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あなたも時代に取り残された表現者になってしまうかもしれない。抗えない時代の流れについて思う。『デタラメだもの』

何かを表現する者にとって、常に抗わなければならないのもの、それは時代の変化だったりする。もちろん、人々の共感を得ようと思ったら、新しいものに敏感であったほうがいいのは言うまでもない。しかし、問題は別のところにある。そう。過去作がどんどんと時代遅れになってしまうという危険性だ。

流行というものは必ず古びてゆく。なぜかって? それが流行ってもんだから。出会い頭的に人々に支持されるからこそ流行。となれば、また別のものが出会い頭的に出現した折には、皆々様方の興味関心はそちらへと移行する。そして、ひとつ手前に流行ったものを愛好している人を捕まえて人は、「へぇ。まだそれやってるんだ!」などと嘲笑する。

例えば、『彼への想いが募り、夢中で公衆電話から彼に電話をかけた』という歌詞を目にしたとき、どう思うだろうか。公衆電話? 携帯電話から電話したらええやん。そう思うのは当然だろう。だって今や、公衆電話を目にする機会なんて、ほとんでなくなってしまったんですもの。

でもね。ポケットからスッとスマートフォンを取り出し、トントトンと指先でタップし、彼に電話をかける様子と比べれば、息を切らし走って探した公衆電話に勢いよく飛び込んで彼に電話をかけるほうが、彼への想いの熱量は伝わるってもの。しかしだ、時代はそんなことを許さない。公衆電話を遠い記憶の向こうへと追いやってしまう。

そう考えると、少し前に大流行したタピオカドリンクだって、じきに古くなる。『彼とデートで飲んだタピオカドリンク。まるで恋の甘さみたいで、思わず彼にウインク』なんて歌詞は、きっと遠い記憶の向こうへと追いやられてしまう。どれほど強大な流行をもってしても、この流れには抗えないわけだ。

そう考えると、その時代における最先端なものは表現に用いない。そんな風にルールを設けて表現活動をするほうが無難ってものだ。そうすることで、時代とともに、作品までもが古くなってしまうリスクを回避できるってわけだ。あははん。なるほどね。天才やん。と思ってはみたものの、如何せん表現というものは、時代を反映するほうが人々の興味関心を強く引けたりもする。ここが難しいところだ。

そりゃそうだよね。その時代のヒット曲を狙おうと思ったら、彼とのデートで召し上がるのは、永遠のスタンダードである<白米>よりも、トレンドの<タピオカドリンク>のほうがいいに決まってるよね。

ん? ちょっと待って? よくよく考えてみると、公衆電話は別に大流行したわけでもなく、単なる人々の通信手段よね? タピオカドリンクのようにグイグイと出しゃばってきたわけじゃないよね。街なかに凛と佇んでいただけよね。それなのに遠い記憶の彼方に追いやられるのって、あんまりじゃない?

そうなのです。何がいつどこでどう"昔のモノ"扱いされるかは、当の表現者は予見できないわけなのです。ここが難しいところ。だって、恋人を表現するカップルって言葉も、その昔はアベックって呼んでたりしたじゃない。アベックって表現が使われてる歌詞や小説なんて、ザラにあるのですよ。嗚呼、実に恐ろしい。言葉は生き物。年を取ってしまうというわけですね。ぐすん。

「あとで写メール送っとくね!」そう。携帯電話の端末で写真を撮り、それをメールに添付して送信することを写メールなんて呼んだが、今では違う呼称がある。写メと呼ぶのかな。いや、それさえももう古いのかな。「あとで写真送っとくね!」が正しいのかもしれない。

当時は携帯電話の端末で写真を撮ることも新鮮で、さらにそれをメールという伝達手段で送ることができるという真新しさゆえに新語ができていたのだとすれば、今の時代じゃそんなこと当たり前のこと。当たり前のことに、殊更あたらしい言葉を使うわけがないもんね。

ほらほら表現者の皆々様方、そろそろ言葉選びに苦しくなってきたんじゃあないでしょうか。きっと、イケメンだって古くなるぜ。スマホとか自撮りって言葉だって危なっかしいところだぜ。表現のなかに何気なく使っている言葉。それらのうちのどの言葉が、"昔を象徴する言葉"になってしまうか、わかったもんじゃないんだぜ。恐ろしいだろぅ。

そして今現在に目を向けてみると、世界は未曾有の感染症の渦中にいる。まるで前例のない状況に、人々はどこに向かえばいいのか見定められないでいる。それと同時に、世界の常識は今後、大きく変わっていくことが予想されるわけだ。それが表現にとって、どのように影響するのだろうか。

もしかすると今後、カラオケという文化がなくなってかもしれない。密室で複数人が集い、歌唱することがリスクとみなされ続ければ、客足は減少し経営も厳しくなる。経営が厳しくなるということは、そのサービスの継続が困難になることを意味する。とどのつまり、文化が消滅してしまうわけだ。

その瞬間、カラオケという言葉を用いた表現は過去のものになってしまう。未来の人からすると、「へぇ、そんなサービスあったんだぁ」という扱い。要するに、遠い過去の向こうに追いやられてしまうわけね。

大勢がライブハウスに集い、揉みくちゃになりながら激しい音楽に興じるライブのあり方も変わっていくかもしれない。客同士が適度な距離を保ち、場合によっては並べられたパイプ椅子に礼儀正しく座って鑑賞するのが、全てのライブの常識になるかもしれないわけだ。

飲食店という文化だって、今後どうなるかわからない。お店に足を運び、愉快な会話を楽しみながら食べたり飲んだりする文化が消滅してしまう可能性だってある。自炊以外の飲食は全て、デリバリーになるという日が。

飲食店のみならず、お酒を嗜む居酒屋やバーの類までもが消滅してしまったとしたら? これまでに生み出された表現の中で、友人・知人・恋人・家族とともに、居酒屋やバーを訪れ、そこでの会話をきっかけに展開された物語がどれほどあっただろうか。それらの全てが、遠い過去の記憶になってしまうことになる。表現者にとって由々しき問題なのですよ。

インターネットのサービスが充実しまくっている現代。家にいながらでも、たいていのことは実現可能だ。それを最大限に活用し、感染症と戦うことになったとき、つまりは、ずっとずっと家にいることこそが、感染症に打ち勝つ術だと決定づけられたとき。それで人類が勝利を収められるのなら、それを否定する理由は微塵もない。

しかしだ、表現者としては苦境に立たされる。だって、人間という生き物は常に家の中にいて、各々がインターネットを活用しながら、欲望やら煩悩やらを満たし、笑ったり泣いたり夢を叶えたり。全ての描写が、自宅の中で巻き起こる世の中になってしまうわけで――そうなれば、何を書けばいいのだろう。何を伝えればいいのだろう。

いや、表現者たる者、いかなる状況でも毅然と立ち向かうのみだ。人が生きている限り、そこには無限の物語が広がっているはず。よし、負けじと物語を紡いでいくぞ。

そんな風に意気込み執筆に没頭。根を詰めすぎた。ちょっと息抜きを。そういえば数ヶ月前から、近所の商店街にタピオカドリンクの店ができていたなぁ。それを思い出し、ふと足を運んでみる。するとそこには、あったはずのタピオカドリンク店の姿はなく、たこ焼き屋に変わってしまっていた。これも時代の流れか。それとも、大阪という地がたこ焼きを武器に、タピオカを駆逐しただけかもしれない。

デタラメだもの。


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