分で自覚できていない……それがトラヴィスという人間だった。
その後、トラヴィスはベッツィをポルノ映画館へ誘おうとして振られてしまう。
トラヴィスがベッツィをポルノ映画館に誘ったのは、トラヴィスの社会観が常識とだいぶズレているからだけど、トラヴィスはセックスパートナーが欲しかったからだ。お金はそこそこあるし、食べ物に不足していないけれど、セックスパートナーがいない……。セックスをしていないと、人は自分が不完全な人間のように感じる。トラヴィスはセックスパートナーを得て、真っ当な社会観を持った人間になりたかった。
が、その行動はあまりにも早まりすぎ。トラヴィスはあっという間に振られるのだった。
ポルノ映画のエピソードの前だけど、タクシーにいきなり少女売春婦が飛び込んでくる。
「出して! 早く!」
トラヴィスがビックリして戸惑っているうちに、男がやって来て、少女を連れて行ってしまった。
短い出来事だったけれども、この出来事がトラヴィスの内面に引っ掛かりを残すことになる。
トラヴィスはずっと正義を行いたいと思っていた。ニューヨークの暗部にうんざりしていた。そこに、助けを求める女の子が飛び込んでくる……ライトノベルでありそうな導入部だ。しかも少女売春婦……少女、つまり「無垢」な存在と、性的存在がない交ぜになった人物である。ベッツィの裏面的なキャラクターとして描かれる。
しかしあまりの突然なことだったし、何も用意もしていなかったから、トラヴィスは何もできず。何もできなかったがゆえに、引っ掛かりを残すことになる。この時、タクシーの中に投げ込まれた、くしゃくちゃの紙幣をいつまでも持ち歩き続け、見るたびに思い出すのだった。
トラヴィスの犯罪計画
それから間もなくある男をタクシーに乗せるが……この人、どうやらマーティン・スコセッシ監督のようで……。『タクシードライバー』は低予算映画なので、監督自ら出演もしている。なかなかの名演技である。
トラヴィスはベッツィに振られたことによって、裏切られたと感じていた。ベッツィは無垢な存在で、自分を受け入れてくれる……。そう思っていたけれど、そうじゃなかった。自尊心がただ痛めつけられただけ。トラヴィスの過激な「正義」への想いは、反転してベッツィへの殺意に変わろうとしていた。
ここでわかるのは、トラヴィスの「正義」が表面的なものに過ぎなかったこと。トラヴィスはただ孤独が解消されていることを望んでいただけ。ただ個人的な苛立ちが、ニューヨークの風景に投影されていただけに過ぎなかった。
そんな最中にやってきたこの客は、妻への殺害計画を話していた。黒人と不倫した妻を殺してやる……。そんなふうに激高しているのだった。
トラヴィスは男の話を聞いているうちに、次第に感化されていく。自分を裏切った女を殺して何が悪いんだ?
計画を実行に移す前に、トラヴィスは職場の先輩に悩みを打ち明けている。
「ここから飛び出して、何かをやりたいと思っている。とにかく飛び出して、何かやりたい」
先輩はこう答える。
「男が仕事を選ぶ。やがて仕事を身につけて、要するに仕事イコール生き様ってことだ。俺を見ろ。俺は17年タクシー稼業をやっている。10年間は夜だが、いまだに自分の車がない。でもいいんだ。それが俺の生き様ってやつだ。人間なんてなるようにしかならんよ」
この先輩も若い頃は葛藤を抱えていたのかも知れない。でもタクシー運転手を17年やっているうちに「仕事」と「自分」がしっかり結びつけられていった感じがあった。そうして社会観を獲得した。今は仲間ができて、タクシー運転手としての仕事に満足している。
そういう人生の先輩からのアドバイスを受けるのだけど、トラヴィスの心には響かない。個人的な葛藤に囚われているトラヴィスには、リアリティを感じない台詞だった。
「よく聞けボンクラ共。もうこれ以上我慢できん。あらゆる悪徳と不正に立ち向かう男がいる。絶対に許さん。俺さ」
トラヴィスはいよいよ本格的な殺害計画を立て始める。はじめはベッツィへの憤りだったのだけど、それがだんだんベッツィが支持している政治家へと向き始める。
俺が孤独なのはあいつが仕事しないのが悪いんだ。ニューヨークがこんなに荒れているのは政治家が悪いんだ。この街のクズを、俺が洗い流してやる! ……そんな妄想に次第に取り憑かれていく。
孤独とそれがもたらす鬱屈が、突如政治問題にすり替わることがある。政治信望のまったくない若者が、いきなり銃を持って政治家を狙うことがある。
その直前、2度、あの少女売春婦のアイリスと会うことになる。
(アイリスと一緒に売春宿に入る場面、建物をパンアップして見せながら、警報音が一杯に鳴り響いている。まるでトラヴィスの行動に警告を送っているように見える)
トラヴィスは正義を行いたい。アイリスを少女売春という立場から救い出したい。その思いで燃えあがるトラヴィスだが、アイリスは自分の境遇を悲劇とは思っていない。トラヴィスの情熱を軽く笑うだけだった。
あの夜、トラヴィスのタクシーに飛び込んだのは、気の迷い、あるはドラッグでラリってったからだ……と言い訳をする。
でも実は、アイリスはスポーツという名前の男から洗脳を受けていた。自分は結構いい生活をしているんだ、スポーツに会えて良かったんだ……と思い込まされていた。
不条理な顛末
いよいよ暗殺決行……。気合いを入れすぎたトラヴィスは、モヒカンでサングラスという格好で、パラタインが演説している広場に現れる。なかなかすごい格好だが、このモヒカンはメイクスタッフが気合いを入れて用意したカツラだそうだ。
しかしあまりにも目立つ格好なので、すぐにシークレットサービスに目を付けられる。
演説が終わってトラヴィスはパラタインに近付こうとするが、懐に手を突っ込んだ瞬間シークレットサービスが飛びついてきて、その場から走って逃げ出すのだった。
暗殺未遂……しかし普段とあまりにも違う格好だったので、「トラヴィス」だと気付かれることもなかった。ここまで入念に準備してきたのに、間抜けな失敗だった。
暗殺に失敗した……。トラヴィスはしょんぼりしつつ、でも気分を変えてアイリスに会おうとスポーツという男のところへ行く。しかし容貌があまりにも変わりすぎていたので、スポーツもトラヴィスだとわからない。それどころか警戒されて、追い払われそうになる。トラヴィスは衝動的にスポーツを撃ってしまう。
もう後戻りできない。トラヴィスは売春宿に入っていき、そこにいるギャング達を片っ端から撃って殺してしまう。
その結果……売春窟のギャングを一層することになり、トラヴィスは望み通り正義を実行し、ニューヨークの暗部を一掃したのだった。トラヴィスは英雄になった。
トラヴィスが当初から願ったとおりの結果になったのだけど……それは計画したことではなかった。本当はベッツィへの復讐のために、政治家を暗殺するはずだった。それがどんな運命のイタズラか、街のギャングを一掃することになる。「ニューヨークのクズを一掃したい」………トラヴィスがずっと思っていたことが、思わぬ形で実現してしまった。
この一件でトラヴィスは街の英雄として祭り上げられるのだけど……なんともいえない“変な感じ”がつきまとってくることになる。
事件を終えて、回復したトラヴィスはタクシー運転手に復帰する。そこに尋ねてくるのはベッツィだった。
トラヴィスはルームミラーでベッツィの姿をちらと見るのだけど、もうそこまで興味がない。話しかけられたら微笑んで返すけれども、それ以上アプローチしようという気持ちにもならない。
というのも、事件の後、トラヴィスの孤独は解消された。英雄として祭り上げられることでトラヴィスの社会観は回復し、タクシー会社の仲間達とも仲良くなり、すると孤独への苛立ちが消えて、無垢なるものへの憧憬も消えて、セックスパートナーが欲しいというガツガツした気持ちも消えて……。
トラヴィスはニューヨークのどこにでもいる1人の男となって、夜の街に消えていくのだった……。
映画の感想
何十年ぶりかに『タクシードライバー』を再び見て……思った以上に『ジョーカー』だった。基本的なプロットはほぼそのまんまだったんだな……。「タクシー会社」が「芸人事務所」に置き換わり、仕事仲間に「銃はいるか?」と持ちかけられるし、主人公が個人的な自己実現を達成しようとしたら、英雄と祭り上げられる……。『タクシードライバー』のトラヴィスは表舞台に出て称賛されたのだけど、ジョーカーは社会の裏側で虐げられている人たちのヒーローになっていく。
「裏」と「表」の違いはあるけれど、『ジョーカー』のストーリーはほぼ『タクシードライバー』からモチーフを組み替えて刷新されたものだった……そう言われているのは聞いていたけれど、ここまでそのまんまだったとは思わなかった。
さて、トラヴィスの人物像について。
トラヴィスのような人間はいつの時代にもいる。孤独に追いやられた人間だ。ニューヨークだから一杯いるのに、誰1人自分と関わろうとしない。孤独という鬱屈……。無垢なるものの憧憬。この2つがやがて狂気に変わっていく。
例えば2011年7月22日にノルウェーで起きた銃乱射事件は、犯人であるブレイビクは自分を「正義」だと思い込んでいた。自分が孤独に陥ったのは社会が悪い、その社会を作った政治家が悪い、その政治家に対して正義を決行すべきだ……。
正しいことをしたいという気持ちが、いつの間にか狂気に変わってしまう。正義への想いが、自分の暴力性を肯定しはじめてしまう。トラヴィスはただ自己実現を達成したいだけだった。孤独を解消したいだけだった……。それが正義への行動と勘違いし始める。
2022年代の日本でも、似たような事件が起きてしまったから、他人事ではない。こういった事件は、これからもいつでも起き得る。人を孤立させてはならない。社会は無関心と事なかれ主義をやめなければならない……。が、そんなものは理想論に過ぎず、何も変わらないのが世の常だ。だからといって人々は隣人に声を掛けたりしないし、声を掛けられても隣人は無視するだろうし。都市生活者の心の壁はいつまでもどこまでも厚い。
しかし「運命」というのは個人ではどうにもならない。トラヴィスは政治家を暗殺してやろうとしていたのに、それが失敗して、なぜか1人の少女を救い出すことになってしまった。犯罪者になるはずが英雄になってしまった。世の中どう転ぶかわからないし、自分の思ったとおりになるわけではない。英雄になろうとしてただの犯罪者になる人もいれば、犯罪者になろうとして英雄になってしまう人もいる。そんなどうにもならない運命の移ろいを『タクシードライバー』は描く。
その語り口は思った以上にドライだった。物語は最初から最後まで、ずっとトラヴィスの心理に寄り添っているが、しかしどこか客観的になっている。脚本家はトラヴィスに対して同情しつつも突き放している。結局のところなにひとつトラヴィスの思いのままにならないストーリーを展開させている。政治家を暗殺しようとしたら英雄になっていた……もはや悲劇なのか喜劇なのかもわからない。
脚本家は最終的にトラヴィスを英雄に仕立てたが、それによってトラヴィスの心が解放されたり……なんて様子を描くこともない。ただドライに、「そうなりました」という結果だけを見せる。
英雄になって社会性が回復して、トラヴィスが「やったー!」と思ったとかそういうふうにすら描かない。ただベッツィに対して何とも思わなくなった……そういう場面だけが描かれる。冷徹に主人公への感情を突き放し、物語から熱気を取り去っている。
「結局どうにもならない」「何かをしようとしたところで、どうにもならない」「なるようにしかならない」……映画の途中、タクシー会社の先輩がトラヴィスに対してそう語る場面があったが、その通りになった。喜劇でも悲劇でもなく、あるのはただただ「無情」。トラヴィスが社会に対して何かであろう、自分が何かでありたい……そういう気持ちも最後には抜け落ちて、ただのなんでもない男になっていくまでのお話だった。自己実現を達成させる映画ではなく、自己実現そのものを諦めてしまう映画だった。人はそれをただ受け入れるしかないんだ。
1976年当時、映画に関して反響は多く、トラヴィスに同情する人々は多かったそうだ。トラヴィスのような孤独を抱えている人はそれこそ世界中にいた。特にベトナム戦争を終えたあの時代には、政府や世間から放り出されてしまった人たちが山ほどいた。みんなトラヴィス的な葛藤を抱えていた。
『タクシードライバー』はそれをあぶり出し、そして何も変えなかった。行動を起こしてハッピーエンドが待っているわけでもない。何も変わらない、無情が突き返ってきて、ただ諦めるだけ。トラヴィスは結局なにも手に入れなかった。人はトラヴィスの人物像に自分と似たところを見出して共感するが、ただ愕然とするだけ。映画を見終えた後でも、何も変わらない世の中にうんざりしながら、群像の1人に埋没するだけだった……。
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