それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。
鷗外は、逍遥の「小説三派」の三分類、すなわち固有派・折衷派・人間派を簡単に説明します。その後、自身はかつてドイツの作家ゴットシャルの詩学をもとに「理想・実際」の二派に分けて批評を論じていたが、しばらくして、心をハルトマンの哲学に傾けたといいます。
「逍遙子の諸評語」が1891(明治24)年9月に発表されてから3か月後の同年12月、鷗外は没理想論争第一ラウンドの「早稲田文学の没理想」でこんなことを言います。
これですよ!一体、なんのことを言っているのか、さっぱりわからなかったのですが、すべてはここから始まるんですよ!
逍遥は「小説三派」でこんなことを言います。
固有派は、「平等の理」「死したる概念」「ゼネラリティ(全般性)」はあるが、「差別の実」「活きたる観念」「インディヴィジュアリティ(個別性)」はない。これはハルトマンが「類括」の意をとって「類想」と名付けたものである。折衷派は、「活きたる観念」があり、「インディヴィジュアリティ(個別性)」もある。これはハルトマンが「個々の活物」の意をとって「個想」と名付けたものである。そして、人間派は、人事の間に因果現然として個人の不朽の象を写す。この「象」は、「宇宙の命根の聖火」と触着して「一條の大火柱」を成すところに生ずる。これはハルトマンが「個物の一天地を成し、大千世界と相呼応する」ところから「小天地想」と名付けたものである。
もう意味がわかりませんw……どうしよう……
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!