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10年後20年後に求められるもの~未来はスピリチュアル&メンタルヘルスブーム?~

前回の続きです。未読の方は読んでみてくださいね!



「この先求められるスキルは何か」という考察から、現在からこの先10年は「心」にフォーカスされた時代が到来するのでは?とお話しました。

人間が自分たちの「心」について語ることができ、考察し、実践していこうとしている状態は、どこか遠い過去の哲学者達が考察に考察を重ねた時代によく似ているように思えます。


「私とは」「人間とは」「社会とは」「自然とは」「宇宙とは」という、当たり前にあるものへの疑問と興味からの「哲学」。

そして自然界、宇宙的存在と人間や生き物の関連性の疑問、考察。

我々はどこから来たのか、という疑問に対する「神話」や「宗教」

それらが土台となって文明や科学、医療や文化の発展と共に「心理学」などが確立されていきました。


私たちはその土台の最先端におり、そして再度「心」について考えざるを得ない状況にいるわけです。
繰り返す歴史の波のなかに見事にハマっているように感じます。


そこで私はふと思いました。


「私とは」という「哲学」の時代。
我々人間の出生に対する疑問、人生とは、生き方とは、使命とは、神とは、という「宗教」や「神話」の時代。

過去これらの積み重ねで歴史が進んでいるのなら、人間の心にフォーカスが当てられた今の時代の次に来るのは、「宗教」などのスピリチュアル的な部分ではないでしょうか。

「機械文明の発達した時代にまさかそんな」と思う方もいるかもしれませんが、私はあながち間違いでは無いのかもと感じています。


(歴史は繰り返すというなかで哲学が先に来るのは、私は「何故」と人が考えたところから始まったのであれば哲学的思想=自然信仰=神としているので、根本的な起源に双方あまり違いは無いと考えています。その後各々が確立されて「個」に至ったと考えています)


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【心理学、自己啓発本を読むだけでマインドセルフコントロールはできるのか】

心にフォーカスが当たるこの時代。
自分を信じましょう、自己肯定感をあげましょう、たくさん褒めましょう、前向きに生きましょう・・・など。

それを頑張ろうとする人の数だけ、書店に自己啓発本や心理学書が山のように並んでいます。

これらの書物がまったくの無意味だとは思いません。

しかし、読んでも読んでも楽になる人の割合が少ないのは何故でしょうか。


それは、

「心理学」は「心理学」
「自己啓発」は「自己啓発」
「哲学」は「哲学」
「宗教」は「宗教」
「科学」は「科学」
「神話」は「神話」
「スピリチュアル」は「スピリチュアル」

など、分別して考えている人が多いからではないでしょうか。

もちろん、学問としての垣根はあります。
ですが、これらにはしっかりとした繋がりがあると私は感じています。


あらゆるモノの存在に対する「何故」の哲学。
それを証明するために科学と宗教(神話)が双方違う視点から同時進行で発展をします。
そして人間の身体と心(精神・魂)の関係性について分析がされ、200年ほど前にフロイトが「無意識を発見」したことにより心理学は急速に進展していきました。


かつての心の病は「憑きものの仕業」とされていました。
狐憑き、悪霊、悪魔、エクソシストなどなど、有名な話ですよね。
私は決して「視える人」ではないので、なかには本当に良くないエネルギー体の仕業による異常な人もいるのかも知れません。

しかし心の研究者達は、この「憑きもの現象」を否定するところから始めました。


「人間には知らない自分自身があるのではないか?」

「上辺の自分を保つために抑圧された感情があり、それが無意識として水面下に追いやられ、時折“別人格”として表に出てきてしまうのではないか?」

そう考え、この“別人格”もその人自身と仮定する。
まずはオカルト的なものを否定するところから入ったのです。


ここで重要なのは、科学というものをちゃんと理解している人は、「オカルト」「宗教」「神」というものを否定しない傾向にあります。
あくまでもオカルトに対する否定は「仮」であり、今現在でも議論はずっと続いているそうです。


精神科医の名越康文先生は「心理学とは、まず“憑依”というものを否定するところから始まっていること。そしてこれを理解している精神科医や心理学者はあまりに少ない」と述べています。

上記の台詞と考察はこちらの動画を参考にしています。
常々思っていたことを言語化して頂き、とても共感できることなので興味がある方はご視聴ください。


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心のコントロールのために必要なのは、心理学の手法だけでは通用しないことも沢山あります。

その為に、精神科医も心理士も、そして相談をする側の人間も時としてしっかりと「知る」という事をしていかなければなりません。

知って、納得して、自分自身の為の確固たる「信仰」を心の中に持つということです。


宗教を信じないという人が、何故神社やお寺に初詣やお参りに行くのでしょうか。
スピリチュアルやオカルトを信じないけど、何故お墓参りに行くのでしょうか。


区別しようにも仕切れないものが根本にあるのに、目に見えるモノだけをかき集めていては偏った知識になりかねないと感じています。


そしてこの先の未来、そんなスピリチュアルな意味でもある「宗教」という分野を私たちは深く知り、1人1人が自分にとっての「信仰」を持つべき時代が来るとも考えられています。


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【ひとりひとりが「信じるもの」を考えていく時代に】


自分自身の「信仰」を持つべきなのは何故か。

それは、家庭・学校・会社などの組織としての役職(役割)という肩書き、社会的枠内に収まる世界にのみ「生きがい」や「信じるもの」を見出していると、それらに障害が発生したり、または不慮の事故や災害で全てが無くなってしまったとき、人の心はいとも簡単に折れてしまうからです。


「この会社でエリートな自分」
「誰もが羨む旦那と広くて綺麗なキッチンの付いたお家に住む私」
「経営者で悠々自適に過ごしている俺」


例えば上記のように、決して永久に続くことの無い事象や物、環境というものだけを「自信」にして生きていると、それを失ったときの恐怖や絶望、悲しみや妬みの反動が大きいわけです。

そういった「人間社会」という決められた垣根を跳び越えて、もっと深い部分である精神世界(宗教やスピリチュアルなど)において何かしら信じているものがあれば、それが支えとなり再度立ち上がる力となり得るというお話です。


日頃「怪しい」と否定していても、不慮の事故、自然災害に遭われた方はその巨大な事象やエネルギーの前に立ち尽くし「かみさま・・・」と願う人も少なくありません。
それを一神教としての神とするか、八百万の神とするかは各々の自由ですが、人智を越えた「力」を感じる点では同じだと思います。


このように、心を支える為の時代が到来してきたということは、それをコントロールする術を知ると同時に、各々の根底に「信仰」する何かが必要だと言うことですね。


次回はスピリチュアルへの偏見と誤解について解説していこうと思います。


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