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#940 叙情詩の能感の情の想、叙事詩の能感の相の非想

それでは今日も坪内逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」を読んでいきたいと思います。

そこにては、逍遥が没理想を説きて戯曲を嗜むは、主観の情を卑みて客観の相を尊むに因縁するならん、と推し測りて、さて「所謂没理想は没理想にあらずして没主観なり」といはれたり、さて、今回の役にては、我が没理想は作の客観を評する語なり、といひけるを非難して、「おほよそ詩の上にて観の主客をいふ者は、大抵作家の感情[ゲフュウレ]を以て主観とし作家の観相[アンショウウング]を以て客観とす。叙情詩を主観とするは是を以てなり、叙事詩を客観とするは是を以てなり。戯曲には観の主客等く存ぜりとはいふものから、シルレルが曲とシェークスピアが曲とを比べ見ば、彼れには作家の感情多く、これには作家の観相多きを知らむ。シェークスピアが作を客観なりとするは、豈これが為ならずや。

#873で紹介しましたが、「シルレル」は、ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)のことです。

逍遥子若し没却作家とは、作家の主観的感情を没却する義なり、といはば、我れもまた左右なくその客観を評したる言葉なるを認めならむ」といひ、かくてまた(逍遥子と烏有先生といふ文の中、一向記の次の段)「逍遥子は美の主観相のみを指して想とし、美の客観相を指して非想とすれども、ハルトマンは主客両観相を立つ」とわきまへて、やがて逍遥子がシェークスピアの傑作の全局に理想あらはれたらずと、思へるは、叙情詩に見ゆること多き能感の情の、彼れの作に見ゆること少くして、叙情詩に見ゆること少き能観の相の、シェークスピアが作に見ゆること多きを見て、情を想とし、相を非想とする見解より、しかも理想見えたらずと思へるならん、と推量し、すなはち断案を下していはく、「わが立脚點より見るときは、感情は主観の理想にして、観相は客観の理想なり、故[カレ]シェークスピアの作にも理想見えたり」と、いへり。これを敵将軍が第二陣の陣備への大略とす。(くはしくは『しがらみ艸紙』第三十號につきて観るべし)。
さるほどに血気にはやる折衷之助、再び陣頭に進みいでゝ、さすがに徐かに答へけるやう、我が小羊の逍遥子、曩[サキ]に前號「雑録」欄内に高札[タカフダ]を掲げいだし、一わたり没理想の由来を語り候ひける折には、(没理想の由来参照)わが所謂理想と将軍の所謂理想との間に、多少の相齟齬する意義あらんか、と疑ひて候ひけるが、今にして思ひ見れば、将軍は正しく、わが謂ふ理想の意味に於てだに、シェークスピアが理想を、見えたり、とのたまへるや、明らかなり。

「没理想の由来」については、この軍記物仕立ての連載を読み終わったあと、一番最後に見ていくことにしましょう!

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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