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#982 無上無比不増不減無終無極無尽無窮

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

われは逍遙子が絶對に對する沒理想といふものゝ形而上論上の無所見に過ぎざることを認めき。こゝに示されたる、許多の異名ある覺前空は要するに無所見の説明に過ぎず。されど其用語といひ、其引諭といひ、一つとして人の耳目を驚かさゞるものなければ、われはその説明の當れりや否やを評することの無益ならざるを信ず。
覺前空は覺後空に對していふなり。さて覺後空をいかなるものぞと問ふに、逍遙子はこれを覺といひ、知といひ、悟道徹底といひ、聖教量といへり。思ふに逍遙子は聖教量にあらずして衆理想(衆人の哲學上所見)を是ともせず、非ともせざるものは何かあると搜し求めて、つひにこの「タブラ、ラザ」を獲たるなるべし。此の如き人心の「タブラ、ラザ」は、われその心理上に不可得なることを知ると雖、こゝには姑くその存在を認めて、これを有したりとおもへる逍遙子が上を評して見む。
逍遙子は其覺前空の地位に住して、われはいづかたにも進むことを得べしといへり。されど逍遙子にして試に一歩を動して見よ。この一歩形而上派に近づきたるときは、忽ち經驗派のおのれに反對せるを見む。この一歩經驗派に近づきたるときは、忽ち形而上派のおのれに反對せるを見む。逍遙子は到底學問の比量界にありて歩々の進前をなし得べきにあらざること、これにて明なるべし。さらば逍遙子はいづかたにも歩を移さゞらむか。我は恐る、逍遙子が徒に心の虚無におち入りて、無明窟裡にその生を了せむことを。
さはれ逍遙子は其覺前空の地位に住して、われをば何人もえ倒さじ、わが沒理想(形而上論上無所見)をば誰もえ破らじと誇りて、別におのが望める轉迷開悟の途を示したり。その言にいはく。わが沒理想は南山の壽の如く、かげず崩れざるべく、不壞金剛の磐石の如く、芥子劫[ケシコフ]に亙りて依然たるべし。わが論は宇宙とおなじく、萬理想はおろか萬哲學系を容れて餘あり。絶對無二の大眞理が古今の哲學を殘なく折伏し、融會し、若くは悉く併呑統一して宇宙を貫き、太陽系を花鬘[ハナカヅラ]ともし、「ネプチユウン」の軌道をば靴紐ともし、無上無比不増不減の妙光を發[ハナ]ちて、如々然としてあらはれざる間は、此方便的沒理想の魂魄は彌勒の世は來るとも「ミレンニヤム」は到るとも、時間と共に無終無極無盡無窮なるべしとなり。
げに天晴なる廣言なるかな。逍遙子をばまことに何人もえ倒さゞるべし。後沒理想論をばまことに誰もえ破らざるべし。然はあれど我窃におもひ見るにそのえ倒さゞるは、倒すべからざるものあるが故にはあらずして、倒すべきもの見えざるが故なり。そのえ破らざるは、後沒理想主義の轉ばすべからざる巖に似たるためにはあらずして、捉ふべからざる風に似たるためなり。譬へば地に横れる人の如し。誰か得てこれを倒さむ。又空屋の如し。盜何のためにか入らむ。善いかな。奪ふべからざる立脚點は立脚點なしといふ立脚點なり。善いかな。爭ふべからざる形而上論は形而上には見るところなしといふ形而上論なり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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