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#862 ついに来た!没理想論争のダースベイダー誕生だぁ!

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

今日から最終回の「第十回」に入ります!

巫女に取り憑いた作家の怨霊の嘆きを次々と批判し、大量の怨霊に取り憑かれた巫女は気絶します。主人公が介抱していると、突然「取次のオヤジ」が現れ、これまでの主人公の批評の仕方を非難する、というどんでん返しの展開!最終回は、そのつづきです。

老爺[オヤジ]言葉を改め、貴公知らずや、批評とは元褒貶[モトホウヘン]の謂[イイ]にあらず、此間[コノアイダ]竹のや主人の生霊が、評[ヒョウ]とは言平[コトタイラカ]なりといふ意[ココロ]なり、といひしが、確言[カクゲン]なり。漢文家[カンブンカ]の評の如く、褒むるも評の本旨[ホンシ]にあらねば、瑕[キズ]ばかりをほぢくるも烏文人[カラスブンジン]の悪戯[アクギ]なり。

たびたび言ってますが、「竹のや主人」は饗庭篁村[アエバコウソン](1855-1922)のことです。

農夫が種をまくと、すぐ烏にほじくられることから、人が努力して成したことを、他が後から壊していくことのたとえ、また、いたずらに労力をはらう愚かしい無駄骨折りのことを、「権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる 三度に一度は追わずばなるまい」といいます。

文章脚色[ブンショウキャクシキ]のみを批[ヒ]するも評判の一班[イッパン]にして、小説は性質の顕著普通[ケンチョフツウ]なるを要す、といふも一班なり。ホーマーの規[ノリ]に外[ハ]づれたるを叙事詩[エポス]にあらずといふも偏[ヘン]にして、シェークスピヤの作を標準とするも偏なり。

これもたびたび言っていますが、「ホーマー」は古代ギリシャの叙事詩人ホメロス(生没年不詳)のことです。

批評は須[スベカ]らく其の作の本旨の所在を発揮することをもて専[セン]とすべし。『源氏物語』を評せんとならば、紫式部の理想と技倆とを発明して、彼れが本體[ホンタイ]を明[アキラ]かにせよ。馬琴を近松を西鶴を評するも、またまさに斯くの如くすべし。褒貶優劣はせずもあれ。近頃モールトンが唱ふる科学的批評の旨[ムネ]も此意[コノココロ]の外[ホカ]ならず。演繹的専断批評の世は逝[ユ]かんとす。帰納的批評の代[ダイ]近づけり。

#664でちょっとだけ紹介しましたが、イギリスの文芸批評家のリチャード・グリーン・モールトン(1849-1924)は1885(明治18)年に『劇作家としてのシェークスピア』を出版しますが、その副題は「a popular illustration of the principles of scientific criticism(科学的批評の原則の一般例)」です。

で、このあと、いよいよ、あの単語が登場しますよ!!!!

就中[ナカンズク]没理想の詩即ちドラマを評するには、没理想の評即ち帰納評判を正當[セイトウ]とす。

ついに来ました!「没理想」!!!!

ダースベイダー誕生の瞬間みたいですね!w

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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