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映画感想 バルド、偽りの記憶と一握りの真実

 嘘の向こうにある本当。

 タイトルの『バルド』という言葉は、チベットの仏教典のなかに出てくる言葉だ。チベットでは人は死んだ後も「耳」だけは機能し続けていて、生者の言葉を聞いている……と考えられ、死者の耳元で49日間経典を語り聞かせる……という習慣があった。こうすることで生前の迷いから解き放たれ、涅槃に到達できる……という。これを「バルド・トドゥル」という。「バルド」とは死んだ後、別の状態へと移り変わろうとしている時の中間状態のこと。「トドゥル」とは耳で聞いて解脱するという意味だという。
 このタイトルからわかるように、本作『バルド』は「死」に直面した人のお話である。制作は2022年。9月に第79回ヴェネツィア国際映画祭コンペンション部門でプレミア上映され、同年11月に劇場公開、12月にはNetflixにおいてストリーミング配信された作品である。

 監督のアレハンドロ・G・イニャリトゥについて掘り下げよう。本作は監督自身の半生を振り返って総括する意味が込められた作品なので、映画の内実を知るために監督について知っておくべきだろう。
 アレハンドロ・イニャリトゥはメキシコ出身の映画監督である。出身はごく普通の中流階級の生まれで、大学卒業後はラジオ局のDJとなり、次にテレビ番組のプロデューサー、コンサートのプロデューサーなどを務めていた。
 2000年に映画『アモーレス・ペロス』を発表。これがいきなり第53回カンヌ国際映画祭・批評家週間部門受賞、第13回東京国際映画祭グランプリ受賞、アカデミー外国語映画賞ノミネート……と様々な栄冠を勝ち得て、世界的に評価されることになる。
 私はこの作品を見てないのだが、本作について「亡くなった息子のために作った」と語っている。
 アレハンドロ・イニャリトゥは90年代頃、息子と死別している。誰かとの死別、息子との死別……はこの後もたびたびテーマとして掲げられ、『21グラム』『レヴェナント:蘇りし者』といった作品の中で何度も反復されることになる。
 『アモーレス・ペロス』を発表した後、2003年には『21グラム』、2006年に『バベル』、2010年には『ビューティフル』、2014年には『バードマン』、2015年には『レヴェナント:蘇りし者』を発表し、驚くべきことにほぼすべての作品が何かしらのアワードを獲得している。特に2014年の『バードマン』は第72回ゴールデングローブ賞脚本賞、主演男優賞受賞。第87回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞。さらに翌年の『レヴェナント:蘇りし者』はまたしてもアカデミー賞監督賞受賞。『レヴェナント』で獲得したアワードの数はあまりにも多いので、ここでは省略しよう。
 アレハンドロ・イニャリトゥは2年連続アカデミー賞を獲得し、名実ともにメキシコを代表する“世界的映画監督”となったのだが、しかしその本人の意識の中には複雑な想いがあった。それがこの作品を作る原動力となっている。

《ネタバレ注意!》

 それではそろそろ本編ストーリーに入っていくが……今回は最初から後半にまつわるネタバレありで話を進めていく。まだ見ていない、結末を知りたくない……という人はいったんページを閉じて、Netflixで本編を見た後に読んでもらいたい。

 メキシコの荒野を飛翔するイメージの後、こんなシーンが描かれる。妻が男の子を出産するのだが、とりあげた医者が「出たくないらしい」と赤ちゃんを母親の胎内に戻してしまう。
 後にわかることだが、この時の子供――マテオは死産している。生まれてこなかった子供。主人公の脳内で、「あの子供は出てくるのが嫌だったから、戻ったんだ」……というふうに解釈される。そう思い込んだとおりの映像が描かれる。
 つまりこの作品は、リアルな現実を描いた作品ではなく、主人公のシルベリオ・ガマが「そう解釈した」世界のお話しとなっている。

 どうしてそうなっているのか……というとシルベリオ・ガマはすでに死去したから。すでに死んでいるから“現実”がない。だからシルベリオ・ガマが「そうだ」と思い込んだイメージがえんえん描かれていくことになる。シュールな場面がずっと続くのは、そういう理由である。

 続いて電車に乗っているシーン。「電車」というのは創作の世界ではよく「あの世とこの世の端境」のイメージとして使われる。あの世とこの世の端境……という場所で、ウーパールーパーの入ったビニールの袋を抱えている。このビニール袋は「子宮」のイメージで、ウーパールーパーは胎児のイメージ。「生まれてこなかった子供」を抱えている……というイメージの場面。
 電車に乗っていると、次第に「ピー、ピー」と電子音が聞こえてきて、「この音は正常なの?」と手前に座っている女性が尋ねてくる。
 本作の構造は、臨終を迎えたとある男性が、この世を去る間際に見ている夢のお話しである。前半のこの辺りのシーンは夢の浅いところが描かれて、後半、再び同じシーンが描かれるが、同じシーンだけど意味が異なるように描かれている。前半はいろんなイメージが混濁し、あえて訳がわからない描かれ方になっている。
 映画を最後まで見るとわかるが、この場面は複数のイメージが合体して描かれている。分解して見ると、まずシルベリオ・ガマは実際に電車に乗っていた。そこで心臓発作を起こしてしまった。「ピー、ピー」という音はシルベリオ・ガマは今まさに死のうとしていて、その体に繋がれている機械の音。「この音は正常なの?」は妻が機械の音を聞いて発した言葉。その言葉が、目の前にいる女性の口を通して聞こえている……という状態。

 この後、メキシコの荒野と水のイメージが描かれる。一見すると「なんとなくの雰囲気だけ」で描かれたシーンに見えるが、臨終間際のシルベリオ・ガマが今まさにいる家と、「あの世のイメージ」が合体した光景として描かれている。
 分解して見ると「ああ、そういうことか」とわかってくるのだが、しかし前半はまだシルベリオ・ガマが「自分が今まさに死のうとしている」ことを理解していないので、主人公が混乱している状況そのものが映像になっている。

 続いてやってくるのがチャプルテペク城。
 シルベリオ・ガマはドキュメンタリー映画で大成功した。そこでジョーンズ大使にアメリカ大統領に面会させてもらえるよう頼んでいる場面だ。
 しかし二人の対話は、ずっと「米墨戦争」のことばかり。米墨戦争とはなんなのか?

 米墨戦争とは1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国との間に起きた戦争のこと。

 こちらが1824年代のメキシコの領土。実はものすごく広かった。
 1836年、テキサス共和国がメキシコからの独立を宣言する。フランス、オランダ、イギリス、ベルギーの4カ国が独立を承認したのだが、「それは許されねぇ」と反対したのがメキシコ。1845年、独立したテキサス共和国はアメリカに合併されることになったのだが、やっぱりメキシコは「それは許さねぇ」という立場を崩さなかった。
 テキサスはアメリカとメキシコ、どっちのものか……もめた両国は1846年、とうとう戦争することになる。これが米墨戦争だ。
 チャプルテペク城はその米墨戦争の舞台となり、ここで多くの少年兵が死ぬこととなった。
 さて、その後どうなったのか……は現在の領土を見てわかるように、アメリカ側が勝利し、テキサスはアメリカの領土となっている。メキシコが「貧しい小国」になったのは、この時の敗北が現在まで続いているせいだ。

 二人が記念写真を撮っているこの場所は、マクシミリアン皇帝の寝室だった場所。

 こちらが飾られている絵画。フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンという名前で、ハプスブルク家出身の皇帝だ(長い名前)。ハプスブルク家ということは、もともとはオーストリア王家の出身だ。

 どうしてこの場所で米墨戦争のお話をしているのか……というとメキシコはアメリカからひたすら「搾取」され続ける国だからだ。メキシコに残っているのは「残りカス」。だからやたらと貧しい。もしもあの時の戦争に勝っていたら、歴史は大きく変わっていたかも知れない……。
 このシーンに入る前に、米アマゾン社がメキシコの領土である「バハ・カリフォルニア州を買収する」……というあり得ないような話をしているが、しかしメキシコ人はそういう恐れを抱いている。アメリカとメキシコはもう戦争はしないけど、アメリカの巨大企業が自分たちの土地を買収して、自分の国にしてしまうんじゃないか……。
 アメリカの土地、アメリカの文化……といっているものの一部は実は本来メキシコのものだった。ところがいま現在、そういう話は誰もしないし、忘れ去られようとしている。戦争はなくても、メキシコの文化がどんどん金の力で吸い上げられていく。
 それがシルベリオ・ガマ=アレハンドロ・イニャリトゥがずっと感じている葛藤。メキシコ人として生まれ、愛国心を持っているのに、メキシコの土地や文化を奪い去ってしまったアメリカに媚びた映画ばかり作っている。しかしアメリカに行かないといい映画は撮れない……。アレハンドロ・イニャリトゥはアメリカに移住して大成功したのだけど、頭の片隅にはいつもそのことを感じていた。祖国に対する後ろめたさ……。それがこの場面を描いた動機となっている。

 ちょっと番外編。この映画には「鏡」が頻繁に登場する。このシーンでは画面左側が鏡に映った画像。鏡があまりにも綺麗なので、映像を見たとき、画面の左側に空間があるのだと思った。
 鏡にはいろんなニュアンスが込められているが、このシーンではたぶん「虚像」。鏡にどんな意味があるのか……それを考えながら見るのも楽しいだろう。

 宮殿の中庭に出ると、175年前の戦争が再現されている。しかしその描き方が陳腐。いかにも作り物……という感じに描かれている。攻めてくるアメリカ人は、メキシコ人が金髪のカツラをかぶっている。
 チャプルテペク城を舞台とした戦闘はメキシコにとって負け戦。しかしメキシコ人はその戦いを「英雄物語」にしてしまった。負けた戦いなのに、英雄物語にしてしまった……。その歪んだ自意識の有り様が、アレハンドロ・イニャリトゥの現在に重なってくる。アレハンドロ・イニャリトゥ自身が米墨戦争というテーマを扱って、「アメリカに我が身を売った自分」を皮肉っている場面だ。

 次の場面で、シルベリオ・ガマはテレビスタジオへやってくる。シルベリオ・ガマはかつてラジオDJで、テレビ番組のプロデューサーを務めていた。それで、すれ違うスタッフに「おめでとう、おかえりなさい」と言われている。アメリカに出て、大出世して、かつての職場に凱旋にやって来ている……そういう姿が描かれている。
 シルベリオ・ガマがかつてラジオDJでテレビ番組プロデューサーだった……という経歴からわかるように、アレハンドロ・イニャリトゥの経歴を元に作られている。

 さあテレビ局内へ入っていきます。ここからずーーっとワンカットの長回しが続いていきます。
 しかし妙な場面が続く。いろんな番組が制作されているのだけど、スタジオの風景がずーっと連なっている。あり得ない光景だ。どうしてこうなっているのか……というと、これはリアルな光景ではなく、臨終間際のシルベリオ・ガマが思い出のなかを巡っている瞬間だからだ。本来は違うスタジオの様子だけど、頭の中でイメージしている場面だから、ずーーっと連なっているように描かれている。
 このシーンのテレビアナウンサーの話を聞いてみると……。

「……誰も助けようとせず、終点まで車内に。発見者の清掃員レフジオ・ドミンゲスさんです。どんな状況でしたか?」
「車両の清掃に入ったら人がいたんです。酔っ払いかと思いました。よくあることなので……」

 映画を最後まで見るとわかるが、この場面は臨終際のシルベリオ・ガマのベッド際で放送しているテレビの内容。死ぬ間際、ベッドの横で流れていたテレビの内容が、シルベリオ・ガマのイメージの中へと入ってきている。

 テレビの収録スタジオをずーーっと巡っていくのだけど、シルベリオ・ガマはとある収録スタジオにすーっと吸い込まれるように入っていく。案内人の女性に「待って。そっちには行かないで」と警告されているのにもかかわらず。
 ここが象徴しているのは、たぶんアメリカのショービジネス世界。若い頃のシルベリオ・ガマ=アレハンドロ・イニャリトゥは、華やかなアメリカのショービジネスの世界にこんなふうに誘い込まれていったのだろう。

 いったん楽屋に入って、そこで踊り子の女生とお遭遇する。シルベリオ・ガマはこの女性をじっと見詰める。謎のワンシーンだが、たぶんシルベリオ・ガマが若い頃、憧れていた女性……もしかしたら恋していたかも知れない女性。でもそれはテレビの向こうの相手で、実際に会ったことのない。そういう女性のことをふと思い出したのかも知れない。他にも意味がありそうだが……?

 その後、シルベリオ・ガマはテレビ時代の旧友であるルイスに会い、彼の番組「スポンガモス(推定しよう)」に出演する。
 ルイスは「ガマの親友だ」と語るのだけど……番組が始まると辛辣にシルベリオ・ガマについて批判を始める。それを聴衆が笑う。居心地の悪い時間が流れていく。

「率直に聞きたい。君が米国リベラル派に利用されていて、受賞は極右からの攻撃の償いだという声もある。認識してる? LAのメキシコ人コミュニティーを喜ばせるための受賞だと」

 君がアメリカでアカデミー賞を受賞できたのは、所詮は米国のリベラル勢力に利用されただけに過ぎないんだよ。昨今のアメリカのメインテーマは「多様性」だから、そこで「ちょうどいい外国人映画監督」だったアレハンドロ・イニャリトゥが選ばれただけに過ぎないんだ。別にあんたの作品が優秀だったわけではない。単に政略的に賞が与えられただけだ……と、ルイスは語っている。

 ここからシルベリオ・ガマのプライベートな話題まで飛び出してきて、徹底的な批判が始まる。子供の頃は「黒んぼ」と呼ばれていたとか、初めての恋人と駆け落ちしたとき、女の子に誘われたのにパンツを脱がなかったとか……。これももしかするとアレハンドロ・イニャリトゥの子供時代の話が反映しているのかな?

「真実の番犬が批判される気分は? 資本主義のためにCMを作り続け、突然芸術家に?」
「さすがだな。アメリカ人には喜んで話すくせに。ここじゃだんまりか。実に残念だよ」

 批判の前にずっと黙り続けるシルベリオ・ガマ。これはメキシコからの批判に対し、何も言えなかったアレハンドロ・イニャリトゥのことが反映されているのだろう。メキシコのテレビプロデューサー時代の友人であるルイスは、メキシコテレビ時代、一緒に働いていた人たちの象徴的人格。「きっと、あの時の仲間は俺を批判しているだろうな……」そういうアレハンドロ・イニャリトゥの後ろめたさがこのシーンを描かせている。

 しかし次のシーン、シルベリオ・ガマが自宅に戻るシーンになると、件のテレビ番組には「行っていない」ことになっている。臨終間際の男が見ている夢のお話しだから、こういうところで事実関係が混乱している。シルベリオ・ガマは件のテレビ番組に行かなかったから、ずっと無言だった……とも解釈できる。

「見下す奴らに俺を認めさせたくて。考えなしに行動しちまう。でもその後は自己嫌悪だ。求めた自分が恥ずかしくなる」

 自分の作っているものには意味がある。価値がある。その価値を認めてもらいたい。実際に認められたけど、それはメキシコから何もかもを奪ったアメリカという場所でだった。故郷の仲間達はどう思うんだ……という後ろめたさ。きっと批判している。「俺の作っているものに正当性はある!」と言いたいけれど、言った後にやってくる自己嫌悪。
 ここで「インポスター症候群」という言葉が出てくる。
 インポスター症候群は大成功を収めても、それを自分で肯定できないこと。「ペテン師症候群」という言い方もある。自分の成功は過大評価されているのではないか、自分は多くの人を騙してしまっているのではないか……そういう不安に捕らわれることだ。
 映画で大成功してしまったこと自体がどうしようもない不安(2回もアカデミー賞を受賞してしまった)。身の丈に合ってないんじゃないか? ……それがアレハンドロ・イニャリトゥが抱えている状況だった。

 妻と家の中を追いかけっこしていると、ふと子供部屋にいることに気付く。そこは息子ロレンソの部屋だった。
 ベッドで眠っているロレンソ。画面が暗くてわかりづらいが、ロレンソの声が声変わり前の子供の声だ。これは最近の思い出ではなく、ずっと昔の様子を思い出している場面だ。
 ここでウーパールーパーの「パコ」と「ギド」と「エルネスト」が出てきている。だいぶ後の方になって、この3匹のウーパールーパーが「ロレンソが子供の頃に飼っていた」ことが語られる場面がある。そういうところからも、この場面がずっと昔の場面だったということがわかる。

「マテオ兄さんもいたよ。みんないなくなってパパがここに座って、悲しそうな顔をしていた」

 さりげなく会話の中に「マテオ兄さん」の名前が出てくる。「マテオ兄さん」が誰なのかというと、赤ちゃんのうちに死んでしまったロレンソの兄のこと。最初の出産シーンは、ロレンソとカミラが生まれる前のできごとだったようだ。ロレンソは、そのマテオが死んでしまった様子を、マテオ自身になって夢の中で体験していた。それで「怖い夢だった」と語っている。

 さあ、今度こそ夫婦のベッドに入ってセックス……と思ったが、妻ルシアの股間を見ると赤ちゃんの頭……。
 それで二人は一気に興醒めしてしまう。セックスしても、また赤ちゃんが死んでしまうかも知れない……。その不安がよぎって、気持ちが高まらない。
 なにか間違えたことをしたのかも知れない。あの時、喧嘩をしたから、それが悪い影響を与えて死んでしまったのかも知れない……。
 死んだ赤ちゃんに責められているような気がする……。

「マテオを手放そう。まずこの部屋から連れ出して。新しい場所を見付けるの。安らげる場所を」

 上に掲げた画像は、暗くて何が映っているかほとんどわからないので、だいぶ明るくした。「マテオを手放そう」と言って、「なにか」を手にしているのが見える。これは何なのか?

 いきなり映画の終盤のシーンを出してくるが、この場面で、ルシアがあの時の「何か」を持っている。この1つ前のカットで、ルシアが赤ちゃんを両手に持っていて、波に放つ場面が描かれる。かなりシュールな場面で、一瞬「なんだ??」と不思議に思う場面だが、その次のカットになると、この青い容れ物からサラサラと「灰」が出てくる。「灰」というところでピンと来ると思うが、「遺灰」だ。赤ちゃんの「遺灰」をずっと持っていたのだ。
 これがアレハンドロ・イニャリトゥがずっと抱えていた心残り。それで映画の中に何度も「死別する息子」が出てきてしまう。あの時、生まれるはずだった息子は俺の呪っているんじゃないか……。
 しかし、とうとう決心して「死んだ最初の息子」を解放した。「息子の死」を乗り越えた瞬間が描かれている。

 次のシーンは、メキシコのいろんな知り合いを呼んでの上映会パーティ。
 劇中劇にはメキシコ人の囚人と対話しているシルベリオ・ガマが映し出されている。

「かつての俺は貧しく、誰からも無視されてた。今の俺はアンタをどうにでもできる。俺たちは時限爆弾だ。貧しい村に無数の俺たちがいる。パラドックスの中心に立っている。俺たちは新種だ。あんたらとは違う動物だ」

「米国にはジャンキーが5000万人いる。銃も米国から入手している。グローバルさ。あんたらを忘れはしない。俺たちの客だ」

 貧しいメキシコと豊かなアメリカ……この対立が両国間の問題の火種になっている。極端すぎる貧富の差は犯罪の温床になっていく。メキシコの“犯罪輸出”がどこへ向かうかというとアメリカ。「麻薬」に「拳銃」……どっちもメキシコからアメリカに流れていく(銃はアメリカにも一杯あるけど)。その顧客は5000万人(これは誇張した数字)。アメリカはメキシコの「お得意様」だ。アメリカが搾取するなら、メキシコもアメリカを別の方法で搾取する――「麻薬」と「犯罪」で。
 映画を観ている観客が「その通りだ!」と叫び、観客達から笑いが漏れる。メキシコ人ならみんな思っていることだからだ。
 あるとき、アメリカの大統領がメキシコとの国境に「壁を築く」と宣言したのはこのため。それに対し人権屋が大騒ぎして、国論を二分した。しかし事実としてあらゆる犯罪はメキシコからやってくる。どうしてそうなるかというと、メキシコの冨がアメリカに吸い上げられていく……という構造があるから。メキシコにはろくな産業がなく、仕事も金もないのに、アメリカにはすべてがある。そういう状況に対し、メキシコ人は鬱屈し続けている。
 そこで「俺1人逮捕したってどうにもならないぜ。世の中がこういう状況なんだからさ」とこの犯罪者は語っている。

 上映会の後、パーティになるけど、またしてもルイスが現れて容赦のない批判をしてくる。

「もったいぶってて意味もなく夢幻的だ。筆力の凡庸さをごまかしているんだ。無意味なシーンの寄せ集め。半分は大笑い。半分は死ぬほど退屈。暗喩のつもりでも詩的な閃きはない。パクリまがいの表現。それを隠そうともしない」

「陳腐でデタラメ。あの城のカツラの兵士は何なんだ? まったく馬鹿げている。アホロートルを持って電車に乗る男が、突然砂漠の真ん中の家に移動? ただの思いつきだろう。なんで家なんだ? スタジアムでもいい」

 批判の矛先は、この作品そのものにも向けられる。アレハンドロ・イニャリトゥ自身の作品に対する自省。ルイスはアレハンドロ・イニャリトゥがかつて関わっていたテレビ業界の象徴なのだけど、ここでは“もう一人”の自分になっている。もう一人の自分が、自分の作品を非難している……という状態になっている。

 カットが切り替わります。アレハンドロ・イニャリトゥは長回しを好む監督なので、カットが切り替わる瞬間に意味があります。それまで、シルベリオ・ガマとルイスの2人が構図に収まっていたけど、ここでシルベリオ・ガマ1人だけが映し出される。この場には2人の人物がいるけれど、ここではシルベリオ・ガマの独白ということになる。

「指先をすり抜ける世界で“考え”に何の価値がある」

 最近は名監督達の自伝的映画が高い評価を得ている。アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA』。スティーブン・スピルバーグの『フェイブルマンズ』。どの監督も、自身の生い立ちを忠実に描いているけれど、どうして本作はこんなに混乱しているように見えるのか?
 それはアレハンドロ・イニャリトゥ自身が自分の過去に価値があると思っていないから。ドラマチックな人生など歩んでいない。それに、自分の記憶の中にあるものが事実かどうかもわからない。
 人間の記憶や意識というものは理路整然と組み立てられているわけではない。もっと混沌としているもの。それが時として、事実を無視して、勝手にお話しを作り始めることがある――それが「物語」と呼ぶもの。
 人はあらゆるエピソードを「物語」にすることで記憶する。けれど、それも事実であるかというと違う。「思い込み」が作った物語だ。物語という形になっている以上、フィクションである。頭の中にある物語が事実かどうかわからないといったら、それにどんな価値があるというのか? ――と問いかけている。
(『ROMA』や『フェイブルマンズ』は事実に基づいているかもしれないが、あくまで書き手の思い込みのお話しなので、事実はまったく異なるかも知れない)

 このシーンはもう一度カットが切り替わり、今度はシルベリオ・ガマがルイスを非難する側に回る。ルイスの言うジャーナリズムを「下らない」と非難した後、ルイスの口から声が出なくなる。これはシルベリオ・ガマの頭の中だけのお話しなので、「ルイスの話は下らないからもう聞かない」と決めたら、声は聞こえなくなる。

 パーティのシーンを終えた後、シルベリオ・ガマはふと死別した父親と再会する。するとシルベリオ・ガマの身長が子供になっている。父親に接すると、どうしても自分が子供だった頃を思い出す。誰にでもある感覚だ。目の高さは一緒なのに、どうしても無意識の中では「父親を見上げている」ような感覚になる。それを映像で表現している場面だ。

 父親と別れた後は、母親と再会する。ということは、父親と先に離別したのでしょう。
 ここでも鏡が使われている。鏡には母親が映っているけれど、ガマ自身が映っていない。実はこの場面には自分はいない……ということが示唆されている。
 ここでも、死産したマテオの話が出てくる。

母「まさか。マテオは死産だった」
ガマ「死産ではないよ。母さん。1日は生きた。30時間」

 ここで「マテオ」は死んだ長男だということがはっきりする。

「いいえ。夢じゃない。誰かが私の家ごと映画館に持ってきたの。ほらそこ。外よ。私は映画の結末を見たかったのに」

 映画世界の住人がもしもいるとしたら、かなり混沌とした世界だろう。カットが切り替わると、突然、違う場所に飛ぶのだから。それに、いくら待っていても映画のエンディングが始まらない。
 人生が一つの映画だとしても、その当事者はそのエンディングを永久に見ることはない。死ぬと終わりだからだ。人生にエンディングを付けるのは、近くにいる人達である。
 ……という映画内人物の心象を語っている場面。

 母親と別れて、通りに出ると、通りには誰もいない。でも影だけがゆらゆらと通り過ぎて行く。これはなんなのか?

 しばらく歩くと、賑やかな界隈に出てくるけど、人がバタバタと倒れていく。
 さらに進んで行くと、死体が大量に築かれた山ができていて、その上に1人の男が座っている。画面はやたらと暗く、明るくしてもその人物の顔がわからないように撮影されている。

 この人物が何者なのかわからないけど、シーンの最後で「エルナン・コルテス」の名前が出てくるので、そこでやっと何者かわかる。
(顔が描かれないのは、歴史人物で正確な人相なんてわからないからだ)
 エルナン・コルテスは1485年生まれ、1547年に死没した歴史人物。1504年に南米に入植し、アステカ王国と戦闘して滅ぼし、地元先住民達を奴隷にした男だ。
 なんだ大昔の話……と思ってはならない。その後、メキシコ帝国が生まれるわけだが、その中心となった人々というのが、この時代に略奪と虐殺の限りを尽くした人々の子孫である。
 これがわかってくると、このシーンの意味がわかってくる。
 場面が妙に歴史がかった建築物を背景にしているのは、そういう背景がある街だからだろう。人がバタバタ死んでいくのは、メキシコという国の成立そのものが、そういう血なまぐさい歴史を背景にしているから。人が倒れているのに、キリスト教の神父が助けず無視するのは、事実、先住民が倒されているのに助けなかったから(それどころかキリスト教徒はメキシコの歴史遺産を「邪教の作りしもの」と破壊して回った)。
 巨大な像はおそらくアステカ王国の象徴。その周辺のおびただしい死体の数は、エルナン・コルテスが虐殺した先住民達だ。街を横切る謎の人影は、殺されて奴隷にされた先住民達だ。

 エルナン・コルテスは「500年もの間、誤解されている」と嘆く。コルテスは先住民達を愛していた。文化を尊重していた……と語る。シルベリオ・ガマは「君は祖国に利用されていただけだ」と非難する。
 どうしてこんな場面を入れるのかというと、シルベリオ・ガマの出自を追求するため。メキシコは流血の上に作られた国だ。この地に入植したスペイン人達は、先住民達と混血していき、スペイン語を母国語にした。ということは“メキシコ人”なんてものは本来存在せず、“スペイン入植者”が正しいことになる(メキシコ皇帝はハプスブルク家だし……)。では“メキシコ人”とは何なのか?
 エルナン・コルテスはこう言う。

「君は混血にも見えない。私の子供たちより白いじゃないか。インディオにも、スペイン人にもなりたくないか。自ら不確定な立場に身を置くことに意固地になっている」

 シルベリオ・ガマは自分の出自がよくわからない。メキシコ人なのか、アメリカ人なのか。顔を見ても、どっちに出自があるのかわからない。メキシコ人だとしても、メキシコ人というのはインディオなのか、スペイン人なのか……。歴史を遡って、自分が何者なのか、というアイデンティティを追求している。
 しかしこのシーンは熱がこもってきたと思ったら、突然照明が入り、エキストラが勝手に動いて解散を始める。
 歴史から出自を巡るなんてくだらない……とでも言いたげな場面だ。

 ところ変わってビーチ。
 ここでシルベリオ・ガマは娘が親離れしようとしていることに気付く。一方、死んだ息子のことをいつまでも引きずって、「子離れ」できない自分。
 子供は自分のものではない。子供たちにも自分の人生がある……。そのことに、娘の言葉で気付かされる。
 このあと、ずっと保管していた息子の遺灰を海に流す場面が描かれる。ようやく死んだ息子を乗り越える場面だ。

 一家でアメリカに戻ろうとする。しかし空港で、係官に「アメリカはあなたの家ではない」と言われる。
 シルベリオ・ガマは意固地になって、この係官を謝罪させようとする。ここまでさんざん、自分はメキシコ人としての愛国心が……という追求をしてきたのに、「アメリカはあなたの家ではない」と言われた途端、逆上してしまう。
 ここでちょっとだけ、一つ前のシーンとリンクしている。ビーチのシーンで、シルベリオ・ガマの家政婦がビーチに入ることを拒否される。しかしビーチ入りを拒否された家政婦というのは先住民……本来メキシコと呼ばれる国の住民だ。なのに白人たちがいるビーチに入ることを拒まれてしまう。
 論理の世界では、いくらでも自分に言い訳ができてしまう。でもこういう時にこそ、「本音」が出てきてしまう。「俺は名誉アメリカ人だぞ!」……アメリカ人と見られたいという意地がでてきてしまった。
 結局俺はメキシコ人なのかアメリカ人なのかわからない……。そういう心象を描いている。

 その後、最初のシーンに戻ってくる。最初の電車のシーンは、いろんなシーンが合体していて訳がわからない状態だったが、後半のシーンになると合体していた要素が分解されていくので、何が起きたか明確になる。ルイスの言っていた「客観性」に基づいた場面となる。

 心臓発作を起こして、生死を彷徨うことになったシルベリオ・ガマ。実はこの日、アメリカで講演がある予定だった。壇上には娘が代役として立つことになった。
 シルベリオ・ガマは霊体となってその様子を見ているのだが……。

 突如、足を釘で打ち付けられる。足元を見ると、ちょうどフローリングの線が通っているところ。これはつまり、メキシコとアメリカの境界を示唆している。その端境に立たされ、釘を打ち付けられてしまうシルベリオ・ガマ。
 ずっとメキシコ人なのかアメリカ人なのか、どっちつかずの状態をただよっていたが……とうとう「どっちでもない状態」に打ち付けられてしまった。

 釘を打ち付けられ、スポットライトを浴びながら「うわぁぁ」となる霊体のシルベリオ・ガマ。アメリカとメキシコの端境に打ち付けられる……という呪いを背負うことになる。
 それにしてもこの場面、どこかで見なかったか?

 この場面。メキシコでパーティをやっている場面に似ている。ミラーボールの真下で、群衆に囲まれながら、群衆に囲まれているのに孤独に踊っている場面。
 この頃はみんなに囲まれていたのに、アメリカに行くと、スポットライトを浴びて1人で踊らされることになる。これがシルベリオ・ガマ=アレハンドロ・イニャリトゥが立たされている状態である。

 息子の死を乗り越えて、「アメリカで大成功した」という呪いを背負い、自分の人生を振り返り、ようやくあの世への旅路に出ようとする。

 最後のカット。メキシコの荒野になにかが残されている。服のように見えるが……。
 本編中、こんな台詞が出てくる。

「国境へ向かう移民の一行が、ピエドラスの丘へ祈りに立ち寄った。その時、聖母が現れたんだ。国境に辿り着いたものはいなかった。彼らを探したが、服と所持品だけが残されていた。体はどこにもない。話によれば、聖母が彼らを連れて行ったそうだ」

 聖母が連れて行ったという人々。それを地上に見ながら、シルベリオ・ガマは昇天していく。

映画の感想

 長くなったが、解説はここでおしまい。ここからは映画の感想文。
 アレハンドロ・イニャリトゥは発表作品のほとんどで世界的なアワードを獲得し、しかも2年連続アカデミー賞監督賞を受賞するという栄冠を得て、名実ともに“世界的映画監督”へと登りつめていった。まだ59歳で、作品数はわずか9本だが、獲得したアワード数はすでにとんでもない数になっている。並の映画監督が一生かかっても得られないだけのアワードを得てしまった。
 そのことについて、本人はどう考えているのか。それは過大評価ではないのか。単に政治的理由で自分に賞が与えられただけじゃないのか。……という疑念。
 自分の作っているものに価値があるとは思えない。一方で作り手としての「プライド」はある。「どうだ俺の作品は凄いだろ!」と言いたいけど、言っちゃった後に来る自己嫌悪。
 そうしたものがこの映画の中ではかなり混乱した形で現れている。一見すると、何が描かれているのかわからない。ここまで訳がわからない映画にしたのは……簡単に理解して欲しくなかったからじゃないだろうか。
 自分の気持ちなんて、誰にもわからないよ。いっそ、理解されたくもない。俺のことなんて放っといてくれ。でも自分の想いを作品にしたいのだ。……という複雑怪奇な意固地。

 アレハンドロ・イニャリトゥはインタビューでこう語っている。

「この作品は非常に内省的な旅路であり、記憶というものは記憶であり、真実が抜け落ちている場合もある。本作ではあえて、現実を欺く。フィクションであるということは、ある意味、真実をより昇華して、高いところにもっていけるわけです。フィクションには、リアルだと銘打って、隠れているものをあぶりだす作用があると考えています。本作は、現実と空想の間を漂う作品といえるかもしれません。こういう作り方をすると、ポジティブな影響が出てきて、自分の無意識下にあるもの、自分では覚えていたくない、居心地が悪い記憶なども出てくる。こういうものは、発想の源として、素晴らしい題材だと感じました。自分のなかにあるこの素材を見せられたので、負担になる部分もありますが、それをフィクションに生かしたいと思いました」

 タイトルに「偽りの記憶と一握りの真実」とあるのは、多くは監督の頭の中に薄らぼやけた記憶でしかなく、思い込みの産物だけど、その中にははっきり「真実」がある。死んだ息子に捕らわれ続け、そこから抜け出られなかったこと。気付けば息子と娘は成長していて、自立しようとしていたこと。メキシコ人としてアメリカが憎いと思っていたのに、そのアメリカで大成功してしまったこと。そのことを、メキシコ時代の友人は自分を恨んでいるんじゃないか……という不安(実際にルイスみたいなことを言われたわけじゃなく、「そう思われてるんじゃないかな」という不安)。
 描かれているものは基本、嘘であるが、どれも事実をもとにした嘘である。こういう歪んだ形でしか描けなかった……というのがアレハンドロ・イニャリトゥの現在地でもある。

 他人に向けて作ったものではなく、自分のために作った映画。自分のために作った映画だから、わかりやすく作っていない。「わかってほしい」とも思ってない。
 でも自分のこれからを考えると、作らねばならなかった。いつまでも死んだ息子に捕らわれてちゃいけない。いつまでもメキシコ人か、アメリカ人かに捕らわれちゃいけない。そこから一歩進んだ映画を作らなくちゃいけない。その決心をするための映画だった。

 そんな映画だから、面白い映画か……というとかなり「うーん」というのが本当のところ。まずいってエンタメ映画ではない。しかも、そのシーンにどんな意味があるのか……が後でわかる構造になっているので、2回観ないと意味がわからないような内容。でも後にアレハンドロ・イニャリトゥが今以上に偉大な映画監督になり、その足跡を振り返る……ということになったら、ターニングポイントとして重要な1本になるかも知れない。


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