子供の虐待について凡人の考え

わたしは子供を産んだことはないし、公園で1時間関わることはあっても何年も朝から晩まで幼い人間の命に寄り添ったことはない。

けど、愛犬を世話が終わり数年経った今、思い知る。怒鳴り声と暴力に恐れながら育ったわたしは犬のモモを殴ることにしか一生懸命になれなかった。それが世話だと思っていたからだ。わたしなりの愛情だった。
トイレに失敗すると大声で叱る。やり方を教えないで失敗をただ怒る。実に理不尽だ。
自分がされて散々泣いたことをやっている。悲しいことに躊躇なく簡単にできてしまう。
モモはバカ犬としか思い出せないのは常にモモを勝手に怒っていたわたしの都合である。

当時の私が注意されたら、きっとこう答えるんだろうな。
「私はこうやって育ったから、これしかやり方を知らなかった」

「知らなかった」って言葉を上手く使って、育った環境を理由にあたかも自分が被害者のように振る舞うこともできる。
実にずるい。

年齢的に大人になったわたしは間違えたことに対し「知らなかった」「わからなかった」が使いづらくなってきているのを感じる。この重みが大人なんだと自分なりに解釈してる。

子供の医療費、教育費など、国をあげて補助するのはいいと思う。子供を増やそうとする試みだと思う。

でも、わたしはいくら子供達に金銭的援助をしても虐待で消える心や命はあまり減らないと思う。
援助する対象は親や家庭や教師や地域という環境にもあるとわたしは思う。

子供を産むって、育てるって、「知らなかった」「わからなかった」だけじゃ簡単に片付けられないとわたしは思う。
だから、子供と関わるわたしたちも勉強しなきゃならない、それが昔は井戸端会議だったりしたんだと思う。

だからこそ、各家庭がしっかり学べる、相談できる環境づくりが虐待を減らす1つだと思う。

産科医とか親になる人と必ず関わる機関に生まれてくる命の人生との仲良く共存するってことを教育させる義務があると勝手に思う。

そういった存在はあるかもしれない。存在したとしても。
本来なら28歳で子供産むには適齢期であるわたしがあまり知らないんだから、問題である。

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ここで井戸端会議があった時代に虐待がなかったっていうのは無いと思う。
生まれてなかったからわからないけど、地域の繋がりを通じて当時の子供は逃げて生き延びる道がいくつもあったんだと思う。
親もそうだが、地域や国が総勢でひとりの子供をそだてる義務があると思う。

だから、義務教育の授業や教科書にも示してほしい。命や人権のかかわりに「あたりまえ」を。

わたしの小学生のころはアフリカの貧困のビデオを見せられたが現実味があまりなく。今を豊かさを大切にしろって解釈したが、どこか遠い話だった。
もちろんアフリカの貧困を知るのも大切だけど、隣の席の子にも起こってるかもしれない現実を直視すべきだと思う。

知ること。ひとりひとりの意識が変わること。わたしは常に学習し続けたい。

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