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#975 わが見るところを以てすれば……

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

次に逍遙子はシエクスピイヤを論ぜし無名氏の語にて圓滿なる意味にての模倣といへるを紹介せり。蓋し逍遙子は模倣に高級なるものと低級なるものとありとして、その高級なるものを神を師とすといひ、その低級なるものを貌を師とすといへり。所謂圓滿なる意味にての模倣は神を師とする高級の模倣なりとぞいふなる。
わが見るところを以てすれば、模倣は必ず低級なるものにて、まことの藝術上の製作は無意識の作用なること屡々論ぜる如し。無意識中なる神來の製作には、たとひ圓滿といふ「プレヂカアト」を添へたればとて、模倣といふ名を下さむやうなし。模倣といふ語には着意の義あればなり、有意義の義あればなり。師神師貌の別に至りては漢學者流の套語に過ぎず。また何の辨ずべきところかあらむ。
次に逍遙子はシエクスピイヤを評せし無名氏が用ゐし「レアル」の語を實と譯し、「アンレアル」の語を虚と譯して、其實を鴎外の所謂實におなじとし、其虚を鴎外の所謂想に適へりとしたり。
われは「アンレアル」を虚と譯せずして、非實と譯す。こは虚實の對の我國及支那の談理者に濫用せられたるを嫌ひてなり。現[ゲ]に無名氏の實は我が所謂實に應じ、無名氏の非實はわが所謂想に應じたれど、兩者全く相同じきにはあらず。無名氏はプラトオ論者なりといへば、その實を幻影とし、其非實を本體とすべく、われはプラトオ論者にあらざれば、我實を實在せしめ、わが非實の想を實在せしめず。
次に逍遙子は上に見えたる實非實の縁によりて、おのが活差別相、活平等相の別を立てたることに説き及びて、山房論文に活差別相を個物的なりとし、活平等相を理法的なりと評したるを非なりとせり。
逍遙子のいはく。活差別相は「ドラマ」の體を觀るに國を萬民としてみる如く、地球を五大洲としてみる如くすることにて、活平等相はおなじ體を觀るに國を一國としてみる如く、地球を一地球としてみる如くすることなり。差別相は實にあらず。平等相は非實即ち想にあらず。又差別相は個物的ならず。平等相は理法的ならずといふ。
わが見るところを以てすれば、活差別相の「ドラマ」に於けること國を觀るものゝ萬民としてみる如く、地球を觀るものゝ五大洲としてみる如しといへるは、曲を其中なる個々の人物としてみるこゝろに相違なかるべく、活平等相の「ドラマ」に於けること國を一國と觀じ、地球を一地球と觀ずる如しといへるは、曲を一曲としてみるこゝろに相違なかるべし。曲を其中なる個々の人物としてみるは、我地位よりしても、かのシエクスピイヤを評せし無名氏の實とはしがたし。故いかにといふにプラトオが見るところによるときは、實(即ち無名氏の實ならむ)は創造的αύτοποιητικήなるものにして、曲中の人物は擬造的εἰδωλοποιητικήに過ぎざればなり。されど我山房論文にて、曲を其中なる個々の人物として見たる活差別相を、個物的なりといへるに、又何の妥ならざるところかあらむ。さて曲を一曲として見ることの、無名氏の想即プラトオの理想にあらざるは、我地位よりも知らるゝなり。故いかにといふに、プラトオが理想界は天外にあり(ὑπερουρáνιον)といふに、詩人の手に成りたる戲曲は、プラトオが説に據るときは實世界のいやしき模倣に過ぎざればなり。されど我山房論文にて、曲を一曲として見たる活平等相を、法律の萬民を一國にまとむる如く、地理の五洲を一球に統ぶる如き論理的因果的なるものdas Logischeと評せしに又何の妥ならざるところかあらむ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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