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#867 固有は類想、折衷は個想、人間は小天地想なり

それでは今日も森鷗外の「逍遙子の諸評語」を読んでいきたいと思います。

鷗外は、逍遥の「小説三派」の三分類、すなわち固有派・折衷派・人間派を簡単に説明します。その後、自身はかつてドイツの作家ゴットシャルの詩学をもとに「理想・実際」の二派に分けて批評を論じていたが、しばらくして、心をハルトマンの哲学に傾けたといいます。

夫[ソ]れ固有と云ひ、折衷と云ひ、人間と云ふ、その義は皆ハルトマンが審美學の中に存ぜり。今多くその文を引かむもやうなし。唯爰[タダココ]にハルトマンが哲學上の用語例によりて、右の三目を譯せば足りなむ。固有は類想[ガッツングスイデエ]なり、折衷は個想[インジイヅアアルイデエ]なり、人間は小天地想[ミクロコスミスムス]なり。

「逍遙子の諸評語」が1891(明治24)年9月に発表されてから3か月後の同年12月、鷗外は没理想論争第一ラウンドの「早稲田文学の没理想」でこんなことを言います。

戯曲に理想あらはれず、叙情詩若しくは小説に理想あらはるといふは、戯曲にあらはるゝ客観の相(所観)は叙情詩若しくは小説に於けるより多く、叙情詩若しくは小説にあらはるゝ主観の感は戯曲に於けるより多きがためにしかおもはるゝのみにして、其実は戯曲にも、叙情詩若しくは小説にも、作者の理想、作者の極致はあらはるゝなり。唯其理想は抽象[アプストラクト]によりて生じ、模型に従ひてあらはるゝ古理想家の類想にあらずして、結象[コンクレエト]して生じ、無意識の辺より躍り出づる個想なり、小天地想なり。大詩人の神の如く、聖人の如く、至人の如くおもはるゝは理想なきがためならず、その理想の個想なるためなり、小天地想なるためなり。(#675参照)

これですよ!一体、なんのことを言っているのか、さっぱりわからなかったのですが、すべてはここから始まるんですよ!

逍遙子のいはく。固有派にては、甲人に於ける天命も、乙人に於ける天命も、汎然漠然[ハンゼンバクゼン]として一なるが如く、平等の理はあれども、差別の實なし。死したる概念はあれども活きたる觀念はなく、「ゼネラリチイ」はあれども、「インヂヰヂユアリチイ」はなし。所謂[イワユル]固有派の死したる概念を具ふるところ、「ゼネラリチイ」を存ずるところ、これをこそハルトマンは類括の意を取りて類想と名づけたるなれ。折衷派にいたりては、逍遙子活きたる觀念ありといひ、「インヂヰヂユアリチイ」ありといふ。是れハルトマンが個々の活物の意を取りて個想と名づけたるものにあらずしてなにぞや。所謂人間派に至りては、人事の間に因果現然として、個人を寫すは是れ個人のために寫すならず、寫すところは捕來[トラエキ]たる個人の不朽の象なり。この象や露伴子の所謂靈臺の眞火、宇宙の命根の聖火と相觸着して、以て一條の大火柱を成せるところに生ず。(美術世界の題言)ハルトマンが個物の能く一天地をなして、大千世界と相呼應するところより、小天地想と名づけしは是なり。

逍遥は「小説三派」でこんなことを言います。

物語派は俗に謂ふ因果説を体し、若[モシ]くは天命の説を奉じて普在せる事相を写すものから、其相の由来をば明にせずさるが上に、本来人物を主因とせざれば甲人に於ける天命も乙人に於ける天命も汎然漠然として一なるが如く、平等の理はあれど差別の実なし。死したる観念はあれど活きたる観念はなく、ゼネラリチーはあれどインヂヰ゛ヂュアリチは無し。(#785参照)

固有派は、「平等の理」「死したる概念」「ゼネラリティ(全般性)」はあるが、「差別の実」「活きたる観念」「インディヴィジュアリティ(個別性)」はない。これはハルトマンが「類括」の意をとって「類想」と名付けたものである。折衷派は、「活きたる観念」があり、「インディヴィジュアリティ(個別性)」もある。これはハルトマンが「個々の活物」の意をとって「個想」と名付けたものである。そして、人間派は、人事の間に因果現然として個人の不朽の象を写す。この「象」は、「宇宙の命根の聖火」と触着して「一條の大火柱」を成すところに生ずる。これはハルトマンが「個物の一天地を成し、大千世界と相呼応する」ところから「小天地想」と名付けたものである。

もう意味がわかりませんw……どうしよう……

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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