カウンターキッチンに隠れて、ポテチを食べるとき。
もちろんダメなことだけれど、私は薬物に手を出す人たちの気持ちが想像できる。
大学生のとき、私はおそらくマクドナルドのポテト中毒だった。大学1.2年生のときは大学がつまらなくてつまらなくてしんどくて、逃げるようにマクドナルドにかけこんで、ポテトをほおばった。
息子が3歳になるまでくらいの間、おそらくポテチ中毒だった。24時間本当の意味で1人になれないストレスから逃れるように、息子が夢中に遊んでいるのを見計らって、カウンターキッチンに隠れてポテチを1袋、一気に無心に食べている自分に気づいたときは、さすがにやばいなと思った。
別に堂々と食べればいいのに、カウンターキッチンに身を隠すあたりがやばい。
隠れるということは、後ろめたいことをしている、ということだ。
ポテチは別に法律に触れるようなものではないし、安いものだから家計にひびくほどのものではない。なのにどうして隠れる必要があるのだろうか。
確かに体に良いものではない。食べてしまったあと、なんとなく体に「ごめんね、ちょっと消化がんばってね。」と言いたくなる。でも自分の体以外の誰にも迷惑はかけていない。
だからこれはきっと、私が人からどう思われたいかの問題なんだと思う。
満たされない気持ちを、チープで簡単でかっこよくない方法で埋めている私を、誰にも知られたくないし見られたくないのかもしれない。
でも多かれ少なかれ、誰にだって「満たされない気持ちを、なにかで埋める。補う。」そんな経験があるはずだ。
おいしいものを食べたり
歌いに行ったり
踊りに行ったり。
たくさん買い物をしたり
旅行に行ったり
運動したり。
たばこを吸ったり
お酒を飲んだり
誰かと体を交わせたり。
できるだけ今すぐ、自分がやろうと決めさえすれば努力なしに手に入る「快楽」に助けられながら、私たちは生きている。
思い通りにならない人生の中で、ある程度思い通りに手に入る「快楽」がないと、つらすぎると思うのだ。
でも子育て中は、今まで簡単に手に入れていた「快楽」さえ、手に入りにくくなる。それどころか、赤ちゃんは自分の人生以上に思い通りにならない生き物だ。
私にとって、なんとか手に入った快楽が、ポテチだったのかもしれない。
ある日、ポテチがマイルドドラッグと呼ばれていることをネットの記事で知った。そのとき私は、法で許されていない薬物に手を出した人たちだって、きっとこんな気持ちだったんだろうなと思った。
私とその人たちに全くちがいはない。
ただ、合法なものであったか、合法なものでなかったか、ただそれだけのちがいだ。
子育てが落ちついてきた今、ポテチはたまにしか食べなくなった。ポテチをどのくらい食べているかは、今自分がどのくらい満たされているかのまるでバロメーターのようだ。
ニュース番組で、薬物に手を出してしまった芸能人を見たとき、私には責めるような気持ちは湧いてこない。
満たされているときに、さらに満たされるために、薬物を使う人などいないと思うからだ。
私と同じように、満たされない気持ちがあった。そしてたまたまそのときに近くにあったのが薬物だった。私の場合は、ポテチだった。私と彼らは全く同じなのだ。
私たちは満たされて生まれてきて、
満たされない気持ちを味わって、
そしてまた満ちようとする。
満ちようとがんばっても
うまくいかないことだってある。
満ちるために必要なものに思えても
それは嘘ものだということもある。
嘘ものだとわかっていても
すがりたくなることだってある。
あぁ、私は弱いな。私はかっこ悪いな。
でも弱いからこそ
わかる気持ちがたくさんある。
かっこ悪いからこそ、人間らしいし
おもしろい。
私の周りの人たちは、私がカウンターキッチンに隠れてポテチを食べてしまったという話をすると、ゲラゲラ笑ってくれる。そして私も一緒に、自分を笑う。
そんな感じでいい。
満たされないときは、法を侵さない程度にいろんな快楽に頼りながら、だましだまし進んでいけばいい。
周りの人がどんなに弱くても、どんなにかっこ悪くても、笑い飛ばしてあげられるような、そんな人になりたい。
弱くてかっこ悪い私だからこそ、そんな人になれると思うのだ。