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#668 我が文章の上にはあらずして、汝が没理想の心中にこそあるべけれ

それでは今日から坪内逍遥の「我れにあらずして汝にあり」を読んでいきたいと思います。

常識[コンモンセンス]無き小理想家の多きほど厄介なるものは無し。実際の事に疎き空論家の増加するは、文学の為にも憂ふべくして喜ぶべきことにあらず。

すでに冒頭から溜息まじりで嘆いてますね…

方今の文壇を観るに、我が方寸の小宇宙にのみ彷徨して、方十里内の実際をだにも全く知らざるが如き人少なからず。さる人々は、我が思ふ所のみを正しとして、他の謂ふ所を悉く斥け、そが小理想を尺度として、此の大世界の事をも裁断せんと企つるなり。偏見家、小理想家などといふもの是れなり。彼等は我れあることを知れども、殆ど他あることを知らざる故に、そが平生の行ひ、恰も巨人島にわたらぬガリバーの如く、未だガリバーを見ざるリリピューシャンの如く、豕を抱きながら臭きことを知らず、古井の底に棲みながら、天の狭きを笑ふ。

イングランド系アイルランド人の作家であるジョナサン・スウィフト(1667-1745)は、1726年に『ガリヴァー旅行記』を出版します。リリピューシャンは、『ガリヴァー旅行記』の中の小人の国リリパットの住民のことです。

此の故に、小我慢の戦ひ止む時なし。競争は人間発達の大機関なりとはいひながら、かゝる人人が小軋轢の止まぬ間は、文壇は常に麻の如くなるべし。吾人これを歎き、固より其の任にあらぬを知れども、微衷の禁じがたき由ありて、此の『早稲田文学』の巻末に、「時文評論」の欄を設け、これら方寸の宇宙に棲息して、毫も其の以外を知らざる人に、せめても方百里の現実を見せて偏見の弊を少うせんと企図す。吾人が事実の報道を先きとして、必ずしも評論を旨とせざるは、是れが為なり。空理を後にして、現実を先きにし、差別見を棄てゝ平等見を取り、普く実相を網羅し来りて、明治文学の未来に関する大帰納の素材を供せんとするも亦た此の故なり。吾人が微意こゝにあり。読者よ、時文評論の第何十頁に明治文学の活機が現れたるかと詰問することを休めよ。活機の在否は我が評論の紙上にあらずして汝が公平なる眼中にあるべし。「時文評論」の第何篇に、明治文学大帰一、大調和の策あるぞと問ふこと勿れ。其の大帰一の無上の良策は、我が文章の上にはあらずして、汝が没理想の心中にこそあるべけれ。

活機の在否は我が評論の紙上にあらずして汝が公平なる眼中にあるべし!無上の良策は、我が文章の上にはあらずして、汝が没理想の心中にこそあるべけれ!こういうところは、作家というより、教育者らしい文章だなぁ~と思いますね。

乞ふ、他の方寸の世界に、徜徉せる人よ。虚心平気『早稲田文学』の出づる毎に、文字の無味淡泊、平々凡々たるを忍びて、「時文評論」なる幾項の記事を読め、二、三、四、五篇を重ねて、汝が心、寸許広く、十数篇を重ねて、汝が心、また尺許広くなることあるべし。是れ薬の効能にして、明治文学の活機が汝の肺肝に銘じつゝあるの証拠なり。我が「時文評論」は劇薬にはあらず、持薬なり、其の効能の徐々たるべきは、そが持前の自然なり。

あなたがすでに持っているものを、評論によって掘り起こし、目覚めさせているだけだ!

吾人の本願は、大帰納の素材を供せんとするにあり、小理想をもて演釈せる空漠たる理論を語らんとにはあらず。されば、吾人は今後といふとも、敢て独断家をもて居らんとはせず、寧ろ常識の報道者をもて自ら任ぜんとすべし。表面は尋常の雑誌氏となりて、裏面に暗に批判家たらんと力むべし。博識卓見の学者は、世間に其の人いと多かり、仏人、独人の長ずる所は、吾人之れを悉く彼の人々に委ね去りて、みづからは諄々として現実の報道を旨とし、偏へにアングロ・サクソンの著実なる常見を師となすべし。是れ吾人の本旨なり。読者、希はくは此の意を諒して、吾人の評論の評論ならざる所に、評論なるべき所以の存するを知り、其の無効能なるが如き所に、冥々の効能あるべきを知れかし。

というところで、「我れにあらずして汝にあり」が終わります!

このあと、森鷗外の批判が始まるのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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