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#669 いよいよ「没理想論争」第一ラウンドが始まる!
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#669 いよいよ「没理想論争」第一ラウンドが始まる!

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さて、いよいよ「没理想論争」の第一ラウンドが始まります!

坪内逍遥が『早稲田文学』に掲載した「シェークスピア脚本評註緒言」と「我れにあらずして汝にあり」に対して、森鷗外が、かみつきます!

森鷗外は弟の三木竹二(1867-1908)や妹の小金井喜美子(1870-1956)、そして歌人で国文学者の落合直文(1861-1903)らと共に、1889(明治22)年10月『文学評論しがらみ草紙』を創刊します。

1891(明治24)年11月『早稲田文学』第3号で坪内逍遥が「我れにあらずして汝にあり」を発表した翌月の12月、森鷗外は『しがらみ草紙』第27号で「三房論文其七 早稲田文学の没理想」を発表します。

逍遥子この頃記実家となりて時文評論を作る。時文評論とは早稲田文学の一欄にして、現実を記するを旨とするものなり。逍遥子は何故に記実家となりたるか。曰く談理を嫌ひてなり。

前回の#668で紹介した「我れにあらずして汝にあり」で、逍遥はこんなことを言っています。

『早稲田文学』の巻末に、「時文評論」の欄を設け、これら方寸の宇宙に棲息して、毫も其の以外を知らざる人に、せめても方百里の現実を見せて偏見の弊を少うせんと企図す。吾人が事実の報道を先きとして、必ずしも評論を旨とせざるは、是れが為なり。

「記実」とは、事実を書き記すこと、「談理」とは理論を語り合うことです。

逍遥子は何故に談理を嫌へるか。曰く理の実より小ならむことを慮りてなり、理想世界の現実世界より狭からむことを思議してなり。その言にいへらく。今の談理家の言ふところは空漠にして、その見るところは独断に過ぎず。今の談理家はおの/\おのが方寸の小宇宙に彷徨逍遥して、我が思ふところのみを正しとし、これを尺度として大世界の事を裁断せんとす。そのさま恰も未だ巨人島にわたらぬガリワルの如く、また未だガリワルを見ざる「リリピュウシヤン」の如く、豕[イノコ]を抱いて臭きことを忘れ、古井の底に栖[ス]みて天を窺ふ。かゝる小理想家の説くところ何のやくにか立たむと。

前回の#668で紹介した「我れにあらずして汝にあり」で、逍遥はこんなことを言っています。

さる人々は、我が思ふ所のみを正しとして、他の謂ふ所を悉く斥け、そが小理想を尺度として、此の大世界の事をも裁断せんと企つるなり。偏見家、小理想家などといふもの是れなり。彼等は我れあることを知れども、殆ど他あることを知らざる故に、そが平生の行ひ、恰も巨人島にわたらぬガリバーの如く、未だガリバーを見ざるリリピューシャンの如く、豕を抱きながら臭きことを知らず、古井の底に棲みながら、天の狭きを笑ふ。

「これから、吹っ掛けますよぉ~」って感じで、逍遥の言説をどんどんピックアップしてますねぇ。

逍遥子はかく理を談ずることを斥けたり。されどその理を談ぜざるは、談ぜざるを以て談ずるなり。その作るところの時文評論は評論にあらざる評論たらむとす。その人を教ふる手段にいはく。我れは実を記して汝に帰納の材を与ふ。汝が眼、汝が心はおのづからこれを帰納して、明治文学の活機を悟り、以て明治文学大帰一大調和の策を立てよ。汝の機を悟り策を立つることを得るに至るは、或は遅からむ。そは我手段の劇薬ならざるためなり、持薬たるためなりと。

これも前回の#668で紹介した「我れにあらずして汝にあり」で、逍遥はこんなことを言っています。

活機の在否は我が評論の紙上にあらずして汝が公平なる眼中にあるべし。「時文評論」の第何篇に、明治文学大帰一、大調和の策あるぞと問ふこと勿れ。其の大帰一の無上の良策は、我が文章の上にはあらずして、汝が没理想の心中にこそあるべけれ。……我が「時文評論」は劇薬にはあらず、持薬なり、其の効能の徐々たるべきは、そが持前の自然なり。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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古本屋を営んでいます。本を読むのが好きです。