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#997 これにて没理想論争終了だぁ~!!!

さて……一年近くかかりました。#661からずぅ~っと「没理想論争」関連の論文を読んでいました。それも今日でもって、いよいよ最終回です!!!

いやぁ~長かったなぁ~

では、いよいよ鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきますよ!

評定のうちには又、こたび早稻田文學の時文評論記者がわが山房論文に答ふるに戲文もてしたるを常見和尚に難ぜさせ、折衷之助をして敵に權變ある上はわれも奇兵を出さむこと然るべしと辨ぜしめたり。
わが見るところを以てすれば、辨難の文はいふもさらなり、批評の文にも權變あるは爭ふべからざることなれども、そを戲文を以て論文に代ふる分疏[イイワケ]にせむはいかゞあるべき。逍遙子が眞面目なる語をなすと、戲文を作るとは、吾が關するところならねど、世に逍遙子が才なくして、華文を作りて審美上の論をなし、遂には虎を畫いて狗[イヌ]に類するが如き人出でなむことをおそれ、ここに昔年シヤスレルが審美的華文の弊を論じたる卷(審美學首卷四六面以下)の中より一ひら二ひらを鈔出して、聊[イササカ]我草紙を讀むらむ人の戒とす。
シヤスレルのいはく。審美的華文を作るものは、その作るところに詩趣あるやうにおもはるゝを奇貨として人を欺き、欺かれたる人はその文致の非凡なるを稱するに至る。ジヤン・ポオルは審美上に善く事を解する人なりき。その説くところの裏面には多く眞理ありけれども、性癖にして文奇なるがために、しば/\論斷の過失に陷りき。後の世に出でゝこれを學ぶものは、殆ど審美學の寄生となりさがりて、技藝の家に此學の納れられざる媒とさへなりぬ。されど普通教育を受たりといへどもまことの識見なき俗間の人には華文の毒に中[ア]てらるゝものいと多かり。さるは彼等その大膽なる言葉におどろかされ、その苦もなく讀まるゝことの心安さにいざなはるゝを以てなり。華文家はまことの思索家の言葉には含蓄多くして修飾少きを、乾燥なりと笑ひ、氣焔なしと嘲りて、おのれが音節をとゝのへ、誇張を事としたる文の中に、果敢[ハカ]なき思想を包みたるを恥とせず。その弊まことに言ふに堪へず。又專門審美家のうちにも粧飾語を弄ぶものあり。粧飾語はおほむね序におほく、篇の首におほし。此類の學者は先づ人を香なき造りばなに等しき文字もて飾りたる花苑に導きて、それよりさう/″\しき技藝史の菜圃に案内する習なるが、その花苑と菜圃との境にて文體の俄に變ずるさまいと可笑し。此類の學者は能く自ら欺き、また能く人を欺けども、人ありてその繁文を削り、その要旨を尋ねむとするときは、或はその包めるところ何の思想をもなさゞることあり、或は極めて平凡なる意味となることあり、或はその筋違なる想像なるを見ることありといへり。
軍評議ありし夜、逍遙子が夢に見えにきといふ文珠菩薩の

剛意見

はたゞ智慧もなき息爭の勸告なり。我もあながち戰を好むにあらねど、逍遙子がジヤン・ポオル、カアライルにもをさをさ劣るまじき審美的華文をあらはしたるに、これを評論せざらむこと、口惜しかるべうおもひなりて、果は最終の言葉を出さむことの影護[ウシロメタ]さをさへ打ち忘れてなむ。

と、ここで「早稲田文学の後没理想」は終了します!

なんとも、中途半端なかたちですが、これにて「没理想論争」は幕を閉じます!

内容の理解は一旦置いておいて、ひとまず、読み切った自分を褒めたいと思います!w

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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