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#654 わたしの顔を見たさで来るんだもの!

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

美妙は、徳富蘇峰・森田思軒・朝比奈知泉の三氏から、「文学会を組織しよう」という手紙をもらい、1888年9月8日、芝公園の三緑亭へと赴きます。午後五時半、出席の第一番は依田學海、依田は時間を間違えない性格のようで、会の集まりには誰よりも早く来るみたいで…。その後、続々と、坪内逍遥や森田思軒など、総勢11人が集まります。依田氏は、こういう集まりの時には、誰よりも早く来る性格のようで、依田氏が会合にいれば、場が賑やかになるそうで…。しかも禁酒禁煙で、芸妓に冗談すら言わない性格のようです。そんな依田氏と美妙には、些細な噴き出す話があるようで…。浅草での日本演芸協会の演習での帰り道、美妙は依田氏とバッタリ会います。演劇論から小説論へと話が及び、やがて年齢の話がはじまります。自分はすでに老年であることをまわりの若い文学仲間に伝えると、坪内逍遥が「先輩には後進の先導を…」と答えます。すると、笑いながら「漢文で先導でもしましょうか」と言って、美妙の『いちご姫』の「小君」の読み方について、「しょうくん」ではなく「こきみ」と読ませた方がいいのではないかと指摘します。美妙は、「しょうくん」と読ませた根拠を學海に説明します。その後、多くの文学仲間と海を見晴らせる離宮の築山へのぼり、旧幕時代との景色の変化の様子、依田氏の作品『応天門』草稿のきっかけとなる話をしたあと、市川団十郎が来たため依田氏との会話は終わりました。依田氏の性質は清潔を好み、規律正しく、読書を喜びます。書物は整然として、机に向かって静かに読む性質です。そして、集会の際には演劇論がはじまります。

依田氏についての事は猶有ります。が、あまり長くなりますからこれだけにして、次は春の屋主人坪内雄蔵氏に移ります。
依田氏を叙[ジョ]して終りに至り、更に肝要な依田氏の家庭の楽しみを落としました。
依田氏には四人の令嬢と一人の令息とが有つて、之に対する依田氏の愛情はいはゆる春風和気[シュンプウワキ]とも言ふ方[ホウ]、はなはだ穏[オダヤカ]でこまやかです。一年に四度と時をあらかじめ一定し、其[ソノ]時には令閨[レイケイ]及び令息嬢[レイソクジョウ]の中[ウチ]を交代につれて遊山[ユサン]するのが慣例です。毎年一月は二日或[アルイ]は三日のうち必ず令閨及び令息嬢のうちを二人抜いて伴[トモナ]つて浅草にある同氏の菩提所金蔵寺[キンゾウジ]に行き、先祖代々の墓に参詣し、帰り途[ミチ]には浅草寺に寄つて寺中[ジチュウ]に遊び、萬梅[マンバイ]か一直[イチナオ]といふところでゆるりと支度し、やがて又玩弄品[ガンロウヒン]や小間物[コマモノ]を買つて与へ、四月の花ざかりには小川町の本宅に留守居[ルスイ]を置き、此[コノ]日は総出で下婢[カヒ]までも残らずつれて墨田川または飛鳥山に遊び、七月はまた二人を抜いて墓参[ボサン]をして公園に遊び、一月のとほりに過ぐし、さて十二月十七日の浅草年の市にはまた七月と同じやうにして墓参をし、或は羽子板或は櫛筓[クシコウガイ]を買つて与へる。これが今日に至るまで引きつゞいて十年余、大抵欠いた事も有りません。墓参の数と一家内[イツカナイ]のしたしみとは事々しく評する迄も無く春風和気の評が当つたかどうかは読者の判断にあります。

萬梅は、浅草寺の総本坊伝法院脇にあった割烹店で、一直は、1878(明治11)年創業の浅草公園五区七番地の割烹店で現在も営業中(現・台東区浅草3-8-6)です。

飛鳥山は坪内逍遥の『当世書生気質』にも二葉亭四迷の『浮雲』にも登場しますね!#062#394#400を読んでみてください。

どのやうな時でも来客に留主[ルス]をつかふ事の無い、これが依田氏の常で、と、氏もみづから言ひました。来客があれば筆を拋[ナ]げて大抵は直[タダチ]に書斎を出[イ]で其[ソノ]人に対面しその人を導いてやがて客室に通すのが依田氏の好むところです。事がすこし軽々しさに近いとて、それでは却[カエ]つて失礼であらう、せめて煙草盆ぐらゐは出して置いてから対面為[ナ]さいと細君または令息嬢も助言する、それをなか/\依田氏は聞きません。「何、わたしの顔が見たさで来るのだもの、早く見せただけが礼といふものだ、茶[チャ]煙草盆はどうならうか」。

というところで、依田氏に関する話は終わります。

つぎに、坪内逍遥に関する話へと移るのですが…

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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